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『見せかけの知識』
ねえきみ、
きみはいったいそれを知っているのだろうか、
きみはそれを理解しているのだろうか。
それともきみは、薄々は感じているのだろうか?
君の学んできたことなど、まるで子供だましの、
葦の茎のように、脆くはかないおもちゃであることを。
心で憶えたことなら、それはきみの翼となって、
きみは今すぐにでも空よりも高く飛び去るのだろう。
けれど体に染み付いてしまったことなら、
それはきみにとって、背負わされた重荷でしかないだろう。
かみさまだってこんなふうに言っている、
—『書物を運ぶろばよ、あわれなものよ』1と。
けれどかみさまのこぼす、あわれみなどには背を向けて、
重荷を運び続けるのも、それはそれでわるくはない。
無心に、ただひたすらに歩いて行けば、
きみはいつか、辿り着かずにはいられないだろう。
そのとき重荷は取り去られるだろう、
そこで初めて、きみは歓びの何たるかを知るのだろう。2
それを知ることなしに、どうして自由になることなどできるだろう?
きみというきみの全てが それのしるしそのものだというのに。
きみが見ているそれ、感じているそれを、人はまやかしと呼ぶだろう。
けれどまた同時に、まやかしほどに真実へと至る道を知らせるものはない。
いったい、リアリティを含まないファンタジィなどあるだろうか?3
それとも、きみは「薔薇」という文字から花を摘み取ったことがあるか?4
きみはその名前を知ってはいるだろう、だがそれだけで、
きみはほんとうに「薔薇」を「知っている」、と断言できるのか?
名前の背後に何が隠されているのか探すといい。
月はいつでも空にある、水面に映るのはただの影に過ぎない。
きみはきみの心ひとつを信じて行け、
全ての偏見、全ての誤解、全ての常識からきみ自身を無垢にして。
きみの心の中には、全ての知識がすでに用意されている。
それを信じて進め、書物を捨てて、理解を捨てて、学んだ全てを捨てて。
2007.11.
『精神的マスナヴィー』1-3445.
*1 コーラン62章5節。
*2 または、「神があなたを、真の知識で満たすだろう」。
*3 「ファンタジィ(khayal)」と「リアリティ(Haqq)」。神の属性あるいは特質を表わす美名の数々は、全て神そのものではなく神の影のようなものに過ぎない。それでも、そうした美名の数々をスーフィ達は復誦する。その意味について繰り返し熟考することは、目的から逸れない限り、愛に近づく最良の道であることを暗に示唆する。
学び続ければ、最終的には誰しもが「名前(ism)」もしくは「名付けられたもの」が、「名付けるもの(musamma')」と同一であることを知る。「名前」とは、究極的にはその「本質」を隠す「ヴェイル(覆い:hijab)」であり、それを「知る」ためにそもそもヴェイルが用意されていたことに気付くのである。
*4 名前は、確かに本質ではない。だが同時に、名前と本質とは切っても切り離せるものではない。それはファンタジィとリアリティが、相反しつつ補い合っているのと同じである。
ペルシア語で薔薇は「gul」。「gaf(ガーフ)とlam(ラーム)から、gulを摘めるか?」。
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