Selected Poems of Rumi
ルーミー詩撰:ジェラールッディーン・ルーミー


『見せかけの知識』


ねえきみ、 きみはいったいそれを知っているのだろうか、
きみはそれを理解しているのだろうか。
それともきみは、薄々は感じているのだろうか?
君の学んできたことなど、まるで子供だましの、
葦の茎のように、脆くはかないおもちゃであることを。

心で憶えたことなら、それはきみの翼となって、
きみは今すぐにでも空よりも高く飛び去るのだろう。
けれど体に染み付いてしまったことなら、
それはきみにとって、背負わされた重荷でしかないだろう。
かみさまだってこんなふうに言っている、
—『書物を運ぶろばよ、あわれなものよ』1と。

けれどかみさまのこぼす、あわれみなどには背を向けて、
重荷を運び続けるのも、それはそれでわるくはない。
無心に、ただひたすらに歩いて行けば、
きみはいつか、辿り着かずにはいられないだろう。
そのとき重荷は取り去られるだろう、
そこで初めて、きみは歓びの何たるかを知るのだろう。2

それを知ることなしに、どうして自由になることなどできるだろう?
きみというきみの全てが それのしるしそのものだというのに。
きみが見ているそれ、感じているそれを、人はまやかしと呼ぶだろう。
けれどまた同時に、まやかしほどに真実へと至る道を知らせるものはない。
いったい、リアリティを含まないファンタジィなどあるだろうか?3
それとも、きみは「薔薇」という文字から花を摘み取ったことがあるか?4
きみはその名前を知ってはいるだろう、だがそれだけで、
きみはほんとうに「薔薇」を「知っている」、と断言できるのか?

名前の背後に何が隠されているのか探すといい。
月はいつでも空にある、水面に映るのはただの影に過ぎない。
きみはきみの心ひとつを信じて行け、
全ての偏見、全ての誤解、全ての常識からきみ自身を無垢にして。
きみの心の中には、全ての知識がすでに用意されている。
それを信じて進め、書物を捨てて、理解を捨てて、学んだ全てを捨てて。



2007.11.


『精神的マスナヴィー』1-3445.

*1 コーラン62章5節。

*2 または、「神があなたを、真の知識で満たすだろう」。

*3 「ファンタジィ(khayal)」と「リアリティ(Haqq)」。神の属性あるいは特質を表わす美名の数々は、全て神そのものではなく神の影のようなものに過ぎない。それでも、そうした美名の数々をスーフィ達は復誦する。その意味について繰り返し熟考することは、目的から逸れない限り、愛に近づく最良の道であることを暗に示唆する。

学び続ければ、最終的には誰しもが「名前(ism)」もしくは「名付けられたもの」が、「名付けるもの(musamma')」と同一であることを知る。「名前」とは、究極的にはその「本質」を隠す「ヴェイル(覆い:hijab)」であり、それを「知る」ためにそもそもヴェイルが用意されていたことに気付くのである。

*4 名前は、確かに本質ではない。だが同時に、名前と本質とは切っても切り離せるものではない。それはファンタジィとリアリティが、相反しつつ補い合っているのと同じである。

ペルシア語で薔薇は「gul」。「gaf(ガーフ)とlam(ラーム)から、gulを摘めるか?」。


back to > Selected Poems of Rumi
back to >> Index