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『神化』1
蠅が蜜に落ちる。
体のどこもかしこも、部位の別なく蜜に絡めとられて動かなくなる。
『イスティグラーク:istighraq』
すなわち忘我の境地というのは、このような状態を指す。
自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。
その者より生じるいかなるものも、
全てその原因はその者に属するものではない。
水に溺れてもがいている者、あがいている者、
「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、
そうした者は未だ『イスティグラーク:istighraq』に至ってはいない。
『アナー・アル・ハック:Ana 'l-Haqq』
すなわち「われは真理なり(神なり)」2という言は、
この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。
人びとは考える、何という暴言、何という傲慢、と。
人びとは考える、
『アナー・アル・アブド:Ana 'l-'abd』
すなわち「われは神のしもべなり」、
という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。
断じて違う。
『アナー・アル・ハック:Ana 'l-Haqq』
「われは真理なり(神なり)」こそが、真の謙譲を表わす言である。
『アナー・アル・アブド:Ana 'l-'abd』
「われは神のしもべなり」と言うとき、
その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。
しもべ、などと上辺では卑しみつつも、
しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。
自己などというものを未だ捨て切れずにいるのである。
『アナー・アル・ハック:Ana 'l-Haqq』
「われは真理なり(神なり)」と言うとき、
その者は自己を消滅し尽くしている。
そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
ただ神のみが存在する。
これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。
2008.01.
*1『フィーヒ・マーフィーヒ』49.
*2「われは真理なり(神なり)」については、『イブリースの告白』注釈も参照のこと。
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