مثنوی معنوی - "Mathnawi ye-Manawi" Mawlana Jalal-Din Muhammad al-Balkhi Rumi
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「アリーと、彼の顔に唾吐いた者:何故にアリーは剣を捨てたか」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー


誠実であることについてはアリーに学べ。神の獅子アリーには、欠片ほどの偽りも無かった。彼が異教の騎士と戦場で往き合った時のこと。敵を討ち取ろうと、彼は素早く剣を抜いた。すると男はアリーの顔に唾を吐いた、全ての預言者と聖者の、誉れである彼の顔に。月さえも腰を低く屈めて拝もうというその顔に、男は唾を吐きかけたのである - 何という侮辱!

ところがアリーは、すぐさま剣をその場に捨て、漲っていた戦意を和らげたのである。事を起こさず、容赦と慈悲を示そうというその振る舞いに、さしもの騎士も仰天した。彼は言った、「あなたは鋭い剣を振るい上げ、私を叩き切ることも出来た。それなのに、何故にその剣を脇に捨てたのか。

何故に、私の命を惜しむのか。私を追いつめ、私を殺すことを押しとどめる何があるというのか。私と戦うことの他に、より優れた何があるというのか。まるで雷光のよう、光ったと思えば一瞬にして消え失せてしまった - あなたの戦意を失わせるほどの、何をあなたは見たというのか。

私の心は、魂は、憎悪の炎をまき散らしていた。それなのに、何をあなたは見たというのか。この世の事象を離れ、空間を離れて、何をあなたは見たというのか。それは命よりも良いものか? - そうか。それであなたは、私の命を取り上げなかったというのか。その勇猛さゆえに、人はあなたを主の獅子と呼ぶ。しかし誰が知るだろう、あなたの真の優しさを!

あなたの寛大さは、まるでモーセの雲のようだ。比類無きパンと、食物の載せられた皿を砂漠へ運ぶ」。雲は小麦を人の手に運ぶ。人は額に汗して小麦を挽き、菓子やパンを焼く。だがモーセの雲は違う。モーセの雲は慈悲の翼を拡げて、何の労苦も無く食べるばかりに焼き上げられた料理を、甘い菓子を与える。

恩恵を授かるにふさわしい乏しき者達のためにこそ、雲はその慈悲を旗印として高く世界に掲げる。四十年の間、割り与えられる日々の糧、その気前の良さは、希望に満ちた人々の期待を裏切ることは無かった - やがて彼ら自身が堕落し、葱や緑の香草を、ちしゃ菜を求めるまでの間は(コーラン2章61節)。

ムハンマドに続く誇り高き人々よ、あなた方は知っていよう、神の糧には終わりが無いことを。「私は主と共に夜を過ごし、食べる物、飲む物を与えられた」と預言者が言うとき、そこには一抹の比喩も無い。小賢しい解釈は不要だ、ただこの言葉をあるがままに受け入れれば良い - ただ飲み干せ。そうすれば乳や蜜のように、心地よくのどをうるおし通ってゆく。

そもそも解釈とは何か。それは届けられた贈り物を突き返す行為だ。贈り物の持つ原初の意味を、不完全であると考えるところに解釈が始まる。解釈する者は、新たな意味を付加し、変更しようとする - 不完全と看做すのは、贈り物そのものではなく、解釈する者自身の理解が脆弱であることに起因する。

全的知性は核であるが、私達一人ひとりの個的知性は殻のようなもの。知恵は種子のようなもの、理性は殻に過ぎぬ。書き換えるならばあなた自身を書き換えよ、預言者の伝承ではなく。批判を加えるならばあなた自身の思考に加えよ - 手には届かぬ、捉えることもかなわぬ薔薇園ではなく。

「アリーよ、知力そのもの、視覚そのものの人よ。あなたが見るものの、ほんの片鱗だけでも知らしめてくれ。穏やかさというあなたの剣は、私の魂をまっぷたつに断ち割った。あなたから流れ出た知識の水は、私の泥を洗い流した - さあ、教えてくれ!私には分かる、これぞ御方の神秘、これぞ御方の御業。

剣を持たずして胸を断ち割るとは。手も無く道具も無しに、贈り物を創造するとは。耳も目も、未だ知ることの無い百の葡萄酒を味わわせるとは。教えてくれ、天のために狩る鷹よ - 創造の御方を通して、あなたが知り得たことを、さあ、教えてくれ。封じられた目を持つ者と違い、あなたの目は不可視の世界を見、不可視の世界に学んでいる」。

ところが視覚も聴覚も、私から逃げ去り汝の上に留まり続ける - これは夢か、幻か?それとも御方の隠したもう素晴らしい御業か?汝の上には狼の毛皮が、私の上にヨセフの美貌が。一万八千の世界が在ろうとも、全ての者が一万八千の世界を見渡せるものではない。

「アリーよ、秘密を知らしめてくれ。神に受け入れられし者よ、悪き巡り会わせの後に訪れた良き運命よ。あなたの心に見えているものを明かしてくれ、私も明かそう、私の目の前で輝いているものについて - その輝きは、あなたから溢れ出しているものだ。どうして隠し通せるだろうか?まるで月のよう、語ることも無く光を投げかける。

しかし月の球面が語るならば、夜を渡る旅人もより早く導かれよう。過誤と不注意から、その身を守れよう。月の声は悪鬼の声に優る。声無き月は道を照らす、だが月が声を持てば、光の上に光が重ねられよう。知識の門よ、降り注がれる暖かき太陽の光よ。あなたが門ならば、さあ、開いてくれ。

探し求める者に向けて、開いてくれ、その門を。殻を打ち砕き、核に辿り着かせてくれ。永遠への門を開いてくれ、神の知識へ、『比類無き者(コーラン112章4節)』へと至る門を」。大気と、舞散る微粒子の全てが神の顕現する場。だがこうも長く閉じられていては、誰が言おうか、「これぞ門」、と。

扉を見張る者が扉を開けぬ限り、思考の種は芽吹かない。だが一度その扉が開かれれば、たちまち驚愕と共にそれは芽吹き、希望の翼へと育つだろう。翼が育てば、思考は飛翔を試みるようにもなろう。漫然と過ごしてきた者が、偶然にも廃墟で財宝を見出す。そしてそれ以来、ありとあらゆる廃墟を巡るようになる。

だがたった一人のデルヴィーシュから真珠を一粒得られるものならば、それ以降は他のデルヴィーシュを探しまわる必要も無い。見識や議論というものは、どれほど長いこと流布され続けようが、それ自体の鼻先より遠くへは飛べぬ - 申し述べた者自身の立つところよりも、更に優れたところへと至ることは無い、ということだ。

 - さて。正直なところ、自分の鼻以外のものを見たことはあるか?自分の鼻よりも遠くを見たことはあるか?自惚れに鼻を膨らませていては見えるものも見えないだろう。不可視の世界の芳香を嗅がずして、鼻より先を見た、などと言えるだろうか?剣を捨てたアリー - 神よ、彼を嘉したまえ! - に、敵方の騎士はなおも食い下がって問うた。

「語ってくれ、信者の長よ、貴公子よ。あなたが語れば、私の体内はかき混ぜられる。かき混ぜられれば魂も凝り、胚のように育つだろう」。胚を胎児へと育てるのは七つの惑星、天を巡って順番にこれを養う。やがて全ての惑星が役目を終えると、最後は太陽の出番だ。胎児が精神を宿す時、太陽がそれを助けるのである。太陽に引き寄せられて胎児が動く。

運動の環に連なれば流転が始まる。恩恵が、勢い良く太陽から注ぎ込まれる。その他の惑星が残すものと言えばただ軌道の足跡に過ぎぬ、だが降り注ぐ太陽の輝きは暖かな恩恵、恩寵そのものだ。しかしこの連環はどのようにして起こるのか?子宮の暗がりに居ながらにして、どのようにかの美しき太陽と繋がることが出来るのか?

 - ヒトの目では見ることの出来ぬ、隠された道がある。私達ヒトの感覚からはかけ離れた、隠された方法がある。天に輝く太陽には、ヒトの与り知らぬ多くの道を持っている。その道を辿れば、鉱山の奥深くに眠るそれが黄金にもなる。その道を辿れば、ただの石ころが宝石にもなる。その道を辿ればルビーは赤い光をきらめかせ、蹄鉄は稲妻を帯びて火花を散らす。

その道を辿れば果実は熟し、その道を辿れば臆病者も勇猛果敢な騎士となる - 「語ってくれ、輝ける翼を持つ鷹よ。王の腕を止まり木とし、王の傍で多くを学んだ者よ。語ってくれ、アンカー(不死鳥)を捕える高貴な鷹よ。援軍の助けも無しに、敵軍を討ち取る者よ。

共同体というものに属すならば、私はあなた一人で十分だ - あなた一人で、百人、千人もの味方を得たも同然だから。さあ、語ってくれ。私はもはやあなたに捕えられた獲物に過ぎぬ。何故に、復讐ではなく慈悲を選んだのか。何という道をあなたは辿ろうというのか、竜の手に自らの手を重ねるとは」。

彼は言った。「私が剣を用いるのも、神の命ずるところに従ったまで。私は神のしもべであり、肉体の命ずるところに従う者ではない。私は神の獅子だ、激情の獅子ではない。私の行為の一つひとつが、私の宗教の証言者となる。戦場にあって、この私が明らかにすべきはただ真実のみ。『汝が射止めたとき、射止めたのは汝ではない。神が射止めたもうたのである(コーラン8章17節)』。

私は剣に過ぎぬ、操りたもうはかの聖なる太陽だ。自我という荷物はとっくに捨てている、真に在るのはただ神のみ。主が太陽ならば私は影。私は幕のこちら側で侍る従者だ。幕のそちら側に居るものでも無ければ、幕となって遮るものでもない。私は合一の真珠が散りばめられた者、宝石で飾られた短剣のように。

私は殺すために戦場へは赴かぬ、生かすために赴く。私の剣の輝きを血で覆うことは出来ぬ - どれほど激しい風だろうと、私の雲を吹き飛ばすことは出来ぬ。私は山だ、藁ではない。私は山だ、寛大と忍耐、そして正義の山だ」。 - 風に吹き飛ばされるのは、藁くずや塵の類いだ。いちいち動じて何になる、逆風の吹かぬ処などどこにも無いというのに。

礼拝を遠ざけて過ごした者ほど、怒り、欲望、貪欲の風が吹けば、たちまち吹き飛ばされてしまう。「私は山であり、私という存在を建てたもうは御方である。もしも私が藁くずとなれば、私の風となるのは御方の風だ。私の熱情をかき乱すものは何も無い、ただ御方の風を除いては。私は指揮者というものを持たない、ただ唯一の御方への愛を除いては。

君臨する諸王の上にあって、彼らを支配するのは怒りだ。だが私は、その怒りをこそ支配し征服した者。私は怒りを、おとがいの下へ結び付けてやった - 忍耐の剣もて、私はわが怒りの首を討ち取った。神の怒りが私の頭上に落とされようとも、私にとっては注がれる慈悲のようなもの。

屋根はすっかり破壊されて崩れ落ちるが、私は光の中へとたたき込まれる。ほこりまみれのブー・トゥラブ(『塵の父』の意)のような姿になってさえ、私は庭園そのものになる。 - 神以外の何ものかが私の思考に入り込んできたならば、剣をさやに収めるのが私に課された義務というもの。

名を呼ばれるならば、『神の道において愛する者』と呼ばれたい。私が制すべき我欲とは『神の道において憎む者』だから。『神の道において与える者』でありたい、見ての通り私は『神に寄り添って離れぬ者』だから。出し惜しみするのも、気前良く与えるのも神のため。全ては御方あってのこと。

私は神に全てを委ねている。私は完全に神に属し、他の何ものにも属さない。そして私が『神のために』と何ごとかを行うとき、理屈や合理などのためではない。私は夢想に従わぬ、私は空論に従わぬ - 下されし直観以外の何ものにも従わぬ。理論や推測は私には無用だ。

私の袖は、神の衣の裾に結わえてある。もしも私が空を飛べば、私はいと高き処をこの目に焼き付けるだろう。もしも旋回すれば、私は旋回の軸をこの目に焼き付けるだろう。そしてもしも重荷を背負う時があれば、私はこう言おう - 『私は月だ。そして私の導きは、私の目の前をゆく太陽だ』と。

人々と理解し合おうとするならば、これより他に最上の手立てはあるまい - 川では、海を収めきることは出来ない。人々に話しをするとき、私は(彼らの)理解に見合った話をする。話の度合いを、高くも低くもする。これは過誤では無い、預言者の習いだ。

「私には、私利私欲の持ち合わせはありませぬ。自由民の口から、その証言を聞いて下さい。何故なら奴隷の証言には、稲穂二本分の価値もありません」。我らが宗教の法は、奴隷の証言は訴訟の場、裁決の場において何の価値も無いと定めている。何千もの奴隷があなたのために証言をしようとも、法はその証言に藁ほどの価値も認めていない。

神の御目は、従属させられた召使や奴隷よりも、自ら欲望に従属する奴隷の方をこそ低き者、悪き者と捉えたもう。召使も奴隷も、雇い主がたった一言発するだけで、たちまち自由の身になれよう。だが欲望の奴隷はそうは行かない。生は彼らにとり甘いものとなろう、だが彼らの死は酸っぱく苦いものとなろう。

欲望の奴隷には解放の手立てがまるで無い、ただ神の恩寵と、そのご加護以外には。彼らは自分自身を底無しの穴に突き落とす、自分自身の罪の穴に - これは自分自身が犯す過ち。定命による落下でもなければ、運命が掘る穴でもない。自らが招いたことだ。彼ら落ちた穴の中へ綱を投げ入れてみても、はて。底までどれほどの深さやら、私には見当もつかぬ。

この辺で終わりにしよう。この話を更に語り続ければ、心どころか岩までもが血を流すことになろうから。こんな話を聞かされて、血を流さずに(痛みを覚えずに)いる心などあるだろうか?(もしも)血が流れ出ぬようならば、それは心の堅牢さゆえではない。混乱と耽溺のまっただ中にあるというだけのこと。

やがて血が流れる日が来るだろう、彼らにとって彼らの血が何の役にも立たず、価値も持たなくなった頃に。 - 血を流すならば、価値のあるうちに流さねばならぬというのに。

奴隷の証言は受け入れられぬ。欲望という悪鬼の奴隷に成り下がった者など、証言者として認められぬ。御言葉にもある通り、「われらは汝を使わした、一人の証人として(コーラン33章45節)」。神が預言者をして証人たらしめたもうのも、彼が地に在るものへの欲望から解放されていたが故のこと。

 - 「怒りには、私を繋ぎ止めることは出来ない」、アリーは言った。「私は自由の身、私を見よ、神の性質以外の何ものも顕われることのない『場』を見よ。さあ、入れ!入るがいい、主の慈悲は主の憤怒にも優る。入るがいい、神の恩寵は汝を解放したもう。汝はついに自由の身となったのだ。

躊躇するな、さあ、入れ!危険を逃れて、門をくぐれ。汝はかつて石であった。だが聖なる吐息によって、汝は今や宝玉となった。不信の茂みに生じた一本の棘よ、薔薇となって咲くが良い、糸杉の揺れる『Hu(それ)』の庭で。 - 彼我を超えよ、祝福されし者よ!汝は我なり、我は汝なり。おまえがアリーなら、どうして私がアリーを死なしめようか。おまえの反逆、おまえの罪は、信じる者の従順と善行をはるかに凌ぐ - おまえは瞬く間に天を渡ったのだ!」。

このような罪こそ、まさしく幸運と呼ぶべきもの。薔薇も棘に囲まれてこそ、やがて花も咲くというもの。最初にウマルが預言者を訪れたのも、預言者を殺すためであった。しかしその罪こそが、彼を許しの門へと導いたのでは無かったか。ファラオが魔術師達を招いたのも、彼らの魔法をあてにしてのことであった。しかしその招きこそが、魔術師達を魔法から遠ざけ、魂の糧を得るに至らせたのでは無かったか。

彼らの魔法、彼らの(モーセに対する)否認こそが、やがては彼らをファラオへの反逆へと導いたのである。彼らは杖を見、奇跡を見た。彼らの犯した罪こそが、彼らに神を見せたのだ。神への反逆は、やがて神への服従をもたらす。神は絶望の首を討ち取りたもう御方、罪と反逆を服従へと転じたもう御方。

神はこのように正しき行い、悪しき行いを入れ替えることも出来る御方。中傷者どもが何を言おうが、神の慈悲は呪われた悪魔を追い払いたもう。悪魔は私達に罪を売りつける。だが神が罪を買い取り、徳と転じる様を見れば、やがて嫉妬で一杯になり、最後にはひび割れてまっぷたつに引き裂かれよう。

悪魔は私達を罪へと誘い、あの手、この手を用いて私達を穴へと連れ込もうとする。だが罪を犯して道を踏み外したはずが、服従の姿勢へと転じるのを見れば、落胆へと突き落とされるのは彼の方だ。

 - 「入れ!私は扉を開こう、おまえのために。私に唾吐いたおまえに、贈り物を与えよう。見えるだろう、私は頭を垂れている。仇なす者への、これが私からの贈り物だ。善をなす者への贈り物は如何ばかりであろうか。それは永遠の財宝、永遠の王国だ」。


アリーと暗殺者

かつて預言者が、信者の長アリーの馬引く者に告げた。「汝に言っておこう。アリーは汝の手によって殺められるだろう」。

 - 「私(アリー)の寛容は蜜のように甘い。たとえ私を殺す者が相手だろうと、その蜜が毒に変わることは無い。かつて預言者が私の従者の耳元で言った、いつの日か、彼がその手で私の首を討ち取ることになるだろう、と。神の御使いとして、預言者はわが従者にそう知らしめたのだ。

わが従者、わが友は言った、『私を殺して下さい!憎むべき罪を、私が犯さずに済むように』。私は答えた、『わが友よ、私に死をもたらすのがおまえに課せられた宿命なら、この私とて神の定めたもう宿命から逃れ得るはずがないだろう』。

すると彼は私の前に身を投げ出して言った、『優しきおひとよ、神かけてあなたの剣を取ってくれ。お願いだ、私をまっぷたつに断ち割ってくれ。そんな恐ろしい結末は嫌だ、私には耐えられぬ。この悲痛から私の魂を救ってくれ、あなたは私の命なのだ』。

私は言った、『行け、もはや神の筆のインクも乾いた。その筆は、実に多くの驚くべき出来事をいと高き処に書き留めてきた。私の胸の内にはおまえに対する憎しみなど無いよ、おまえだって、選り好んでそうするわけではないのだから。神が書き記したもう出来事の、おまえは道具立てなのだもの。どうして神の道具立てを打ち壊すことなど出来ようか。何がしかの事が起きるとき、本当にそれを為したもうのは神なのだよ』、と」。

それを聞いて、彼(異教の騎士)は尋ねた。「それでは一体、報復とは何なのでしょうか」。アリーは言った、「それもまた、神の仕掛けたもう不思議のひとつよ。神ご自身が為したもう御業を、打ち壊しめるのもまた神ご自身のみ。御業の上にも御業を重ね、そのようにして御方は全き庭を育てたもう、というわけだ。

何の不思議もあるまい、神とは復讐と慈悲との二つをひとつに束ねたもう御方。御方はあらゆる現象を生起せしめ、また世界の全てを統べたもう。ご自身が壊したもう道具ならば、再び御手ずから直したもうだろうよ」。

書物にもある通りだ、「われらがいずれかの啓示の文句を抹消したり、あるいはわざと忘れさせたりする場合は、それよりよいものか、またはそれと同等のものを授けるようにしている(コーラン2章106節)」、と。いかなる法であれ、御方が打ち消したもう後には、下草と引き換えに薔薇の花が咲く。

昼の喧噪も夜の静寂によって打ち消される - 見よ、静寂が真の知の光を分け与えるのを。だが日の光が差し込めば、夜は昼に打ち消され、静寂は火遊びを好む者達によってたちまち消費されてしまう。睡眠も休息も闇に属するもの、そして生命の水もまた - そして心もまた、闇にあって甦るものではなかったか。声と声、息と息との間に挟まれる小休止こそが、暗誦の美しさを際立たせるのだ。

あらゆる事象には相反する極があり、一方の極は、反対にあるもう一方の極によってこそ明らかにされる。心の中心、この黒い核に、御方は永遠の愛の光を生じさせたもう。預言者が戦ったあまたの戦は、平和をもたらす軸となった。後の世の私達が享受しているこの平和も、彼の戦を根として生じたもの。

我らが心を魅了してやまぬかのひとは、数え切れぬほどの首を討ち取ったが、そのために更に多くの人々が命拾いをしたのだった。庭師は邪魔な大枝を切り落とす、なつめやしの木がまっすぐ高く育つように、多くの実りをつけるように。雑草は根元から掘り起こして引っこ抜く、彼の庭がより良く育つように、より多くの収穫をもたらすように。医者は悪くなった歯を引っこ抜く、患者から痛みと病を取り除くために。

損失や、欠落であるかのように見えるものの中にこそ、実に多くの恩恵が隠されている。殉教者を見よ、彼らは死を通して新たな生を得る。日々の糧を飲み込んできた彼らの喉は切られた後は、別の糧が彼らの喉を通る。彼らは「主のみもとで扶助を賜って生きている(コーラン3章169節)」。

定められた法に従い家畜の喉が切られれば、それを食したヒトの喉は育ち、恩恵に浴してより優れたものとなる。だが切られた喉がヒトのそれであったならどうなるか?考えてみよ。譬え話から、何がしかの解を導き出してみよ - そう、第三の喉が生じる。甘く涼やかな神の飲み物と、神の光を飲み下す喉が。

切られた喉を通るのは神の水、その喉は「そうです!(コーラン7章173節)」と、肯定の裡に死を受け入れた者のそれであり、「否!否!」と拒否する者のそれではない。 - いい加減に終わりにしたらどうか、臆病者よ。まるで子供のよう、一体いつまで日々のパンで魂を養おうなどと試みるつもりか。

白く柔らかなパンを求める限り、まるで柳の木のよう、果実を得ることも無ければ、実も名も得ることが無いだろう。身体の欲がパンから離れることを拒むなら、魂の錬金術を用いよ、自己という銅を金に転じるために。洗濯という仕事から目を背けて、どうして衣裳をきれいさっぱり清められるだろうか。

わが友よ、あなた方の断食がパンで解かれようと、再び結びたもうのが御方である。これ、この通り。解くも結ぶも御方なら、壊すも直すも御方。あなたが何かを壊せば、御方は告げたもう、「さあ、直せ」。手も足も出るまい。直す術を知りたもうはただ御方のみ、それ故に壊すことが許されるのも御方のみ。

縫い合わせる術を知るのも、引き裂く術を知るのも御方のみ。引き合わせたもうのも、隔てさせたもうのも御方のみ。仕入れた品物よりも、更に良い品物を売りたもうのが御方。御方の手にかかれば、館は屋根も砕かれ床から逆さにひっくり返る。しかし建て直された時には、以前よりも優れた館になっている。

もしも御方が一人の命を取り上げたもうとしても、すぐさま幾万もの命がその跡に運び込まれるだろう。そしてもしも犯された罪に対し、御方の報復が為されなかったとしても、 - 御方はこうも命じたもうたではないか、「この報復の法は汝らの生命ともなろう(コーラン2章179節)」、と。

振り下ろされる剣を神の思し召しとわきまえて、自ら進み前に出てその腹を差し出す者 - 神によってその目を開かれた者ならば誰もが知っていよう、剣を振り下ろし殺害する者もまた、神の定めたもう宿命に繋がれている身なのだ、と。誰であろうが、その首を宿命の襟によって縁取られた者ならば、自らの子にでさえ剣の一撃を加えることすらあるのだ。

神を畏れよ、邪な者の轍を踏むな。自らの無力さを知っておけ、神の命じたもう罠に出会ってしまう前に。


アダムがイブリースに対して抱いた優越感について

ここでひとつ、アダムがイブリースを嘲笑した時の話をしておこう。その日、アダムは叱責され非難されるイブリースを見た。彼の目に、軽蔑の色が浮かんだ。イブリースを価値無き者と見下したのである。アダムの振る舞いに尊大な自惚れがにじみ出た。呪われた悪魔の苦境を見てこれを嘲笑し、自分こそは価値有る者と考えた。

するとたちまち、彼に向って大音声が投げかけられた。神の嫉妬の咆哮である。 - 「選ばれし者よ。主の定めたもう摂理の全てを、汝が知るとでも思うのか。隠された秘密があることを忘れるな。御方がひと皮剥ぎ取って裏返しにすれば、最も堅牢な信仰の山も麓から根こそぎ崩れ落ちよう。

一瞬のうちに、百人のアダムを丸裸にして恥辱を味わわせることも出来よう。また一瞬のうちに、百人の悪魔に新たな生を授け、ムスリムたらしめることも出来よう」。「このようなものの見方をしたことを改悛します」、アダムは言った。「二度と不遜な目で見たり、思ったりすることのないように努めます」。

主よ、助けを求める者に助けを、救いを欲する者に救いを!「主よ、ひとたび導きたもうた以上は、私どもの心を迷わさないで下さい。みもとから慈悲をお与え下さい(コーラン3章8節)」、筆によって記された災難が降りかかることの無いように。定めたもう悪を、私達の魂から取り除きたまいますように。隔てたもうな、御方との別離ほど苦痛に満ちたものはない。

御方の守護無くして、困惑以外の何が残されようか。現世に属する物事は、来世に属する物事を私達の手から奪い去る。私達の身体が、精神の衣装を私達の魂から剥ぎ取る。善きものの方へと進む私達の足を、悪しきものを貪ろうとする私達の手が引っ張る - 御方の守護無くして、どうして魂を守れようか。

たとえ御方の守護無しに、魂の危機から抜け出せたとしても、恐怖と不安の中から抜け出すことまでは出来ぬ。愛する者との合一に欠ける魂は、自らが不完全であることを知っているのだ。生きながら死せるごとく、何ひとつ見ることもかなわず、永遠の孤独に取り残され、青ざめてすすり泣く。

たとえ魂を守っているつもりでも、御方よ、あなた無しの魂は生を持たぬ。どうして一人ぼっちで、死んだ魂を抱えてなどいられようか。御方よ、叱るなり責めるなり存分に召されよ。あなたのしもべを、あなたの思うままに為されよ。全てはあなたの望みのまま、それこそがあなたにふさわしい。

太陽と月を残滓に過ぎぬと仰ろうとも、直立する糸杉をねじ曲がっていると仰ろうとも。天と空とを低き者と呼ぼうが、山と海とを貧しき者と呼ぼうが、 - 全て、全てあなたの仰る通りだ、あなた以上に完全な者などいないのだから - 死を生に、無を有に、俗を聖に転じたもう御方よ。

御方は破壊もて創造したもう。引き裂いたのちに、再びひとつに縫い合わせたもう。秋の訪れごとに庭を燃やしてこれを枯らしめ、その後に薔薇を育て、庭を再び花の色に染める。「汝ら衰えし者よ、来たれ、よみがえれ。新たな生を得て美を示し、美を知らしめよ」。盲いた水仙の花も、御方によってその目に再び光を取り戻す。喉かき切られて声を失った葦も、育まれて再び声を取り戻す。

私達は全て神により創られしものであり、創りしものでは無い。自らをこれと定義する権利も無ければ、これに成る、などという力も持たない。その力を持つは創りしものたる御方のみ。創られしものたる私達に出来ることと言えば、慎んで控え、与えられた役割に満足することだ。 - 私達はみな肉体を持っている。肉体の抱く情欲を満たそうと、日々忙しく立ち回る。

御方よ、あなたが私達を呼ぶ声が無ければ、私達はいつまでたってもアフリマンのままだ。アフリマンの状態から私達を救いだせるのはただ御方のみ、盲いた私達の魂を救いだせるのはただ御方のみ。御方よ、生きるもの全てを、それぞれにふさわしい道へと導くのもただあなたのみ。

目の見えぬ私達の手を引いて導く者無しに、どうして道を知るだろう?杖無しに、どうして道を進めるだろう?あなたからもたらされるものを除けば、酸いも甘いも全てヒトを滅ぼす火種でしかない。火をもてあそび、火を隠れ処とするのはマギ、ゾロアスターの倣いである。全ては無に帰する、ただアッラーを除いては。

まことにアッラーの恩寵は雲のよう - 尽きることなく、絶えず流れ続ける雲のよう。


アリーの話に戻ろう、彼と、彼の暗殺者について。彼が暗殺者に示した優しさについて、卓越した彼の倫理と、ひときわ優れた彼の精神について。

彼(アリー)は言った、「昼となく夜となく、私の視界の片隅には、いつでもあの男 - 暗殺者の宿命を負う者 - がいた。私には、彼に対する怒りなど無かった。何故ならその時、すでに死は私にとって、まるでマンナのように甘いものとなっていたから。私の死は、復活の約束をいち早くその手に握りしめたのだ」。

私達にとり不死の死こそ合法。日々の糧が欠けようが、構うな、欠落こそが私達の糧となる。外側における死は内側における生だ。うわべを見るなら、死は断絶のように見えるだろう。しかし真実のところ、それは永続であり、果てなき生のしるしである。

子宮をただよう胚にとり、誕生とは、今ある存在の階梯から、もうひとつの、別の階梯への出発を意味する。誕生を通して胎児は世界に現れ、新たに咲いた一輪の花となる。だが同時に、胎児にとり誕生とは子宮における死でもある。

「私にとり死とは甘美なもの。死に対して私が抱くのは激しい愛と憧れだ。故に『破滅に身を投じてはならない(コーラン2章104節)』との御言葉が、私には深い意味を持つ。酸っぱく苦い果実なら、わざわざ禁ずるまでもない。皮の酸味、実の酸味それ自体が果実を食らうことを禁じている。しかし私にとり死とは甘い果実そのもの - 

何故なら私は知ってしまったのだ、『否、主の御許で彼らは生きている(コーラン2章154節、3章169節)』と。だから遠慮無く私を殺せ、わが友よ。おまえに託そう、取るにも足らぬ卑しい私ではあるけれど。殺せ、永遠の生が私を待っている。私の生は死の中にこそあるのだ、年若きわが友よ。

私はどれほど長い間、わが故郷から引き離されていたことだろう。そしてこの先もどれほど長い間、私はこの地を彷徨い続けるのだろう?これが流浪でなくて何だというのか、これが放逐でなければ神も仰りはすまい、『われわれはなべて神へと還る者(コーラン2章156節)』、と。

自らの生まれ故郷に戻る者こそ『還る者』、そして私は紛れも無く『還る者』。私は還りたい、時間からも空間からも自由になって<ひとつ>へと還りたい。

 - すると彼は言った。『ああ、アリーよ、私をこそ殺せ、さあ、早く殺してくれ。そんな恐ろしく苦しい瞬間に立ち会いたくなどない、見たくもない。私の血をこそ流せ、あなたの手によるものならそれは合法だ。あなたが私を殺してくれさえすれば、私の目は復活の日の恐怖を見ずに済む』。

私は言った - たとえ森羅万象を形作る微粒子の全てが殺人者となり、短剣をその手におまえに襲いかかろうとも、たった一粒さえもおまえを傷つけることは出来ないだろう、毛の一筋、血の一滴すら流れはしないだろう。何故なら神の筆によるおまえの宿命には、そのようなことは一行も書き記されてはいないから。

悲しむな、嘆くな。この私が、必ずおまえの仲介者となるから。必ずおまえを執り成すから。私は精神の主人であり、肉体の奴隷ではない。私の目には、この肉体には何の価値も無いものと映るのだよ。私は気高く貴き者の子。肉体を失ったところで、『アリー(高貴の意)』たる私の誉れに何の障りがあろう。短刀も剣も、私に触れれば香草となろう。訪れる死はわが祝宴、水仙の花を積み上げた臥所となろう」。

 - この通り、彼(アリー)には自らの肉体を惜しむ気持ちは露ほども無かった。肉体を捨て切っていた以上、権威や、支配への欲が彼を揺り動かすことも無かった - どうしてこのようなおひとが、自らの王国を望むだろうか?どうしてこのようなおひとが、カリフの座に執着するだろうか?

面だけを見れば、彼は権力と地位を得んがために奮闘したようにも思えるだろう。だがそれもこれも、全ては後世に続く人々のため。統治者とはいかにあるべきか、正しい道とは何かを知らしめんがため - 彼はそれまでの統治や支配の在り方に、新たな精神の価値を加えようと試みた。そしてカリフ制という椰子の木に、多くの実りをもたらそうと努めた。


「現世は屍に過ぎぬ」 - いと高き預言者の言葉

かつて在りし日の預言者(ムハンマド)もまた、そのようではなかったか。彼のメッカ征服を、現世への執着によるものだなどと疑う者があるなら、彼らは何も知らないのだ - 審判の日、彼(ムハンマド)の両眼が閉じられているだろうことも。彼の両眼もその心も、天の宝庫に向かって開かれることは無いだろう。

七層の天は際から際まで、彼を一目見ようと押し掛けたジンとフーリーで一杯になろう。けれど彼の両眼を、心を、捉えて離さぬのは最愛の御方のみ。愛する者と愛される者の間には、天界の住人ですら割り込む隙も無いだろう。

愛する者と愛される者が、分かち難く<ひとつ>となるならば、そこには預言者が遣わされる隙も無ければ、天使達、精霊達の入り込む隙も無い - この意味が分かるだろうか。告げる声がある、「これぞ『má zágh』」、と。

すなわち互いに互いを探して視線を走らせる必要が無い、カラスのように屍肉を探して「zágh」(うろつく)必要が「má」(無い)だということ - 「われらは神に酔うた、神の庭では無く神に酔うた。われらは神に染まった、神の庭に咲く花では無く神に染まった」。

預言者は、いと高き楽園の宝物に眼を奪われることが無かった。楽園の宝物も天界に関わる種々も、預言者の眼には藁ほどの価値も無きものと映っていた。「しかしそれはそれとしても、彼はメッカを、シリアを、イラクを、欲したではないか?手に入れようと、奮迅努力したではないか?」

 - このような問いを発する者をこそ偽善者というのだ、彼と己とを同列に並べるとは。欲深な己を基準に物事を判断するから、そうした愚問が飛び出しもする。黄ばんだガラス越しに太陽を見れば、太陽の光あるところ全てが黄ばんで見えるだろう。青や黄色のガラスを壊せ、砂塵と人間とを見分けるために。

馬上の騎士が砂塵を巻き上げやって来る。だが人々は、砂塵は見ても騎士を見ない。イブリースは砂塵を - すなわち泥土で出来た肉体を - それのみを見て言い放った、「泥土より生じた泥土の子(アダム)が、火炎の子である私に優るはずがない」。神の愛した神の友を「たかがヒトの子」と見るのはイブリースの悪しき遺産だ。

何故に相続するのか、イブリースの子でも無かろうに。あるいはここに居るのは野良犬(イブリース)の子か?

 - 「我は野良犬の子に非ず。我は獅子の子、神の獅子なり。神の獅子は肉体の檻に収まらず、自由を求めて檻を破る。現世の獅子は餌食を求めて獲物を狩るが、主の獅子が求めるものとは自由だ - そして獅子は完璧なる自由を死の裡に見出す。神の獅子は死の裡に無数の生を見る - そして己の存在そのものを消滅せしめる、炎に身を投ずる蛾のように」。

死への渇望は誠実な者の胸を飾る勲章だ。ユダヤの民にとっても、それは大きな意味を持つものであったはず。書物において神は告げたもう、「ユダヤの民よ!(コーラン62章6-8節)」と。もし神のみもとの来世の住まいが誰も入れない純粋におまえたちだけのものであるのなら、死を願えばよい。もしおまえたちが真実を語っているのなら(コーラン2章94節)」と。

利を求めればきりが無い。利を得んがために人の命も奪うようになる。命で利が得られるものならば、いっそ己の命を差し出せ。誠実な者達の眼は、たとえ心中に利を求める欲があろうとも、その欲を、死を克服し死に打ち勝つために費やすことをこそ善きものと見る。

「ユダヤの民よ、死を願って見せよ、もしもあなた方が真実を語っているのなら」、ムハンマドが旗を高く掲げてそう言った時、ただの一人もこれに答える勇ましき者は無かった。替わりに彼らがした事は、財に係る税を納め、土地に係る税を納めること。

彼らは言った、「どうか照らし出してくれるな、私達に恥をかかせるような真似はなさるな」。 - さて、長話はこの辺りで切り上げよう。友よ、手を貸しておくれ。どうやらあなたの眼にも、『友』が見え始めたようだ。


信じる者達の長アリーは戦場で相見えた異教の騎士に言った。「若者よ。おまえと剣を交え、おまえが私の顔に唾を吐いた瞬間、私の良心は砕け散り、入れ替わりに自我が飛び起きた。私の戦意の半分は神のためでも、残りの半分が私怨になってしまったのだ。

神の道にある以上、『これは神のために、これは私のために』などと分かつ事は出来ない。おまえもまた主の御手によって描かれたもの。おまえもまた神の働きの顕現、私が創ったのでもなければ、私のために創られたのでもない。神の所有を破壊するのは、神が命じたもう時のみ。『愛する者』の杯を割るなら、『愛する者』の石つぶてをもってせねばならぬ」。

これを聞くと、それまで火を崇めていた異教の騎士の胸に光が差し込んだ。彼は(異教の印である)腰帯を断ち、言った、「私は過ちの種を蒔いてしまった。あなたのことを誤解していた、あなたについて何も知らなかったのだ。あなたは、唯一の御方の本質と、実に素晴らしく調和を保っている人だ。否、あなた自身が『調和』の舌そのもの。

あなたという錘は、あらゆる秤を均衡に保つ。あなたこそ私の一族、あなたこそ私の属する者。あなたこそはわが宗教の、輝けるろうそくの灯火だったのだ。私の眼は、いつもランプの明かりを求めて彷徨っていた - そして今、探していたものを見つけた。私はこのランプに、自らを捧げて尽くしましょう。そしてあなたというランプに明かりを灯す、光の波うねる大海のしもべとなりましょう。

大海が、視界めがけて豪奢な真珠をいくつもいくつも投げかけてきます - どうか私めをおそばに仕えさせて下さい。信じる者の一人として、後の世の者達に、あなたという偉大な人のことを語り継ぎたいのです」。

やがて五十人近い彼の親族達が、揃って彼と宗教を同じくするようになった。アリーの振るう剣は慈悲の剣。アリーの慈悲の剣は、泥土の肉体に住まう多くの魂を救い出した。慈悲の剣は鉄の剣よりも鋭い。否、鉄の剣どころか、百の軍勢よりもなお多くの勝利をもたらす。 - 

・・・ああ、しまった。ほんの二口ほどつまみ食いをしたせいで、頭がすっかり働かなくなってしまった。熱を孕んで泡立っていた思考が、凍り付いてびくとも動かない。全くもって小麦の粒ときたら!輝けるアダムの太陽を蝕に導き、夜空に浮かぶ満月を欠けさせるとは!

夜空の星をご覧。あれは一握りの小麦を食べてしまったアダムの、心の裡に在った美が、プレイアデスよりもはるか遠くへまき散らされて光っているのだ。パンは善きもの、精神のそれであるならば。しかし形を持った瞬間から、たちまち疑惑の種となる。

砂漠に育つ緑のアザミを駱駝が食べる、私達が小麦を食べるように。食べていられる間は良い。やがてアザミが枯れ、褐色に乾き切る時がやってくる。緑色であった頃には、ラクダに百の楽しみを与えたアザミも、乾涸びてしまえば以前と同じという訳には行かぬ。ラクダがそれを口にすれば、口蓋も頬も傷だらけになる - 滋養の薔薇が、剣となって切りつけて来る!

パンもこれと同じだ。精神の糧である間は、まるで緑のアザミのよう。しかし形を伴った瞬間に、それは乾いて動かぬものとなる。そしてこれを食するあなた方も同じだ。かつてあなた方が魂そのものであった頃、食べるものと言えば滋養に満ちた緑のアザミだった。

しかし魂が、精神が、泥土の肉体を持ったその瞬間から、食べるものと言えば乾き切った形あるものばかり。繊細な魂そのものであったのが、毎日のように乾き切ったこの食べ物を口にして、泥と干し草を混ぜ合わせた何ものかになり肉を切り刻む - ラクダよ、枯れ草を食むな!死んだ草を食むな!

コトバは土埃に汚れ、力を失い虚しく流れてゆく。水も濁ってしまった、水源を塞き止めねばならぬ。井戸を塞いで、口を塞いで待たねばならぬ、神が水を清き流れへと変えたもうまで - 御方が濁らせたもう流れなら、必ずや御方が再び清く純粋な流れと変えたもうことだろう。急がず、ゆっくりと待つこととしよう。

たとえ時間がかかろうと、忍耐だ、忍耐こそが欲するところを運んでくれるだろう。最後に充足をもたらすもの、それは忍耐だ。わが友人達よ、忍耐強くあれ - 何が正しいのかについては、ただ神が最もよくご存知である。

(『精神的マスナヴィー』1巻・了)


「アリーと、彼の顔に唾吐いた者:何故にアリーは剣を捨てたか」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー

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