"Selected Poems of Rumi" Jalal al-Din Rumi, Maulana : R.A.Nicholson
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『ルーミー詩撰』:解説<2>


文学者としてのルーミーは、その質・量とともに圧倒的な作品群を遺している。約2500の神秘的頌詩から成る『シャムスィ・タブリーズィ詩集』や、全6巻、およそ25000対句が収録された『マスナヴィー』、そして約1600詩句の『ルバイヤート(四行詩)』などがその代表作として数えられる。

自身の宗教哲学を表明するにあたり彼が採った手法は、ガズナ出身のサナーイー、ニシャープール出身のファリード・ウッディーン・アッタールという彼以前の二人の偉大なスーフィー詩人によって形成されたものである。

彼自身、二人の先達に負うところを包み隠そうともしていない。ともあれ彼の飛行はより広い範囲にまで及んでいる。主題はより豊かで変化に富み、またそうした主題を扱う彼の手さばきはまさしく「新しいスタイル」と呼ぶにふさわしく独創的である。驚くべき繊細さを含んだ複雑なそのスタイルを、一言で分析するのは非常に困難である。それでも、全体を通して見れば疑いようもなく明らかな特徴が見てとれる。

それは『マスナヴィー』において完全に開花し遺憾なく発揮されている。論理的結合を敢えて無視し、慣習に対しては果敢に抵抗し、庶民的な俗語を大胆に取り入れ、誰にでも馴染みのある生活感漂う出来事や事件などを主題としてふんだんに採用する。自由奔放を目の当たりにした読者が味わうのは興奮の感覚である。その詩は、人跡未踏の大海原である。そこに境界線はない。言語の「殻」と意味の「核」を隔てる一線が、内的感覚に関わるおびただしい量の解説と教義により取り払われていく。

「マスナヴィーは」、彼は言う、「合一を売る店である。唯一の御方(神)を除いて、そこにある全ての品物は偶像である」。存在という名の戦場を渡り歩き、神秘主義者のみが持ち得る認識力によって彼は喝破するのである、あらゆるものは全的な調和の中にあり、対立と不和もまたそれぞれに与えられた役割を果しているに過ぎない、と。

スーフィーの汎神論もしくは一元論は、以下の主張を伴っている。

(a) 全存在の超越的な根源であるところの、「唯一の、真の実在」が存在する。この実在は、あるいは神(聖なる本質)として、またあるいは世界(隠れた本質が顕される現象)として見なされる。

(b) 創造は時間の範疇にはない。神的な自己顕現とは、永遠の連続的過程である。万物はおしなべて変化し消滅し、それは休む間もなく繰り返されるが、その本質それ自体は永遠に神と共に存在する。その(万物の)全体像が、神の知識の中に存在しなかった時など一瞬たりとも無かった。

(c) ありとあらゆる現象の、限定的な側面の中であってさえも神の存在は顕される。その意味において、神は内在する。同時に、神はまた「絶対的な実在」である。その意味において、神はありとあらゆる現象から超越している。

(d) 神的本質は不可知である。神の在りようについては、神はコーランを通して明らかにされた名前と属性によって私達に知らしめている。本質においては同一であるが、私達の視点の相違によって、神の属性は多様でありまた互いに対立する。現象としての世界を構成するのはこの分化である。現象としての世界においては、私達は善と悪との見分けることは出来ず、従って絶対的な善というものを知り得ない。実在の領域においては、悪などというものは存在しない。

(e) 「われを知らしめるために、われは被創造物を創造した」という聖なる伝承に従えば、神に属する知識の全内容は、この宇宙において、中でも特に人間において著しく客観化される。神的意識が、全宇宙を体系づけ、内在する合理的な原則(ロゴス)を支配し動かしている。それ自体は、「完全なる人間」を通して示される。最高位にあたる「完全なる人間」はムハンマドの精神あるいは実存に先在し、その「光」は連綿と続く預言者もしくは聖者の系譜を照らしている。「完全なる人間」とは神と、神の唯一性を理解した者である。真正な像であり神の顕現でもある「完全なる人間」こそは創造の目的因であり、彼を通してのみ、神もまた神自身を完全に意識することとなる。

以上が、ルーミーの詩におけるおおよその主題となっている。特に彼自身が最初の提唱者であるわけではない。これらの主題は、9世紀以降の長きに渡るスーフィーの思想家達の継承の途上で徐々に発展したものと考えられるだろう。それを明確に著述し、集約したのが有名なアンダルシアの神秘主義者イブン・アル・アラビー(1165-1240)である。

イブン・アル・アラビーは、イスラム的汎神論の父と呼ばれるにふさわしいあらゆる権利を所有している。系統や接点も皆無であったところから、あらゆる局面の詳細をつぶさに研究することに、彼はその厖大な知識と想像力の全てを捧げた。そして全体から見れば、彼は世界史上において最も偉大な記念碑であろう神秘主義理論の体系を構築したのである。

かつてルームを訪れたこともあり、のちにダマスカスで逝去した同時代の年長者の語彙や思想の一部をルーミーが援用したことは明白だろう。だがそれがどれほどのものであったか、負債が莫大であるとするのは論証に欠くところである。後世の解説者達のうち、とりわけ形式に拘泥し、イブン・アル・アラビーの「叡智の台座」「メッカ啓示」は通読するが「マスナヴィー」については門外漢といった人々による誇張が大部分である。

アンダルシア人(イブン・アル・アラビー)は常に確固たる哲学上の目的と共に著述する。あるいは、広範囲にわたる概念の論理的発達と定義することも可能だろう。彼の思想の多くは、こじつけともとれる専門的事項に占められた弁証法によって表出される。ルーミーは、そうした目的というものを持たない。E.H.ウィンフィールド卿が述べる通り、彼の神秘主義はカトリック的感覚で言うところの「教義的に非ず」、しかしより「経験的」である。

彼は頭脳よりも心に訴える。学派の論理を軽蔑し、学問体系の構成要素を語るときですら、哲学的言語に頼ることをしない『マスナヴィー』を説明するのに、『神曲』においてダンテが語った言葉が、素晴らしく良く当てはまっている。「詩とは、哲学から枝分かれした道徳もしくは倫理に連なるものである。推論的ではなく実際的であるところにその価値がある。その究極の目的とは、今、ここで、生きることの悲哀に耐えている人々を至福の状態へ導くことにある」。※

娯楽的な経路を数多く用意しつつも、『マスナヴィー』全体の性質は教育的なものであり、多様な弟子達の啓蒙を目的とした著作と評価するのが適している。比較すると『ディーワーン』『ルバーイヤート』のスケールはさほど大きくは無く、その主張は私的かつ感情的である。イメージ、スタイルならびに語的感覚においては『マスナヴィー』とも非常に密接しているが、その詩句及び連句は、至るところにおいて伝統的な神秘主義に連環している。これらの詩の一部には、神秘主義者の熱情があふれんばかりに表出している。彼の想像力は限界をはるかに超え、読者達は狂気のごとき神的経験の断片を垣間見る。

知識人ルーミーの強靭な知性は、神秘主義者ルーミーの熱狂に降伏することはしなかった。抜き差しならぬぎりぎりの崖淵へ読者を追い込んでから、彼は不意に一線を引く。ある特定の問題に関する秘密とは、言葉で伝えるにはあまりにも神聖であるとする意識の一線である。メヴレヴィー教団における精神的交流の場においてこれらの詩が朗読される際に、多くの冷静な参加者達までもがほとんど制御不可能な興奮を引き起こされたと聞いても、決して驚くには当たらないだろう。

ペルシアの神秘主義的風土の絶頂はルーミーの中に見出せる。スーフィー詩という広大な景色を俯瞰したとき、彼はひときわ目立つ崇高な山頂である。比較すれば、それ以外の多くの詩人達は山麓に過ぎない。彼以降の詩人達は、死後数世紀を経てもなお彼の思想と作品の影響を強烈に感じさせている。

ペルシア語の素養ある詩人ならば誰もが何の疑いもなく彼を精神的指導者と看做してその教えを継承した。西欧において、彼の才能の偉大さは今ゆっくりと確実に理解されつつある。この書の1ページ1ページには、彼の遺した作品が収録されている。かの偉大なる学者に最大級の賛辞を捧げる。読者達に対して、世界の文学を見渡しても、彼の与える霊感と歓喜を凌ぐほど詩人は彼以外には絶無であることを、彼は完璧に証明してみせるだろう。


※ ニコルソン教授のノートはここで終わっている。


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