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『ルーミーがマスナヴィーに関して言ったこと』
『礼儀と尊敬を交わしあうことについて』
『愛だけが神の秘密を知らせることについて』
『神と天地創造について』
『見ることにより見失うことを畏れるひと』
『ルーミーがMasnaviに関して言ったこと』
これはマスナヴィー、対句集である。『宗教(3-19)』の、根の根であり、更にその根にあたる。神との繋がりを獲得するための秘密をあきらかにし、また、その繋がりを確実なものとする。自身の成長と、その不思議とを心から切望する者にとって、これは『素晴らしい館、心地よい安息の場(25-24)』となる。
行い正しい者はこの書物のなかに食べ、かつ飲み、 こころ自由な者はこの書物のなかに喜びと楽しみとを見い出す。
これはエジプトのナイルのようなもので、 敬虔な信者にとっては純粋な飲みものとなるが、 ファラオの追随者達や、不信者にとっては悲嘆の種となる。 『それにより神は多くを迷うにまかせ、また多くを正しく導かれる(2-26)』 と言われた通り。
なぜならこの書物は、 こころの治療薬であり、 悲痛を磨き輝かせる研磨剤であり、 クルアーンを解き明かすものであり、 富ませるものであり、 性質と傾向とを浄化するものだからである。
『虚偽は前からも後ろからも達することは不可能である(41-42)』 また、神は全てを御存じであり、これを保護なされる。 『神は最大の保護者であり、慈悲深い方々の中では最も慈悲深い方(12-64)』 神は最も高く、全ての称賛は神に属する。
2005.04.
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『礼儀と尊敬を交わしあうことについて』 masnavi vol.1 78-92
無礼者とは 神の優美の恩恵より除外された者を指す
礼儀と尊敬とは 神の好意の裡にのみ求めて学ぶもの
不作法者は 苦悩をひとり孤独に耐えることなく
世界のあらゆる方向に向けて火の粉をまき散らす
祝宴とは 商談や交渉などとは一切無縁の
それは天から届けられる贈り物
にも関わらず
ムーサーを取り巻いた人々の中 幾人かが不粋にもこう尋ねた
『にんにくはないのか?ひらまめはどうした?』
食卓はたちまちにして消え去り
天の恵みはもはや我らには届かず
我らに残されたのは骨の折れる労働 耕すための鍬と 刈り取るための鎌と
その後 イーサーが執り成した祈りは
再び 有り余るほどの恵みと 食卓とを我らの許に届けたが
この時もまた 横柄な者 礼儀と尊敬に欠ける者は
食べ物をつかみ取り 奪うように去った
イーサーは熱心に説き明かした
『これらの恵みは 途切れもせず失われることも無いというのに』
疑り深さと貪欲さとを 神の壮大な恵みの食卓に持ち込むとは
神の恩恵を拒絶し 忘れ去ることとほとんど紙一重に等しい
物乞いのような顔つき
貪欲さゆえに盲目となった彼ら自身の手が
慈悲の門を 彼ら自身に対して閉ざす
ほんのわずかな施しすら拒否した後では
慈雨を運ぶ雨雲も訪れはしない
恥の行為の後には 疫病はあらゆる方角へと拡まるもの
あなたの無謀さと横柄さ故に 暗澹と悲嘆があなたを訪れる
愛する者へと至る道の途上において不粋に振舞う者は
白昼 他の者から盗みを働くも同然 ひとであってひとではない
礼儀と尊敬を理解したとき 諸天は光に満ち
天使達は無垢で純粋であるが
横柄さは日蝕を招き 事を急いだが故に
アザジールは天使の領域から遠ざけられる
2005.04.
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『愛だけが神の秘密を知らせることについて』 masnavi vol.1 109-116
愛の病気に罹患すると こころの痛みという症状がそれを知らせる
こころの痛みは 他のどんな病気とも取り違えようがある筈もない
愛を知った者の「病気」はその他のどのような病気とも比べ得ない
愛は神の秘密を知らせる 宇宙を知らせるアストロラーベのように
愛を知る者となる原因は様々あるが 突き詰めればそれらは全て
我らをして始源の愛へと導く案内役に過ぎない
実際に愛に到達する時 私は
語ったことの全て
書いたことの全て
説明したこと全ての稚拙さに ただ恥じるばかりである
舌によって語られた事柄は教訓には成り得るが
しかし舌を持たぬ愛こそがより鮮明に愛を語る
(ほんとうのあいほどおしゃべりはしないもの)
筆を急がせて 愛について書き連ねたところで
愛に到達した瞬間に 筆は自ら粉々に砕け散る
いくら証明しようとあがいたところで
知性は泥に横たわる無力なろばのよう
愛を説明し得るのも 愛を証明し得るのもまさに愛そのもののみなのだ
太陽そのもののみが太陽を語りえる
もしも確かな証拠を欲するのならば
愛にのみ求め 愛から顔を逸らすな
2005.04.
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『神と天地創造について』 masnavi vol.1 596-610
貴方からの別離のために
我らの眼からは涙がこぼれる ふかいためいき
それは魂の深奥からながれる
ものごころつく前のあかんぼうは 乳母と議論したりせず
ミルクが欲しいのなら ただ泣くだけでよい
我らは竪琴 かき鳴らすのは貴方
憂鬱な旋律も我らからではなく 奏でているのは貴方
我らは葦笛 我らの裡なる音色は貴方が下されたもの
我らはチェス 捉えられ王手を詰まれ
捉えるのも王手を詰むのも 美しい諸々の特質を備える貴方
主よ 我らが魂の魂よ 我らとは一体何者か
それを知るために 我らは我らの核を貴方と共に在らしめなくては
貴方という絶対存在なしに我らなるものなど在りはしない
貴方という絶対存在があって我らは現象として在らしむる
我らは獅子 ただし旗に描かれた
風が絶え間なく吹いてこそ旗は旗で在りえる 獅子もまた
旗は眼に見えても 風は眼に見えない
眼には見えないそれを失うことのないように 我らは祈る
我らを運ぶ風と 我らは貴方からの贈り物
我らは貴方よりもたらされた者
我らをして貴方を愛する者とし
貴方という存在の歓喜を我らに知らしめる
我らより取り上げ給うな
貴方の愛を 砂糖菓子を ワインを ゴブレットを
もしも貴方がそれらを取り上げ給うのならば
我らは何を導きとして貴方を探せばよいのか
描かれた絵画に どうして画家を描けようか
我らを凝視しないでください もはや我らを見ないでください
御覧下さい 貴方御自身の手による栄誉と寛大さとを
我らはかつて一度たりとも存在せず
我らによるものなど何もなく
ただ貴方の栄光が我らの無言の祈りを聞き届ける
2005.04.
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『見ることにより見失うことを畏れるひと』 masnavi vol.2 446-457
ある日 あるひとが彼の敬虔な友人にこう話しかけた
「君の眼には さぞかしこの世の全てが罪深く見えるのだろう」
友人の問いかけに そのひとは応える
眼というものは 見るか あるいは見ないかのどちらかであり
もしも両の眼が 神の光を見るのなら それ以上は何も望まないし
そしてもしも それが不可能ならば 私の両の眼は一体何のためにあるのか
そのような眼には光の扉は閉ざされてしまう
外の景色を案ずるよりも 裡なる魂を案ぜよ
あなた自身を迷いなき道へと 誇り高く乗りあげろ
あなたの魂があなたの導き あなたの裡に備わっている
魂に尋ねよ 秘められた贈り物のありかを
そしてそれが あなたの現身の奴隷と成り下がらぬように
あなたの現身は あなたの導きとはならないのだから
昔語りの愚者のように成り果てぬように
生命を無駄に費やさぬように
現身の渇望は 満たしても満ち足りはしないのだから
どうしてムーサーがフィルアウンを信用出来るだろう
あなたの心を 日々の糧に悩ませるな
心には いつでも数々の祝宴が繰り広げられているのだから
現身は真夜中の暗闇にうちたてられた天幕
肉体は箱舟 魂はヌーフ
天幕の中に見捨てられ 生まれたまま ありのままで硬直したそれは
精華され 愛される者へと 天の高みへと漕ぎ出るだろう
2005.04.
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