مثنوی معنوی - "Mathnawi ye-Manawi" Mawlana Jalal-Din Muhammad al-Balkhi Rumi
index > bookworm > 『精神的マスナヴィー』1巻
「ザイドの見た光景」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー
ある朝のこと。預言者がザイドに尋ねた。「おはよう、わが誠実なる同胞よ。今朝の気分はどうだね」。彼は答えた。「今朝の私は、この上無く信仰深き神のしもべです」。これを聞いて、預言者は再び言った。「ふむ。信仰の庭に、花が咲いたと言うのか?では、そのしるしは一体どこにあるのか見せてごらん」。
彼は言った。「昼は昼で渇望の裡に、夜は夜で愛と悲嘆の裡に、 - 一睡もせずそのように過ごしておりましたところ、いつしか私は、昼と夜とを分かつこと無きその先へと通り抜けていたのです、まるで槍の穂が楯を貫くがごとく。あちら側は、こちら側とはまるで相容れぬ領域。あちら側においては、生まれ出づるものと育ち続けるものに隔てはありません。
あちら側の世界にあっては、永遠なる属性と、永遠そのものが、分かちがたくひとつになっているのです。どれほど知識を追い求めたところで、あちら側の領域は私達の理解の範疇を超えています」。
預言者は言った。「その旅から、おまえがこちら側へ持ち帰った旅の土産はどこにあるのか。隠さずに出してごらん。全きあちら側の世界から、おまえが持ち帰った至誠のしるしを、包み隠さずに見せてごらん」。
ザイドは言った。「人々が見上げるのと同じあの空を見ても、私には、最も高い天とそこに住まう人々の姿が見えるのです。八層の楽園と、七層の煉獄が、偶像崇拝者の偶像のようにはっきりと私の目に見えるのです。こちら側にいる人々の一人ひとりが、石臼の中の大麦のように見分けがついてしまいます。
誰が楽園にふさわしく、また誰が招かれざる者であるのか、その違いが魚と蛇のようにはっきりと見えるのです」。 - 「人々の顔が白くなったり黒くなったりする日(コーラン3章106節)」、すなわち終末の日こそは、アナトリアの民、エチオピアの民、ありとあらゆる民にとり真の誕生の日となる。
この(誕生の)日が訪れるまでの間、ある者の精神がどれほど罪深くあろうとも、肉体という名の子宮がその他の人々から隠してしまう。その日いきなり煉獄に落とされるわけではない。子宮にいたころから、煉獄行きは煉獄行きと決まっている。彼ら全員に、神のしるしがつけられている。
魂という子供を宿した肉体が、まるで母のそれのように重たげに膨らむ。やがて月満ちて訪れる死は、誕生がもたらすのと同じ痛み、苦しみをもたらす - それを通り抜けた全ての魂達が、あちら側で待っている。我ら誇り高き魂は、果たしてこの先どちらの世界に生まれ出でるのだろうか?
かつてエチオピアの民であった魂が言う、「楽園は我らに属する」。かつてアナトリアの民であった魂が言う、「否。楽園は我らの許へ来たり」。死によって現世を去り、魂と神の領域に生まれるが早いが、現世における白さ、黒さの違いなど何の意味も為さなくなる - あるのはただ魂そのものの違いのみ。
祝福される魂は祝福を運び、懲罰を受ける魂は懲罰を運ぶのである。このようにして来世に生を受けるまでの間、現世にある限り全ては謎に包まれたままだ。ヒトの目はそれを見ることは出来ない - 神の光を通して物事を見る者達を除いて、胎児の運命を知る者はいない。
現世において、神の光を通して物事を見る者達はごくわずかだ。だが彼らの目は肌の色よりも、肌の色の下に何が隠されているかを見抜く術を心得ている。精液を見よ、私達の起源の姿を見よ。これほど純粋かつ清いものはない。これを汚濁と看做すのは精神の仕業だ。肉体は本来清いものだ。だが長じるに従い、精神の反射が肉体を曇らせてしまう。
アナトリアの民であろうがエチオピアの民であろうが同じこと、自らの肌の色を最も優れたものとし、その他の肌の色を貶めるというのは、肉体に関わる問題ではなく、精神に関わる問題なのである。これについては、議論し尽くせるものではない。急いで引き返そう、カラヴァンに置き去りにされてしまう。ラクダの隊列から取り残されてしまう -
「人々の顔が白くなったり黒くなったりする日(コーラン3章106節)」、一体、どこの誰がテュルクだ、ヒンドゥーだなどと気にかけるだろう?産み落とされるより以前の子宮の中では、テュルクもヒンドゥーも見分けがつかぬ。
だがそれぞれ来世に生まれるその時には、いずれが喜ばしき者か、いずれが哀れむべき者かが明らかになる - 神の光を通して物事を見る者には、それがはっきりと見えるのである。
- 「まるで審判の日にいるみたいです。男だろうが女だろうが、私の目には彼らのありのままの姿が見えてしまうのです。ああ、どうしたものか。話すべきでしょうか、それとも沈黙するべきでしょうか?私に、息をするなと?」。「十分だ」、と言わんばかりに、ムスタファはザイドの唇をつまんだ。
「ああ、神のみ使いよ!(審判の日の)召集について、その秘密を語るべきでしょうか?たった今この場で、復活の日とは何かを明らかにするべきでしょうか?好きにさせて下さい、私はこの垂れ幕をずたずたに引き裂きたい。そうすれば私の魂、私の本質があらわになり、太陽のように光を放つことでしょう。
私は太陽を曇らせて蝕を呼び、実り多きなつめやしと、果実を結ばぬ柳の違いを明らかにしましょう。復活の日について、それが何を意味するのか、本物の金貨と、混ぜ物入りの贋金の違いは何なのか。不義の人々の手首が切り落とされるその日について、私ははっきりと知らしめることでしょう。
信じぬ者の色、信じる者の色を示してみせましょう。瑕ひとつ無く、欠けることも無き満月に照らして、七つの亀裂(罪)から偽善を剥ぎ取り丸裸にしてみせましょう。羊毛の外套を身に着けてなお、地獄に堕とされる人々がいることを示してみせましょう。預言者達の太鼓の音をお聞かせしましょう。
信じぬ者達の目の前に、はっきりと示してみせましょう、煉獄と楽園の庭と、その間にある中有の域について。上下に波打つカウサルの流れる音、祝福された者の顔にかかる水のしぶきの感触。そしてカウサルを目の当たりにしながら、カウサルに近づくこと叶わず、喉の渇きに喘ぐ者達についても。
彼ら一人ひとりの名を呼んで、彼らが誰なのか、どこから来たのかを尋ねることも出来る。彼らの肩と私の肩は、そら、こうしてぶつかるほどの近さだ。すれ違うたび、彼らの叫び声が私の耳に響く - かたや楽園に住まう人々が、自由に手を取り合い、胸元に引き寄せるのも見えるのです。
誉れ高き者の住まう庭で、人々は互いを訪れたり、フーリーの唇から接吻を奪ったりして過ごしています。私の、こちらの耳は聞こえなくなりました。煉獄でひどい苦しみに苛まれる者達の叫び声がひっきりなしに響くので、耳の方が嫌がって閉じてしまったのです。
私がお話したことは暗喩です、ほんの一端をお見せしたに過ぎません。お望みなら、私の深奥からお話することも出来ます。けれど神のみ使いよ、あなたが不快に思うのではないかと、ただそれだけが気がかりです」。 - このように、ザイドは知恵に富む言葉を語った。彼はすっかり酩酊しており、忘我の状態になった。
預言者は彼の襟首をつかみ、ぐいぐいと引っ張った。「手綱を引け!おまえの馬は興奮し過ぎている、このままでは手に負えない。『神は真実を語ることを恥たまわぬ(コーラン33章53節)』。誰であれ心を撃ち抜かれれば、恥も遠慮も無くなるものだ、ザイドよ。仕舞われていた鏡が、おまえの衣の下から出てきたのだよ」。
どうして鏡や秤に嘘がつけるだろう?真実を告げるということは、鏡や秤にとり息をするのと同じこと。傷つく者があるかも知れぬ、恥をかく者があるかも知れぬと言って、鏡や秤に息をするなと命じるなど出来はしない。鏡も秤も、貴重で尊い試金石だ。
「真実を告げる必要はない、私の言う通りにすれば良い。多めに見せかけるのだ。足りない分は何が何でも隠せ」などと命じれば、彼らは答えて言うだろう、 -
「おまえの口ひげは飾り物か?あごひげを生やした大人が何を言う。片手に鏡と秤、片手に虚偽と詐欺を抱え込む気か。神が我らをいと高きところへと引き立てて下さったのも、我らを通じて真実が知らしめようとの思し召しからだ。真実を示すことも出来ないようでは、我らに何の価値があろうか?公正とは何か、我らが基準を示さずにどうせよと言うのか?」。
けれど預言者はこう告げた。「もしも神の光が、汝の胸をシナイの山のごとく照らしたならばその時は、 - 鏡は再びそでの中にすべり込ませ、そっと隠し持っておくように」、と。これを聞いてザイドは言った。「何故ですか?真実を照らす太陽を、永遠の太陽を、わきの下に仕舞い込めと言うのですか?
それで良いはずがないでしょう、バガル(baghal:わきの下)もダガル(daghal:詐欺)も、いっぺんに吹っ飛んで散り散りになってしまいます!そんなことになれば、狂気も、静謐も、理解も、何ひとつ残せるものが無くなってしまうでしょう」。
預言者は言った。「一本の指で片方の目を塞いでごらん。太陽無き世界が見えるだろう。太陽無き世界には、月の輝く余地も無い。たった一本の指が、月を覆い隠すヴェイルにもなってしまうのだよ。 - おまえに分かるだろうか。
一本の指とは、神が覆い隠すのに用いたもうヴェイルの象徴だ。たった一本の指でさえ、太陽に蝕をもたらしてしまえるのだ。おまえに分かるだろうか。たった一つの視点では、世界の全体を捉えることは出来ないし、むしろその視点こそが、捉えきれなかった残りの世界を覆い隠すヴェイルになってしまうことさえあるのだよ」。
唇を閉じ、海に目を向けてみよう。自分自身の内側にある海の深さに目を向けてみよう。楽園に住まういと高き者が、サルサビールとザンジャビールの泉を自在に操るがごとく、ヒトは内側にある海を制御することが出来る - 神がそのように創りたもうたからだ。
楽園を流れる四つの川もまた、私達の思うがままだ。私達の権能によって、ではない。神がそのように命じたもうたからだ。まるで魔術師の望みをかなえる魔法のように、私達は、私達がそう望む方向へと川の流れを差し向けることが出来る。そしてそれは、まさにこの「二つの泉」についてもあてはまる。
「二つの泉」、すなわち私達の両の目は、私達の心によって支配されている。私達の精神が命じれば、視線は命じられた通りの方向へ流れるのである。心がそうと望めば、視線は毒と蛇の方へ向かうだろう。あるいはまた、心がそうと望めば、視線は向上をうながす熟考の方へと向かうだろう。
そうと望めば、感覚的な事象の方へと流れ、またそうと望めば、「衣をまとうもの」、すなわち思想や想像といった感覚では捕えがたい事象の方へと流れるだろう。そうと望めば、普遍の命題へと歩みを進め、またそうと望めば、個別の命題に向けられたままになるだろう。
これは視覚に限ったことではない。機織り職人の手にある糸巻きと同じように、全ての五感は意志と心によって制御されている。まるで衣の裾のよう、全ての五感は、心が向かう先であればどのようなところへでもその後を追うのである。
手や足が、あたかもモーセの手に握られた杖のように、心の指揮下にあることは明らかだ。心が望めば、足はすぐさま踊り始める。不足から、充足へ向かって歩みを進める。心が望めば、手は指を操り書物を記し始める。手は、もうひとつの手と固く抱き合う - 身体の手の内側に隠されたもうひとつの手と。それは身体の手にとり蛇のような敵ともなり、身体の手の友ともなって助けるだろう。
そうと望めば、ひと匙の食物のようになり、またそうと望めば、十マウンドもある棍棒のようにもなるだろう。身体に備わるそれぞれの器官に、心は何を命じ、何を告げているのだろう?私は不思議でならない。いずれにせよ心と身体にはつながりがある - 素晴らしきつながりが、隠された連関がある。
心はソロモンの紋章を得ているに違いない。だからこそ、五感の手綱を一手に握ってこれらを支配出来ている。外的な五感をやすやすと操り、内的な五感、内的な能力を指揮する。感覚は、十にも二十にも分類出来る。身体の器官も、七つとも、またそれ以上にも数えられる - ここで言及せぬものも含めて。
心よ、王国を統べるソロモンよ。妖精と悪魔めがけて、紋章入りの指輪を投げつけろ。この王国にあって、心よ、欺瞞とは無縁の汝ならば、三匹の悪魔も汝の手から指輪を盗みだすことは出来ないだろう。心よ、やがて汝は王国を征服するだろう。身体を支配するように、汝は二つの世界をも支配するだろう。
だがもしも悪魔が汝の手から紋章を奪うなら、心よ、その時汝の王国は過去のものとなり、汝の築いた富も潰えよう。そしてそれ以降は苦悩が汝の行く末を支配する - 神が私達を再び集めたもうその日まで。どれほど自らの虚偽を否定しようとも、その魂は、秤を、鏡を欺くことは出来ないのだ。
閑話休題:賢い奴隷ルクマーンの話
賢い奴隷ルクマーンの話をしよう。主人には、その他の奴隷達と比べてルクマーンは劣って見えた。主人は外側だけを見ていたのである。奴隷達は、ルクマーンを虫のように蔑んだ。彼は夜のような男だった。夜のように暗い外貌と、夜のように深い思考を持っていた。
主人はしばしば、果樹園に奴隷を行かせた。奴隷が持ち帰る果物が、彼の最大の楽しみだった。ところがある日、欲にかられた奴隷達は収穫した果物に手を出し、大喜びで食べつくしてしまった。そして彼らの主人に、ルクマーンが食べたのだと告げた。これを聞いて、主人はルクマーンを苦々しく思った。
何故そのようなことをしたのかと尋ねられ、ルクマーンは悲しく思いつつも、異議を申し出るためにその唇を開いた。「父とも仰ぐ方よ」、ルクマーンは言った。「いずれが不義を働いた奴隷であるか、神の御目にも明白にはされておりません。貴きわが主人よ、私達全員をお調べ下さい。
「湯を沸かして私達にたっぷり飲ませ、それから私達を野駆けにお連れ下さい、あなたは馬で、私達は徒歩で。その上で、誰が悪事を働いたのかを確かめて下さい - 秘密は、これを隠したもう御方の手により暴かれることでしょう!」。そこで主人は奴隷達に熱い湯を与えた。彼らは怯えつつこれを飲んだ。
それから彼らは野を走り、麦畑の中へと逃げ込んだ。息せき切って走った彼らは、しゃがみ込んで嘔吐した。先ほど飲んだばかりの熱い湯が、盗み食いした果物を、彼らの体内から連れ戻し吐きださせた。ルクマーンも、へその下からひっくり返したように吐いたが、出てきたのは何の混じりけもない湯ばかりだった。
賢いルクマーンはこうして真実を明らかにした。しかし彼はただのヒトだ、これが真実在たる神ならば如何ばかりであろうか!「秘めごとが試練にかけられる日(コーラン86章9節)」、あなた方が隠し持っていた何かが、あなた方自身の中から現れる - 知られることを望みもしなかった何かが。
「腸も裂ける熱湯を飲まされて(コーラン47章15節)」、今の今まで覆い隠していたヴェイルが引き裂かれる。劫火が、信じぬ者への責め苦となるのは何故か。炎こそ石を試すのには丁度良いからだ -
石のように凝り固まった我らが友の心に向かって、私達は幾度となく繰り返し語りかけた。しかしどれほど穏やかに語りかけようとも、彼らは助言を聞き入れようとはしなかった。悪い傷には薬が必要だ、それも強烈な薬が。「悪い女は悪い男に、悪い男は悪い女に(コーラン24章26節)」とも言うではないか。ロバの頭には犬の牙、醜いものには醜いものがふさわしいということだろう。
あなた方にも好きな何か、愛する誰かがあるならば、行け、十分にのめり込め - 姿かたちまで、すっかりそれそのものになりきるほどに。もしも光を欲するならば、まずはあなた自身を光を受け取るのにふさわしく整えよ。もしも(神から)遠ざかりたいならば、どこへでも行け、うぬぼれた自分を連れて。
そしてもしもあなたが、荒れ果てた牢獄の中でひたすらに解放を望み、出口を探し求めているのならば、 - 「伏し拝んで、主に近づけ(コーラン96章19節)」、愛する者から決して目を逸らすな。
さて、この話はこれくらいにしておこう。ザイドと、預言者の話に戻ろう。預言者は言った、「ザイドよ、立ちなさい。そしておまえのブラークを - 『理知の精神』を、枷にしっかりと繋ぐのだ。
理知の精神というものは、過誤を見逃すようには創られていない。ひとつの過誤が暴露されれば、隠蔽の幕は次から次へと引き裂かれる。だが神は、今しばらくは隠すことをこそ望まれたもう。預言者の太鼓だと?無用だ、道を閉じよ。駆け足で進むな、手綱を引け。魂をあらわにするな、ヴェイルで覆え。
思考の自由は万人の有、一人ひとりが思い描いて喜ぶのが良いのだ。神は、たとえ絶望的なまでに救い難い者であってさえ、その顔を神ご自身から背けぬようにと願ってやまぬ。ほんの少しの希望を持ちさえすれば、それだけで彼らは気高く貴い者のひとりとされるだろう。主の恩恵を得られるかも知れぬという、そのような希望こそが、彼らを恩恵の方へと走らせるのだ。
御方は、その慈悲がありとあらゆる全ての上に行き渡ることを望みたもう。ありとあらゆる全て - すなわち悪の上にも、また善の上にも。御方の慈悲とは、分け隔て無き普遍の慈悲だ。神は望みたもう - 王子であろうが、虜囚であろうが、誰もが等しく希望を持ち、畏怖し、分別を弁えるようにと。
希望も畏怖も、ヴェイルによって可視の領域から遮られている。どちらも、不可視の領域においてこそ養われ育つものだ。もしもおまえがそのヴェイルを剥ぎ取ってしまったならば、希望も畏怖も、一体どこへ行けば良いものか?威力も大権も、不可視の領域に属し、不可視の領域に控えているというのに」。
- 若者が一人、川岸に立って考えごとをしている。「はて、あの漁師はソロモン王ではないか?もしもそうなら、何故たった一人、あんな姿に身をやつしているのか?もしも違うなら、どうして私の目にはそう思えたのか?」。彼は、ソロモンが王の姿に戻るまで、二つの心の間を行きつ戻りつして訝しむ。
若い男は、ソロモンが王の姿に戻るまで、二つの心の間を行きつ戻りつして訝しむ。そこへ王国からの逃亡を企てた悪魔がよぎる。ソロモンの宝剣が切りつけ、かの有名な指輪が彼の指に戻る。悪魔と精霊が周囲に集まり、一目見ようと人々もやって来る - 川岸で一人、考えごとをしていた若者も。
王の指にはめられた指輪を一目見るなり、彼の心を取り巻いていた思案がぬぐい去られる。欲するところが隠される時にのみ、不安というものが生じる。探求は、不可視の領域があって初めて為されるものだ。不在こそが、在を雄弁に語る。
かれの姿が見えない間、心の中はかれに関する想像ではちきれんばかりになる。しかしかれが顕われるが早いが、それまでの想像の全てがすっかり取り払われる。輝けるあの空が、もしも止むことの無い雨を降らし続けていたならば、大地もそこに育つ植物も、一体どうなっていたことか。
神は言いたもう、 - 「下された言葉を信じる者とは、『見えないものを信じ(コーラン2章3節)』る者。故にわれは、汝らが見ている世界の窓を閉じた。窓を開け放したままで、どうしてわれが汝らに、『なにか割れ目でも見ることができるか(コーラン67章3節)』などと尋ねるだろうか」。
暗闇の中、進むべき道を探そうと人々は周囲を見渡す。あちらこちらを巡り巡って、行くべき方角を見つけようとする。ほんの束の間、物事はあべこべの逆さまに見えるだろう。泥棒が、判事を絞首台へ連れて行く。スルタンや王侯が、奴隷のようにあくせくと働く。
目に見えぬ存在を信じ、不可視の領域を信じて為される奉仕は美しく貴重だ。神が私達に奉仕を命じるときには、たとえ御方が私達の目に見えず、不在であるかのように見えても、御方の在ることを忘れずに尽くすこと - これぞ御方のお喜び。
王の身近に伺候する身であれば、王を崇拝するのはいともたやすいこと、何しろ、その目で王を見ているのだから。だが王をその目にせず、それでもなお王を崇拝する者こそ賞讃に値するのではなかろうか。
王から遠く離れた自分の身の上を恥じつつ、控えめに振る舞う者達がいる。王の住まう都から遠く離れ、王国の守護の影からも遠く離れて、辺境の要塞を守る者達がいる。仕える王国と敵国の境にあって要塞を守り、たとえいくら富を積まれようとも決して売り払ったりはしない者達がいる。
王の身近に伺候せずとも、王からはるか遠く、遠く離れた辺境にあってひたすら前線を守る彼らの忠誠と、王の身近に伺候する者のそれが比べ得るだろうか。百度、千度と王を見た者の、王にまみえたが故の崇拝よりも、一度足りとも王を見ずしてなお崇拝する者の崇拝の方が、百倍も千倍も尊いのである。
たとえ今は称賛に値しようが、服従も信仰も、死の後では拒まれて無効となろう。その時こそ、あなた方に全てが明らかにされ真実が示されるだろう。 - 「おまえの口を閉じておけ。不可視の領域は不可視のままに、ヴェイルで覆ったままにするのがより好ましい。私達が、沈黙を守ることの方がより善いのだ。
兄弟よ、もはや語るな。神については、誰よりも神ご自身が良くご存知。知識はやがて神ご自身によって明らかにされよう。太陽の最も良き証言者は太陽そのもの、輝けるその顔こそが、太陽を最も良く知らしめる。そしてありとあらゆる証言者のうち、最良の証言者とは神ご自身なのだ」。
「いいえ、いいえ!私は語ります、神も天使達も、知識ある学者達も口を揃えて言うではありませんか — 『神と天使達、そして神について学んだ者は証言する、御方を除いて永在の主は無し』、と」。
- さあ、ここで考えてみよう。神こそが最も良き証言者であるというのに、天使達とは何のことか。何ゆえに、この場に天使達が呼び出されるのか。その理由はこうだ - か弱い目、か弱い心では、太陽そのものの光輝と正鵠を、直接に受け止めることが出来ない。まるでコウモリのように、太陽の光に耐えかねて逃げ出し、太陽とまみえる希望を捨ててしまう。
それ故に、天使達が緩衝として配される。憶えておけ、知っておけ。天使達と私達は共に助け合う間柄だ。彼らもまた私達と同じように証言する者達であり、天空に太陽の光を延べ広げて太陽を知らしめる者達なのである - 「か弱き者よ、受け取れ、これぞ威力ある御方の光だ。私達はあなた方に光を届けよう、御方の使節となって」。
新月、七日月、満月と、月にも様相の違いがあるように、天使達にも光の階梯がある。「二対、三対、または四対の翼を持つ(コーラン35章1節)」。ヒトの知性も翼と同じだ。善であれ悪であれ、全てのヒトはその階梯にふさわしい翼を持つ天使を同僚としている。翼の数が増せば、より多くの光を届ける。知性が増せば、より遠くへと飛ぶ。
こうして星々が夜空に輝く、月明かりのみでは視界おぼつかぬ者達の導きとして。「私の同胞は星のようだ」、預言者は言った。「旅人にとっては導きのランプとなり、悪魔にとっては頭を打つ流星となる」。もし誰しもが天に輝く太陽の光をじかに見る目、じかに受け取る強さを持っているならば、月や星が太陽の存在を知らしめる証言者としてつとめる必要も無かっただろう。
月 - われらが預言者 - は、大地と雲と、影に向かって語りかける、「私はヒトに過ぎない。私とあなた方に、何の違いも無い。私はあなた方のうちの一人であり、『おまえたちの神が唯一の神であると啓示されている(コーラン18章110節)』。あなた方と同じく、私もまた暗く眠る土をその本質とする者。
私の胸に輝いているのは、太陽の下された光の啓示だ。この太陽、啓示を下された御方に比すれば、私は暗い夜の闇のよう。けれど私は、こうして魂の暗がりを照らす光を持つに至った。私が手にしているのはごくかすかな光だ、太陽の光をじかに見る強さを持たずとも、これならば見ることが出来るだろう。
私は薬だ、はちみつと酢を混ぜ合わせた薬だ。これはあなた方の心を苦しめる悩みを取り除く。ひとたび苦しみが取り除かれ、健やかさを回復したならば、もはやはちみつに酢を混ぜ入れる必要はない。はちみつそのものを、思う存分に味わうのが良い」。
心の座から激情が一掃され、再び静寂が戻ったその時こそ言え、「この慈悲ぶかいお方は玉座に登っていたもう(コーラン20章5節)」、と。心が御方とこのような関わりに達すれば、それ以降は仲介者無しに、神はじかに心を御したもう。
- これについて全てを語るには紙が足りぬ。さて、ザイドはどこへ行ったのだろうか?ひとこと忠告しておかねばなるまい、顔に泥塗るような真似はするな、と。
いや、今となってはザイドの姿は見当たらぬ。蹄鉄を嫌って逃げ出した馬のように、どこぞへ逃げてしまったようだ。いや、探すにはあたらない。ザイドが見つかるはずもない - ザイド本人でさえ、自分が何処にいるのか理解していないのだから。
太陽が昇れば、星の影なぞ見当たらぬのが道理というもの。いくら探そうとも、そのかすかな徴も足跡も見つけ出すことは出来ないだろう - 藁の束に藁一本を探すようなもの、天の川に星一つを探すようなもの。
ザイドに限らぬ。私達のこの感覚、この議論、理性と信じて疑わぬところのこれ。全ては、私達を統べる王たる御方の知識と知恵の裡に消滅する。さて、一体どうすれば、怠惰な眠りの枕から頭を持ち上げることが出来るだろうか。死人のように重い睡眠は、死肉のような(非合法の)食物の友だ。商人が眠りにおちる頃、夜盗は仕事に出かけて行く。
あなた方は、自分の敵が誰なのか知っているだろうか?土によって創られた者にとり、火によって創られた者こそ敵となる。火は、水とその系譜に連なる子供達の敵だ。逆に、水は火にとり生命線を脅かす敵でもある。水が火を殺すのは、火が水と、水の子供達の敵だからだ。
続ける前に言っておくが、ここで言う火とは欲望の炎であり、罪と過誤の因を指している。外界に燃える火であれば、水を注いで消し止めることも出来よう。しかし欲望の火であれば、地獄へ引き摺りこまずにはいないだろう。では、一体何を用いれば欲望の炎は消しとめられるのだろうか。
- 宗教の光だ。あなたの信仰の光は、異教の炎を消し止める手立てとなる。アブラハムの光を、あなた方の導師とせよ。そうすれば、薪のようなこの身体に棲みつくニムロードのようなナフス(我欲)の炎から解放されよう。燃え盛る欲望は、楽しめば楽しむほど消すことも減らすことも出来なくなる。何故なら満たすことは不可能だから - ただ立ち去ること。他に方法は無い。
炎を操ることなど出来ぬ、あなた自身が炎の中に横たわる薪なのだから。薪を運び出さずに、どうして炎が消えるだろうか?薪を取り戻せ、それで初めて炎の勢いも弱まる。神への畏怖こそ火にとっての水。神への畏怖は魂の頬を薔薇色に染める。心の座にまします神を知る者の顔は、煤で汚れることも無い。
結びに:ウマルの時代、メディナを焦がした大火事について
ウマルが治めた時代のこと。メディナの都で大火事が起きた。石までもが、まるで乾いた丸太のように燃える勢いだった。建物にも家屋にも燃え広がり、炎は鳥の巣から翼までをも襲って駆け抜けた。都の半分は、炎で燃やしつくされた。
水も驚愕して炎を怖れた。居合わせた幾人かの賢い者達が、水や酢の皮袋を火に向かって放り投げた。けれど炎は意固地になり、ますます燃え盛るばかりだった。人々はウマルの許へ急ぎこう言った、「我らの火事は、水では消し止められませぬ!」。
彼は言った。「あの炎は、神の御しるしの一つだ。あなた方の不正が、焰となって燃えているのだ。水は捨て置け、パンを施せ。貪欲を去るのだ、あなた方が私の仲間なら」。人々は言った、「私達の扉は開け放たれておりますとも。物惜しみせず、寛大に振る舞っておりますとも」。
彼は答えた。「否!あなた方は、ただ習慣と規則に従っているに過ぎぬ。あなた方は、決して神のためにその手を開いたのではない。優越感を味わうがため、見栄と驕慢のためであり、畏怖と篤信のため、感謝と嘆願のためではない」。
財産は種子だ、塩辛い土地に蒔いて何になろうか。盗人に、剣を与えて何になろうか。Ahl-Din(宗教の友)と、Ahl-kin(神の敵)を峻別せよ。神と共に坐す者を求めて共に坐せ。誰しもが、自分と同様の者をこそ身内と思って尽くすもの。愚者ほど自分こそは真に善行を為す者、真に信仰ある者と思い込むもの。
「ザイドの見た光景」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー