مثنوی معنوی - "Mathnawi ye-Manawi" Mawlana Jalal-Din Muhammad al-Balkhi Rumi
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「砂漠のベドウィンと、その妻の物語」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー


ある晩のこと。ベドウィンの女が、彼女の夫に口論をふっかけた。
話し込むうちにたがが外れたか、彼女の言葉はますます激烈になっていった。

 - 「ずいぶんと長いこと食べていないから、パンの味も忘れてしまったよ。台所にある香辛料といえば、苦痛の他には嫉妬だけ。ああ、貧乏にも苦労にもうんざりだ!世間は喜び浮かれているというのに、なんだって私らばかりがこんなにも苦しまなくちゃあならないのかね」。

水瓶が無いから水も無い、飲むものと言えば私らの眼から流れる塩辛い涙ばかり。
昼の間は、焼け焦げるような太陽の熱以外に着るものもなく、
夜の間は、月の光以外に敷くものも被るものもない。
空に浮かぶまるい月をまるいパンに見立てて、
私らは、宙に向って腕を差し伸ばせるだけ差し伸ばしてむなしくあがく。

最も貧しい貧者ですら、私らの貧しさを気の毒がるだろうよ。
日が昇っても夜が更けても、一日の糧をどうするか悩まなかったことはない。
親族であろうが他人であろうが、私らを見れば、
サマリアの人がそうしたごとく私らを避けて通る。
私が誰かに、たった一握りのレンズ豆を乞おうものなら、 - 

『黙って立ち去れ、死よ、災厄よ!』
『戦と贈与こそはアラブの誉れだというのに』
『そなたらときたら、アラブの名折れも甚だしい』
『まるでわれらがアラブの書に、紛れ込んだ書き損じのようだ』

 - 一体、私らの戦とは何か?私らに、どう戦えというのか?
戦わずしてすでに殺されたも同然、貧窮の剣に切り刻まれ眼も眩むばかりだというのに!
一体、私らに何を贈れと?日々の糧すらままならず、絶えず乞わねばならぬ身だというのに!
空飛ぶブヨを捕まえては切り裂き、その血を啜って乾きを癒す身だというのに!

見ていてごらん - 私の生が尽きる前に、ここに客人が来ようものなら、
そいつが眠りこけている間に、間違いなく私はそいつの衣を盗み取ってやるんだから!


閑話休題:偽聖者

学び始めたばかりの若い弟子達は、知識を得ようと焦りがちだ。それで、シャイフ然とした詐欺師にころりと騙される。にせものを指して、あの人こそは尊敬すべき立派な師だ、シャイフだ、と言う。نقد(naqd:事実)とنقل(naql:虚構)を読み違える。自然と不自然の区別もつかず、無作為と作為の区別もつかない。

詐欺師に騙されたという話は後を絶たない。知識ある賢人が、このような言葉を遺しているほどだ、「客になるなら、主を選べ。あなたに利益をもたらす者の客になれ」。あなた方にも心当たりはないだろうか。堕落した師に弟子入りし、持てるもの全てを失ったという人々は沢山いる。客になるなら、主を選べ。弟子になるなら、師を選べ。

何の取り柄もなく、何の力も持たない詐欺師が、どうしてあなたに何かを与えることなど出来るだろうか?どうしてあなたに、光を与えることなど出来るだろうか、闇以外に与えるものなど何も持たない者が。

詐欺師は、内側に灯る光を持たない。内側に光を持たぬ者とどれほど親しもうが交わろうが、新たな光が生じる余地はない。逆に、光を奪われるだけだ。泥酔し、まともに目も開けられない眼医者に、どんな治療が出来るだろうか。くるった手元で、コフルを目の中にまで塗られたら、こちらの目まで見えなくなってしまう。

知性の欠落と、それに始まる不幸とは、およそこのようなもの。ああ、我らが、客人の誰ひとりとして惑いの道へと誘い込むことがありませんように! - あなた方は、十年以上に及ぶ飢餓を目にしたことはあるだろうか?無いのなら、今こそ目をしっかりと見開き焼きつけておけ、私達の姿を。私達の外見は詐欺師の内面、飢えてあなた方の扉をたたく砂漠のベドウィン。

そして外見には羊毛の衣を身につけて、人の気を惹くもっともらしい言葉を語っても、詐欺師の内面はまさしくそれ、彼らの心は暗い飢餓そのもの。全くの空っぽ、神の芳香も痕跡も感じられない。あるのは虚偽だけ。人類の父アダムよりも、アダムの子セトよりも、自分を大きく見せようとする詐欺師の虚偽だけが漂っている。

悪魔ですら、彼らを見れば恥のあまり赤面し、彼らを避けて姿を現すこともしない。それで彼らは、言いつのることをますますやめなくなる、いわく「我こそはアブダール、あるいはそれよりも優れた者」。自分こそ聖者であると他人に思わせるために、ダルヴィーシュ達が使い続けてきた表現の数々を盗みとる。挙げ句、バーヤズィード(・バスターミー)にまで難癖をつけて議論をふっかける。

ヤズィードでさえ、彼らの存在を恥じずにはいないだろう。天国に、彼らの席はない。パンのひとかけ、饗応の一皿たりとも彼らのために用意されたものはない。神は彼らに、残りものの骨を投げることすらなさらなんだ。彼らは大声でふれまわる、 - 「天国の晩餐の、席を整え準備したのは何を隠そうこの私。

何しろ私は神の代理、カリフの血をひく者。さあ、疑うことを知らない純真無垢な者だけが晩餐においでなさい、飢えと乾きを満たしなさい。私の食卓には、ご馳走が山と積んである。きっとあなた方の気に入ることだろう、満腹しない者は一人もいないだろう」。 - 満腹しない者は確かにいない、嘘とごまかしに関しては。

約束が果たされるのを、もう何年も待ち続けている者もいる。明日こそは、明日こそは。だが約束された明日など、決して来ない。まだほんの子供のような年頃の学生達。痩せてちっぽけな体で、魂について考えを巡らせている。全てが寝静まった夜に一人目覚めて、問いの答えを、キブラを探している。

 - 誰かの意識の一番奥に隠されている本心を、別の誰かがはっきりと明白に知るのには、長い時間が必要になる。宝の館か、あるいは蛇や毒虫の館か、見抜くのはなかなか難しい。ある日、詐欺師の正体が暴かれ、何の益ももたらさない人物であることが知れても、その時には弟子達も年老いている。彼らの上に流れた時間は、取り返しがつかない。いったい、彼らにとり知識の探求とは何であったのか?

 - ところで、時として心の底から詐欺師を立派な師と信じ、研鑽に励んだために、詐欺師ですら想像もしなかったような境地へと弟子が到達することがある。こうなると、詐欺師はもちろんのこと、火も水もこの弟子を害することは出来ない。しかしこれは、ごくまれにしか見られないことではある。あたかも偽物の詐欺師が、弟子に益をもたらしたかのように見える場合もある、ということだ。

真に誠実な意図をもって励めば、師の出来・不出来に関わらず、弟子の意図それ自体が彼を正しき道、正しき境地へと導く - ああ、神は彼らの願いを、祈りを、必ず聞き届けたもう。彼らの出した問いの答えが、たとえ間違っていたとしても。キブラが、たとえ見つけられなかったとしても、祈りが祈りであることに変わりはないのだ。


 - 「その詐欺師とやらは、うぬぼれのせいで魂が欠けちまったんだろうよ。ちょうど私ら夫婦が食べるものも無く、痩せこけちまったのとおんなじさ!だけど私らはそんなろくでなしとは違って、自分の貧しさを取り繕ったり隠したりはしないよ。欲しいものは欲しいと正直に言うさ、他人からどう思われようが構うものか。世間の評判なんぞで、腹はふくれやしないんだからね!」。

 - 憤るベドウィンの妻。夫が、何かを説きはじめた。夫の言い分を聞いてみるとしよう。

「金、金、金。何だっておまえは、いつもそう金の話ばかりするのだ」、夫は言った。「大体、私らは二人とも、すでに人生も半分以上を終えたようなもの。お迎えを待って死ぬ以外に、しなくてはならないことなど無いだろう。きれいもきたないもあるものか、無駄なことなど何ひとつないのだ」。

息を吸うにしろ吐くにしろ、もっと大事にしたらどうなのだ。
そんな当たり前のように、無造作に息をするな、
息をしなけりゃ私らなぞ、あっと言う間に死ぬのだぞ。

見てみろ、地上にいる沢山のいきもの達を。
本当にあいつらときたら、楽しく愉快に、自由に生きているじゃないか。
高い木の枝にいる鳩の群れを見てみろ、あいつらだって、
いつでも餌にありつける保証なんぞどこにもない。
それでも毎日、神に感謝して生きているじゃないか。

ナイチンゲールだってそうだ。
毎夜、神を想って歌を歌うじゃないか、 - 
『祈りを聞き届けたもう御方よ、われらはあなたに全てを委ねます!』
鷹だってそうだ。王の腕を喜びの止まり木と心得て、
捕えた獲物は全て王に捧げ、分け前を寄越せなどと言ったりはしない。

ブヨから象まで、あらゆるいきもの達に同じことが言える。
皆が皆、神に全てを委ねている、必要なものは全て神から頂戴する。
いきもの達は神の家族だ - 
そして神は、本当に家族を良く養って下さっているじゃないか!

私らの胸中にわき起こる嘆きなど、何の意味も無ければ価値も無い。
よくよく見ればその正体は、私らという存在の砂埃が、
私らの欲望の風に煽られて舞い上がったというだけのこと。

こうした嘆きは私らにとり、何もかもを台無しにする死の大鎌のようなもの。
『悲しかろう?辛かろう?』と、ひっきりなしに私らの耳元で囁き、
私らの気をあらぬ方向へ引っ張っていこうとする - まさしく悪魔の誘惑だ。

知っておけ、ありとあらゆる痛み、苦しみは小さな死のかけらだ。
逃げられるものなら、追い払えるものなら、やってみるがいい。
こんなちっぽけなかけらであっても、私らにはどうすることも出来やしない。
 - そしていつかは、ちっぽけなかけらどころか、
ほんものの死が丸ごと私らの上に注がれるのだぞ。

だがもしも死のかけらが、おまえにとり甘いものとなったなら、
やがて訪れるほんものの死も、神はおまえにとり甘いものとして下さるだろう。
覚えておけ、痛みは死の許から送り届けられた死の使者だ。
それなのに、死の使者を疎んじて顔を背けようなどとは!
一体、おまえはどこまで愚か者なのだ。

浮かれて楽しく、面白おかしく一生を過ごした者ほど、
やがて訪れる死は苦痛に満ちたものとなる。
肉体の快楽を求めた者に精神の快楽は与えられまい、その魂も救われはしまい。
羊もいつかは草原から追い立てられ町へ、市場へと連れて行かれる。
肥えた羊ほど、他の誰よりも先に屠られ殺されるもの。

 - さあ、もう夜も明ける。やがて朝日も昇る。
わが妻よ、おまえはこの先もずっと、金の話を続けるつもりかね?

若かった頃のおまえは、もっと生き生きとして満ち足りていた。
今のおまえは財を求めて血眼になっている、
けれども以前なら、おまえ自身が貴重な財であった。
果実を沢山つけた木の枝のようだったおまえに、一体何が起きたのか?
時が経てば、果実は熟して甘くなるもの。
ところがおまえの枝ときたら、何もかも乾いて枯れてしまったかのよう。
糸の束をよじって綱を作る職人達のように、おまえは流れる時間をよじった。
だが職人達とは違い、良からぬ方向へ行ってしまった - 

愛するわが妻よ、私がこれから言う事を良くお聞き。
私達はお互いに、全く同じくらい価値がある。
一対の夫婦として、それが自然なことなのだよ。
結ばれたもの同士、いつでも互いに調和していなくては。

一対の履物、一対の長靴を見ればわかるだろう。
片方が小さ過ぎて、足を痛めつけるようならば、
もう片方だって何の役にも立たないことになる。
両開きの扉も、左右同じ大きさであればこそ扉。
密林の狐が、獅子と褥を共にするなどあり得ぬ。
砂漠を渡るラクダの荷も、常に左右は同じ重さ。

私は私の強い志ひとつで十分に満ち足りている - それなのに妻のおまえときたら、
どうしてそんなところで立ち止まり、自分を損ねるような真似をするのか。

人生に満足しきっている様子の夫は、このような話しぶりで妻を諭した。誠実さと情熱が彼を突き動かし、日が昇っても彼は熱心に語り続けて留まることがなかった。「もう沢山!」、妻が悲鳴をあげた。「あんたに都合の良い話ばかりをだらだらと続けて。その上、あんたの方が私よりも信仰の格が高いと言わんばかり。でもねえ、あんた。どれほど言葉が正しかろうと、そんなのは口先だけじゃあないか。

あんたの信仰がそんなに上等なら、口先だけじゃなく行為で示しておくれよ。神様だって、あんたみたいな男のことはよくご存知さ、『なぜ自分の行なわないことを口にするのか。行なわないことを口にすることは、神のもっとも憎悪したもうところである(コーラン61章2・3節)』」。妻は夫に向って叫び続けた。

あんたの話なんて、これ以上一言だって聞くものか。
敬虔そうなふりをして、信心深い男と呼ばれたいだけのくせに。
身勝手なあてずっぽうで、もったいぶった話をするのは金輪際やめておくれ。
あんたは私に、まじないをかけようとしてるんだ。

話をするなら、うぬぼれや傲慢さを捨ててからにしたらどうなんだい。
借りてきたような嘘っぽい言葉ばかり並べて、
肝心の中身なぞまるで無い話を、一体いつまで続けるつもりなんだい?

思い上がるのもいい加減にしておくれ、自分をよく見てごらん!
うぬぼれほど醜いものはない、ましてやそれが乞食なら尚更のこと。
雪の降る日はただでさえ寒いのに、
その上びしょ濡れの衣なぞ誰が欲しがるものかね。

うぬぼれの長話をいつまで続けるつもりだい。
あんたの長話が終わるのが先か、
蜘蛛の巣よりもか弱いあんたの家が壊れるのが先か。
魂の救いだって?満ち足りてる、だって?
一体いつ、あんたの魂にそんな好いことがあったと言うんだい。

魂だの、満ち足りてるだのってしゃれた言葉を習ったものだから、
ちょっと使ってみたくなっただけのことじゃないか。
預言者だって仰ってるよ、『満足とは何か?それは宝だ』とね。

痛みや苦しみから、どうあがいたって宝なぞ得られやしないんだ!
満足があってこそ、精神の快楽だって、魂の宝だって得られるというものさ。
痛みや苦しみを後生大事に抱え込まなくちゃならない正当な理由が、
教えておくれよ、一体どこにあると言うんだい!

『妻よ』だなんて呼ばないでおくれ、味方だなどと思わないでおくれ。
私は正義を夫にした女だ、詐欺師と結婚したおぼえはこれっぽっちもないよ。
空飛ぶイナゴを捕まえては、食うためにその静脈を切り裂くような生活で、
あんたはどんな顔をして、将校様や君主様にお目もじするつもりだい?
投げ捨てられた骨を犬と争って奪い合う身じゃないか、
葦で作った笛みたいに、おなかは空っぽの身じゃないか。

 - 本当のことを言っただけさ。
そんなふうに、軽蔑したような目で私を見るのはやめておくれ。
そうでなけりゃ、あんたが隠してるあんたの間違いを、
大勢の前で全部、全部ぶちまけてやるんだから!

あんたは自分の方が賢いと思い込み、私があんたより劣っていると決めつけた。
だけど実際はどうだろうね?よくごらんよ、この私を。
本当に物事が分かっていないのは、あんたと私、どちらだと思うんだい?

 - やめておくれ!後先を考えない狼みたいに私に飛びかかるだなんて。
本当にどうかしているよ。あんたの方が賢くて、私の方が愚かだと言うのなら、
賢くなんかならなくとも、愚かでいた方がよっぽどましさ!
何故ってあんたの言う賢さなんか、
あんたの手枷、足枷にしかなっていないじゃないか。
一体、それのどこが賢さだっていうんだい?
害にしかならないだなんて、まるで蛇や蠍じゃないか。
神様が、あんたの不正と虚偽を敵とみなして滅ぼしたまいますように!
あんたのばかげた考えが、これ以上私達を傷つけませんように!

一人芝居に巻き込まれるのは御免だよ。
あんたは蛇で、同時に蛇使いの男。
一人二役を演じているのさ、ご立派なこと!
あんたは蛇で、同時に蛇を捕まえる男 - とんだアラブの名折れだよ!
カラスだって、自分の醜さを知ったら、
痛みと悲しみで雪みたいに溶けて消えちまうだろうに。

 - 蛇使いはまじないを唱える、戦の場で敵にそうするように。蛇使いは蛇にまじないをかけたつもりでいる。けれど蛇は蛇で、蛇使いにまじないをかけ返しているのだ、蛇使いも知らぬうちに。まじないが効けば、蛇は一生蛇使いから離れない。効かなければ、蛇使いは蛇の餌食になるしかない。

強欲な蛇使いは、自分がこの蛇を操っていくら稼げるか、そればかり勘定している。だから蛇にかけられたまじないに気がつかない。蛇は言う、 - 「ご用心、ご用心!蛇使いよ、おまえは私にかけたまじないの効き目にばかり気を取られているが、それこそが、私がおまえにかけたまじないの効き目なのだ。

おまえは私を怖じ気づかせ怯ませるために、ただそれだけのために、いたずらに神の御名を口にした。私が我が身を恥じておまえに捕えられたのは、おまえの伎倆が素晴らしかったからでもなければ、おまえのまじないが強力だったからでもないぞ。ただただ、私が神の御名を畏れたからだ。

この身、この心の全てを神の御名に捧げ尽くしている私を捕えるために、おまえは神の御名を罠として利用したのだ。その代償が高くつくぞ!卑怯者め、恥を知れ!私の牙で、おまえのつまらぬ一生にへばりついた静脈を切り裂いてやろうか。それともおまえが私を閉じ込めたように、おまえの妻をおまえの牢獄にしてやろうか」。

 - 延々とこの調子で、妻は荒れた言葉の数々を、まだ自分で言うほどにも老いてはいない年齢の、彼女の夫に浴びせ続けた。「言うに事欠いてファキール(「貧者」の意、転じて托鉢の修行者を指す)を侮辱するとは!」、夫はたまらず言い返した。「おまえの浅はかな考えや気まぐれだけを根拠に、困窮に甘んじる貧者をののしるのは許されることではないぞ。貧しさに眼を奪われるな、神の御業にこそ眼を奪われろ!」。

おまえは恐ろしい女だ。いや、おまえはそれでも本当に女か、わが妻よ。
『貧しさは我が身の誉れなり』と、私らの預言者も仰っているのを忘れたのか。
乱暴な言葉で、私を鞭打つのはやめてくれ。

富や財というものは、頭にのせる帽子のようなもの。
帽子に逃げ込むのは禿げ頭と決まっている。
美しく縮れた巻き毛を持つ男なら、帽子など無い方が幸福だ。

神の人とは、眼のようなもの。神の光を捉えるためにも、
その視界がヴェイルで遮られるようなことがあってはならぬ。

奴隷商人達は、値踏みするのに奴隷の衣服を全て脱がせる。
衣服を身につけていたのでは、傷の有る無しが隠されてしまうからだ。
だが傷を持つ奴隷を売りつけようという時には、逆に奴隷を衣服で包み隠す。
それから金持ちの客に向ってこう言うのだ、 - 
『旦那、この奴隷は善悪や道徳を心得ております』
『着ているものを無理に脱がそうとすれば、あっというまに逃亡しますよ』

彼らは、耳元まですっかり悪徳に沈んでいる。
彼らは金だけは持っている、その金が、彼らの悪徳の埋め合わせになるのだ。
それで彼らは、沈んだきり浮かんでは来ないのだ。
欲望の奴隷となった者には、自らの犯す過ちが見えなくなってしまっている。
彼らの主人である欲望が、彼らの心を余すところなく占めているからだ。

物乞いする貧者が、鉱山の奥深くに眠る純金のように価値ある言葉を口にする。
だがそれが、どこかの店先で売買されることなど決して無い。
彼の言葉、彼の品物は、市場へと至る道を通らない。
彼、すなわちダルヴィーシュの『商い』は、
おまえの理解を超えたところで行なわれているのだ。

 - おまえは身の貧しさばかりを不安がる。
だが本当に不安がるべきなのは、心の貧しさ、魂の貧しさではないのか。
貧しさというものは、おまえがするように安易に軽蔑していいものではない。
ダルヴィーシュ達の築いた地位や財が、おまえには見えていないのだ。
彼らの取り分として神が用意したもうた恩寵は、有り余るほどに豊かなのだよ。

いと高き神は公正な御方。
公正の上にも公正な御方が、貧しき者、弱き者を相手に、
暴君のごとく理不尽に振る舞うはずがないだろう。
真に脈打つものは、御方を恋い慕う者の心臓だけ。
それともおまえは御方が、あちらの者には欲するものを欲するだけ与え、
こちらの者には炎しか与えない、とでも言うのか。

違う。その炎は、彼ら自身から生じたものだ。
天空と大地の両方の創造主についての、
彼ら自身の邪悪な憶測が彼らを焼き滅ぼすのだ。

 - 『貧しさは我が身の誉れなり』という言葉は、
果たして間違っているだろうか?
その言葉は、驕りから生じたものだろうか?
違う、断じて違うぞ。
その言葉に、幾千もの秘められた歓喜と謙譲があるのが分からないか。

 - 「怒りにまかせて、おまえは私にあだ名を投げつけた。おまえは私を詐欺師と呼び、蛇使いと呼んだ。もしも私が蛇使いなら、まじないなどよりも、さっさと蛇の牙を抜き取るよ。蛇の牙は、蛇自身の敵でもあるのだから。私はまじないを唱えたことなど一度たりともない、ましてや自分の欲望のためになど。もう随分と前に、私は私の欲望を裏返し、その手足を鎖につないでしまったのだ。

神よ、赦したまえ!私は、こちら側の世界にある被創造物には何ひとつ望まない。欲するのはただ心の平穏のみ。これだけが、私をあちら側の世界へと連れていってくれる。 - 梨の木のてっぺんによじ登り、自分以外の全てを見下してやろう、軽蔑してやろうと必死に構えているおまえ。無理をしてそんな高いところにしがみついているから、悪いめまいなんぞに襲われもするのだ。

さあ、早くそこから降りて来い。おまえは世界がぐるぐると廻っていると思い込んでいる。だが降りてきて大地を踏めばおまえにも分かるだろう、わが妻よ、廻っているのは世界ではなくおまえの方だよ」。


閑話休題:限られた視点から物事を視ることについて

ヒトというものは、どうにも自分の立ち位置からものを言い、
また自分の立ち位置からものを行なうことから逃れられぬ。
誰しもが、自分の立ち位置からものを見、ものを聞き、他人に出会う。

青いガラスは太陽の光を青く見せるし、赤いガラスは太陽の光を赤く見せる。
数あるガラスのうちで、色彩の領域を離れた透明なガラスだけが、
最も正直に、ありのままの太陽の光を見せてくれる。

 - 透明なガラスの如き人物、それがイマム(導師)だ。

その昔、アブー・ジャフルが、我らがアハマドに向って出会い頭にこう言った。
「忌まわしいやつめ、醜い男め。ハーシム家の、とんだ面汚しよ」。

「全くその通り」、アハマドは言った。
「あなたは正しく真実を述べている、無礼で遠慮が無いけれど」。

次にシッディーク(アブー・バクル)が、彼に出会ってこう言った。
「これはこれは、わが太陽!東の産にあらず、西の産にあらず。うるわしく輝く方よ!」。

「全くその通り、」アハマドは言った。
「あなたは正しく真実を述べている。友よ、現世からすっかり足を洗ったのだね」。

これの一部始終を見ていた人々は言った」
「我らが王よ、あなたは二人が、二人共に真実を述べていると仰るのですか」。
「それぞれ、全く正反対のことを言っているのに」。

彼は答えた - 「私は鏡だ。御手によって磨き込まれた鏡なのだよ。
テュルクの人であろうが、ヒンドの人であろうが、
誰でも私を見る者は、私の中に彼ら自身を見ることだろう」。


 ー 「わが妻よ。おまえは私が傲慢だと言う。何故おまえという女は、そんなにも疑り深いのか。どうして世間のあれこれに、未練がましく関わるのをきっぱりと辞めることが出来ないのか。おまえは、私を貪欲な蛇使いだと言う。なるほど私の在りようは、おまえにはそう見えているのだろう。だが実際のところ、これが情けだ、これが慈しみというものだ。御方が私に与えるのと同じものだ。貪欲の入り込む隙間など、一体どこにあるものか。

ともかくも、貧しさを受け入れてみろ、一日、二日だけでも構わないから。
そうすれば、おまえも貧しさの中に二倍の富を見出すだろう。
耐えてみろ。貧しさを嫌って、貧しさを避けようと、
悪あがきするのをほんの少しだけでもやめてみろ。
主の栄光とは、貧困の中にこそ見出されるものなのだよ。

ねえ、おまえ。そんなふうに酢を飲んだようなしかめ面をするものじゃない。
おまえには、この海が見えないのか。
数え切れぬほど多くの人が、平穏を得ようと飛び込んだ蜜の海だ。
見てごらん。傷つき、苦しんだ多くの魂も、今やすっかり蜜に染まって、
ふわりふわりと、まるでシロップの中を行ったり来たりする薔薇の花びらのよう。

ああ、ああ。おまえに、それが理解出来たならいいのに!
今まさに私の心の扉が開かれようとしている。
聞こえないか、私の魂が、おまえの魂に何かを伝えようとしている。

それは魂の胸から流れる乳のようだ - 
赤ん坊が欲しがらぬ限り、乳は胸から勝手に流れ出はしない。
だが喉がからからに乾いて、水を欲する者がある限り、
たとえ墓の下の死者となっていたとしても、語り手たる者、
聞き手が欲する限り、雄弁に語り始めるだろう - 
聞き手が力を失い、どんよりと疲れ切っているのでもない限り、
みずみずしい力に満ちている限りにおいては。
たとえ口もきけず耳も聞こえぬ者であっても、
百の舌を何としてでも探し出し、語るべきことを語るだろう。

見知らぬ赤の他人が扉の前に立てば、
女達はヴェイルを被ってハレムの奥へ逃げ隠れる。
だが害を及ぼさぬ縁者なら、女達はヴェイルを外して彼らを迎え入れる。
何であれ、美しく愛らしく、素敵な全てのものは、
それを見る眼のためにこそ造られている。
美しく甘く流れる調べ、高音と低音をつらねた旋律も、
それを聞く耳のためにこそ造られている。

麝香が放つかぐわしい香気も、楽しむためだけにあるのではない。
匂いを嗅ぎ分ける感覚のためにこそ、神はそのように造りたもうたのだ。
芳香と悪臭の別も弁えぬ者のためにあるのではない。
陸も空も、神はそのように造りたまい、
またそのどちらにも、多くの炎と光を標として添えたもうた。

陸は土から造られた者達のため、空は炎から造られた者達のため。
低きに流れる者達は、高きを目指す者達の敵にしかなれない。
各々の行為を見れば一目瞭然、明らかに見てとれるだろう。
低い処、高い処、誰がどちらを買い取ったのか、
全ては天の帳簿に記録されている。

 - おまえは無垢な女だ、わが妻よ。
教えておくれ、女というものは、
眼の見えぬ男のために着飾ったり、化粧したりするものなのか?
世界中に散らばった、隠された知恵の真珠を集めて、
首飾りを作ってやろうか - おまえに見せてやりたいよ!
けれどおまえにそれが見えないと言うのなら、
これ以上、私は何をしてやれるだろう?

諍いはもう沢山だ、わが妻よ。
私は互いに互いの敵となって争いたくないのだ。
それでも争いを避けられないのなら、私を避けろ - 私から去って行け!
物事を、善と悪のふたいろに分けて、
どちらが正しく、どちらが間違っていると争うのは御免だ。
穏やかに、静かに過ごしていたいのだ。

 - 「これで最後だ、わが妻よ。おまえが穏やかに、静かに過ごしていてくれるならそれで良い。だがそれがどうしても出来ないと言うのなら、おまえが立ち去るか、あるいは私が立ち去るかだ」。

そんな激しい言葉を夫が口にしたのはこれが初めてだ。妻は、夫が自分の手に負えなくなったことを悟った。悟った次の瞬間、妻はしくしくと泣き出していた - 女の流す嘘いつわりのない涙ほど魅惑的なものはない、それが罠だと分かっていても。妻は言った、「あんたの口からそんな言葉を聞くなんて考えてもみなかったよ、もう少し違う何かをくれるだろうと思ってたのに」。妻は控えめに、へりくだった様子で夫ににじり寄った。

「ねえ、あんた。私はあんたにくっついた埃みたいなものだね」、 - 彼女は言った。

あんたの妻、この家の女主人と呼べるほどの価値など私にはないさ。
それでもこの体だって心だって、私はまるごとあんたのものなんだよ。
だからあんたは、何だって好きなように命令したらいいのさ、
あんたが今そうしているようにね。
それが夫と妻だって言うなら、そうするが良いさ。

けれどそれならそれで、妻が貧しさに耐えきれなくなっても、
それは妻のせいじゃなく、夫のあんたのせいじゃないのかい。
妻の私が病なら、夫のあんたが薬だろう。
自分の思う通りに命令できる夫のあんたが、
あんたの命令に従うしかない妻の、私の面倒を、
まともに見られなくてどうするんだい - だからこそ私は、
あんたがこれ以上文無しでい続けることに反対しているんだよ。

まだ分からないのかい?私の魂、私の良心に誓って言うよ。
私は自分のために言ってるんじゃない。
私が泣いたりわめいたりするのは、
あんたに掛け売りしてるようなものなんだよ。

神かけて、あんたのためだったら私はいつでも喜んで死ねるよ。
魂の一番深いところで、私はいつだってそう考えているよ。
けれどあんたの魂は、そんな私の魂のことを、
ちょっぴりでも気にかけてくれているんだろうか。

あんたが私をばかにして見下すたびに、
心を広くしよう、広くしようと、私は自分に言い聞かせ続けてきたのさ。
そのおかげで、あんたのためなら、
命も惜しくないとさえ思えるようになってしまった。

これで全部だ、私はもう何も言わないよ、銀貨も金貨も要らないよ。
あんたが全てだ、あんたさえいてくれるんなら、私は他に何も望まないよ。
私の心も魂も、あんたのものにしておいて、
ほんの少し気に食わないことがあったからと言って、
あんたは私を捨ててしまえるのかい - やめておくれよ!

それが夫の権利だと言うんなら、今度こそ本当におしまいだ。
あんたは妻の私よりも、夫としての権利の方を選ぶって言うんだね。
 - ああ、魂がはり裂けてしまいそうだ!

あんたはもう忘れちまったのかい - それはそれはきれいな偶像と、
きれいな偶像を熱心に崇拝する異教の男がいた頃のことを。
 - ああ、あの頃に戻れるものなら戻りたいよ!

偶像だった私は、あれ以来あんたの言うことは、
何だってひとつ残らず聞きもらさぬようにと、
自分の心は台所の火にくべて燃やしたのさ。
いつどんな時だって、ひとこと、あんたが『おい』とだけ言えば、
私は『はい』と答えて皿を差し出してきたんだ。

煮るなり焼くなりあんたの好きにしたら良いのさ、
私はあんたのほうれん草なんだから。
酸っぱいスープに入れようが、刻んでまるめて揚げようが、
全部あんたが食べたら良いんだ。

 ー ずいぶん罰当たりなことを口にしたけれど、もう二度と言わないよ。
あんたの言っていることは良く分かったよ、あんたは正しいよ。
あんたを信じるよ、何でも命令しておくれ、その通りにするから。
知らなかったんだよ、あんたが本当の王様だってことをさ。
私ときたら、王様の前でみっともなく取り乱してしまって。
許しておくれよ、もう二度とあんたに逆らったりしないから。

私の後悔のランプに、あんたの容赦の火を灯しておくれ。
罰すると言うのなら罰しておくれ、そら、私の首はここだよ。
討ち取るっていうなら討ち取っておくれよ、殴りたければ、殴っておくれよ!

それでもあんたは私を捨てるのかい。
ああ、他のことなら何でもするから、それだけはやめておくれよ!

あんたの良心は何と言っているんだい。
私はあんたの良心に従うよ、他に仲裁してくれる者もいないんだもの。
あんたにとっても私にとってもそれが一番正しい答えさ。
私じゃ駄目だよ、私は罪深くて、あら捜しばかりしてしまうから。

 - 「ねえ、もう怒らないでおくれ、優しいあんたでいておくれ。樽にいっぱいの蜂蜜よりも、あんたの方がよっぽど素敵だと思っているんだよ」。彼女は、こんなふうに切々と訴えた。合間には、切れ切れに彼女のすすり泣きがしおりのように挟まれ、その様子はいかにもいじらしく見えた。いつしか涙も、嗚咽もどこか遠くの方へと通り過ぎていった。

涙など流さずとも、今の彼女は夫を惚れ直させるのに十分な存在感を放っていたが - 妻の涙が、心と心を隔てる国境の線を超えたその瞬間、夫の心に雷光が走った。続いて大粒の雨が、落雷がまき散らした火の粉の上に激しく降り注ぎ始めた。ふと見れば、そこにあるのは長年連れ添った妻の顔だ。

かつて夫はその顔を飽きず眺め、奴隷のように彼女にかしずいた。その彼女が、自分に対して奴隷のように振る舞おうとしている。かつて夫は彼女の自尊心に、彼女のつれない素振りに何度でも心を震わせた。その彼女が、今やこんなにも弱々しげに、今にも倒れそうな様子を見せている。

自分の心、自分の魂をあれほどまでに打ちのめし、痛めつけていたのは彼女の方だったのに。気付けば息も絶え絶えに、自分に懇願しているのは彼女の方だ。一体、どうしろというのか。何が出来るだろうか。かつて彼女らの罠に、我らは幾度となく陥れられた。その彼女らが、膝を屈して願いごとをする。我らにとって、これ以上の打撃があるだろうか - 

「何であれ、美しく愛らしく、素敵な全てのものは、それを見る眼のためにこそ造られている」。

神がそのように造りたまい、そのように配したもうたのだ。逃げ道などありはしない。神がそのように造りたもうたのなら、どうしてアダムが、イブから離れて生きてなどいけるだろうか。得ようとしている平穏そのものもまた、愛する者の許にこそあるというのに。たとえ夫の勇気がロスタムの子ザッルやハムザに優ろうとも、長年連れ添った妻の前では捕虜も同然、何の力もありはしない。


閑話休題:賢い男は女にかしずくが、愚かな男は女をかしずかせる

賢い男ならば、女にはかしずいて支配されるもの。
女をかしずかせ、支配しようとするのは愚かな男のすることだ。
かつてその言葉を以て全世界を虜とした我らの預言者ですら、
妻に冷たくあしらわれれば涙を流して大声で言ったものだ、
 - 「応えておくれ、フマイラよ!」、と。

勢いよく放たれた水は、激しく燃えさかる炎をたちまち消し止める。
だが水と炎が大釜で遮られていれば、水には炎を消し去ることは出来ないだろう。
炎の熱にあぶられて、大釜の中の水が沸騰し始める。
読者諸賢よ、このまま炎が燃え続ければどうなるだろうか?

 - その通り。水は蒸発して消え去ってしまう。

私を理解しろ、私を見ろ、私の言う通りにしろ。
妻に向ってそのように命じる夫とは、まさにこの炎のようではないか。
夫が妻に対して様々に求め欲する限り、
表向きには夫が妻を支配しているようでも、
真に支配しているのは夫ではなく妻の方だ。

だがそれこそが、アダムの末裔である人間にのみ備わった、人間の証明でもある。
人間以外のけもの達にとって、愛と欲望は同義だ。
だが人間は違う。欲望の充足のみではなく、愛の充足をも求める。
そしてそれこそが、人間を他のけもの達よりも高貴なものとしているのだ。

預言者が、女性達について語っている - 
「何とみごとなことか。知恵を覆い隠すヴェイルを、彼女達が取り去る様子を見るがいい」。
だがその一方、無知な男達はけもののような獰猛さで、
荒々しく彼女達のヴェイルを剥ぎ取ってしまう。
そこには優しさも親密さも、愛情のかけらもありはしない。
荒々しい情欲のままに行動するのは、けものに属する性質である。
彼らは自らの人間性よりも、獣性に従って行動しているのだ。

人間の価値は、愛と優しさによって決まるもの。
真に人間ならば、愛する者を前にして「この世のものとも思えぬ」と、
感じたことが一度や二度は必ずあるはずだ。

 - それもそのはず、彼女達は神より直に注がれる一筋の光そのもの、
地上の何ものにも依存しない。

「神は、ただ一人の人間からおまえたちを創造し、彼からその妻を造り、彼女のもとに安住させたもうお方である(コーラン7章189節)」。

女性とは、束の間の情欲を満たすがために創造されたのではない。
むしろ女性こそが、創造の根源そのものなのだ。


 - ただ苦悩のみが、人間を成長させる。知識ある者ならば、この事実を認めるだろう。

夫は、妻の願いを聞き入れぬわけには行かなかった。妻の反逆を、自分に対する神からのみしるしとして受け入れぬわけには行かなかった。妻の言う通りだ。生計を建てる手段を探さねばならない。冷静に考えてみれば、妻の言い分はしごく真っ当なことばかりだ。彼は自分の物言いを恥じた。まるで民衆の反乱によって、今まさに処刑される寸前の専制君主のような気分だ。

「わが妻、わが魂よ。私を支えてきてくれたおまえに、どうしてあんなにもひどいことを言ってしまったのだろう?自分を愛する者の、敵になってしまうだなんて。自分が愛する者を、乱暴に足蹴にしてしまうだなんて」。>だがそれもまた、起こるべくして起こったことだ。運命とはそうしたもの、突然に私達に襲いかかり、私達の視界をヴェイルで覆ってしまう。これでは知性も働けず、上も下も区別がつかなくなる。

やがて運命が立ち去れば、ヴェイルも取り除かれ、その下に残された胸の傷もあらわになる。起きてしまったことを目の当たりにして、知性には嘆き悲しむ以外にすべがない。「おまえの言う通り、かつて私は異教の男だった」、夫は言った。「誓うよ。今こそ、神に従う者として歩み始めよう」。


閑話休題:モーセとファラオの秘密について

モーセとファラオについて語っておこう。結論から言えば、彼らは二人共、二人ながらに神の御意志のみしるしだったということになる。光あるところに闇があるように、薬あるところに毒があるように - 孤独なファラオは人知れず神に祈った、彼の名声が地に堕ちることを恐れて。

犯した過ちを悔いて赦しを請うこと、それが神の道に生きるということ。すなわちムスリムになる、ということである。御方は慈悲深く、その愛には限りというものがない。すでに存在するもの、未だ存在せぬもの、どちらもが常に御方の愛に満たされている。森羅万象、御方の愛から一瞬たりとも離れない。

不信も信も、ふたつながらにかの偉大なる御方を恋い慕ってやまぬ。銅も銀も、ふたつながらにかの偉大なる錬金術師に仕える身だ。光と闇がそうであるように、薬と毒がそうであるように、モーセとファラオもまた、二人ながらにかの偉大なる実在に仕える身、御方の、御意志の顕われであったのだ。

なるほど外面だけを見たならば、前者は正しく導かれてその身を守り、後者は道を誤って滅ぼされたということになろう。明るい昼の日差しの中で赦しを請うたのがモーセなら、夜の暗闇の中で孤独にすすり泣いていたのがファラオだ。彼は嘆いた、「神よ、わが首に巻き付けられたこの鎖は何なのか?この鎖のせいで、苦しくて苦しくてたまらない!だがこの鎖が無ければ、私は私ではなくなってしまう。私が私であることを知らしめるのものまた、唯一この鎖の重さ、冷たさのみなのだ。

神よ、あなたはその御意志もてモーセを光り輝く者となされ、また同じ御意志もて、私をまがまがしく暗い影となされた。モーセは、まるで夜空を明るく照らす月のよう。だがきらめく彼とは裏腹に、私は蝕だ、月の顔に暗い影を落とす蝕だ。月のごとき彼の上に定められた星は吉兆、私の上に定められた星は凶兆。日々、満ちることなく欠けてゆくばかりの蝕であるこの私に、何の救いがあるというのか!

私が一言、『汝らの主は私だ』と言えば、奴隷達は太鼓を打ち鳴らして褒めそやす。だがそれが一体何になるというのか。あれらは私を敬っているのではない、蝕に興奮しているだけだ。あれらは何ひとつ分かっていない。欲するところをただ雄叫びさえすれば、月が望み通りになるとでも思っているのだろう。

私はファラオ、多くの民の上に君臨する者。私の民が私に与えた称号は『いと高き王』、だがこれほどまでに私を打ち砕き、私の魂を迷わせた言葉はないだろう。民が私をそう呼んだ瞬間から、私の凋落は始まっていたのだ。

御方よ。モーセと私は、さながら双子のように共にあなたに仕えた。御方よ、あなたはまるで森の番人のように斧もて木を刈り、邪魔な枝は容赦なく切り落としたもう。ある枝は、よく手入れされて大きな幹に育ち、またある枝は、見向きもされずに枯れて朽ち果てる。

御方よ!あなたの斧を前にして、枝ごときに何ができるというのか?枝が、斧に逆らえようか?私は一本の枝に過ぎぬ、私はそのことを知っている。あなたが、あなたの森の木を丹念に手入れしていることも、またあなたが、丹念に手入れ『していない』ことも。だが枝に過ぎぬ私に何が出来ただろうか!

御方よ!何故私を打ち捨てたもうたのか!
何故その斧もて我が過ちを正さなかったのか!

御方よ、あなたの斧、あなたの力にかけて、私は乞い願わずにはおられない。我らを追いつめたもうな、これ以上我らに罪を犯させたもうな。導きたまえ、我らが罪を犯す前に」。それからファラオは続けて言った、 - 「こいつは傑作だ!この私が、一晩中『主よ!主よ!』と、祈り続けて過ごすとはな!

知らぬ間に、秘密の裡に、どうやら私は畏怖というものを身につけていたようだ。しかもそれは私と調和している、畏怖を抱くことに私は抵抗を感じていない。一体これはどうしたことだ。 - モーセか。あれに出会って、私が変わったのか」。

贋金は、十重に二十重にめっきを塗り重ねていかにもそれらしく造られる。
だが一たび炎の傍に近づければ、めっきはたちまちどろりと黒く溶けてはげ落ちる。

「なるほど、そういうことか。この身、この心、知ると知らざるとに関わらず、どちらもが御方の法則に従っているということか」。殻であれ、と命ぜられれば殻に、核であれ、と命ぜられれば核に。「畑となれ」と命ぜられれば緑色に、「枯れよ」と命ぜられれば褐色に - 

「ある時、御方は私に『月となれ』と命じて私を月とした。そして今、御方は私に『欠けよ』と命じて私を蝕としたのだ」。全くもって、御方のみわざとはまさしくこれ、この通りだ。御方が「在れ(コーラン2章117節他)」と命じて打てば、私達は打たれた球となり空を切って飛ぶ他にすべはない。

 - さて。モーセとファラオをふたいろに分かち、異なるものとしているのは色付きのガラスだ。色付きのガラスを通して物事を見るな、無色透明なガラスを通して見るがいい。無色透明なガラスを通して見れば、モーセとファラオが互いに補完し合い、調和すらしていることが見てとれるはずだ。

ここまで解き明かしてはみたものの、もしもあなた方がこれを疑うならば、この話はおしまいにしよう。理解せぬ者を相手に、議論を続けても意味がない。だが理解出来る者ならば、次に浮かび上がるであろう問いはこうだ - 無色透明たる根源から、どのようにして色なるものが生じるのか?油も水も同じ液体でありながら、何故に油と水は混じり合うことをせず正反対の方向を目指すのか?

薔薇の花には棘がある、棘は薔薇の花に寄り添う。同じ根を持つ者同士でありながら、何故にこうも違うのか?花びらは棘を憎み、棘は花びらを憎む、同じ根を持つ者同士でありながら。それとも、真には憎み合ってなどいないということか?私の目には戦と映るそれも、真には戦ではないということか?

これは御方の御意志の反映か?あるいはロバを売る商人の、見物客を煽らんがための口上か?それとも、これが惑いというものか? - いやいや、宝捜しとはこうしたものだ。簡単に見つかるものなぞ、そもそも宝でも何でもあるものか。惑って惑って、惑った者のみが真の宝に辿り着くというものだ。そこのおまえ、おまえがこれぞ宝と思い込んでいるそれ。そんなものは捨ててしまえ。ぼんやりと無駄な想像を働かせている間に、真の宝が逃げて行くのが見えないか。

どれもこれも聞き飽きたぞ、見飽きたぞ。手垢のついた議論も、実体のない空想も、どれもこれも聞き飽きたぞ、見飽きたぞ。すっかり手入れされた畑の真ん中に座していて何になる。耕されつくした畑になぞ、宝が埋まっているはずがないだろう。そこにあるのは、延々と続く農作業の他には、つまらぬ縄張り争いくらいのものだ。しがみついていたところで、新しい知見に出会えるはずもないだろう。

既知なるものと未知なるものは相容れぬ。何故なら、未知なるものは常に既知なるものを凌駕し、既知なるものはただ恥じ入る他にないからだ。かと言って、既知なるものが未知なるものを避けているのではない。むしろ逆だ、未知なるものの行く手を阻もうと、既知なるものは未知なるものに近づこうとさえする。

「未知なるものになど興味はない。むしろ私は、未知なるもの、不確かなものを避けて過ごしている」。何を言うか。おまえが避けているのではない、未知なるものの方がおまえを避けているのだ。気紛れな妄想を弄ぶばかりのおまえの手に渡ることを、新たな知見の方が避けているのだ。

上っ面だけを見るならば、未知なるものはおまえに向って手招きしているかのように見えるだろう。だが内側では、未知なるものはおまえに向って棍棒を振り回し、こちらに来るな、と、おまえを追い払っているのだ。追いかけることも出来ぬよう、足跡を変えて去って行くのだ。

冷静な心を持つ者にならば理解出来るだろう。さあ、これが「未知なるもの」が残した靴の片方だ - ファラオの反逆の、真の因はファラオの側にあったのではない。それはモーセによって引き起こされたのである。ファラオが抱いた憎悪とは、すなわちモーセが抱かせた憎悪でもあったのだ。


閑話休題:現世を見失う者は来世も見失う

無一物の貧乏哲学者がいた。彼が確信を込めて言うには、「宇宙とは卵であり、地球はその黄身である」。そこで彼に尋ねる者があった、何故に黄身であるこの地球は、あたかも吊るされたランプのように、下降も上昇もせず中空に浮かんでいられるのか?と。

哲学者が答えて言うには、「中空に浮かんでいるのは、宇宙のあらゆる方角から同時に力が働いているからだ。大空とは、磁石で出来た円蓋のごときもの。地球は、磁石に囲まれ全方向からかかる圧のために浮遊せしめられ留め置かれる鉄のごときものである」。

他の誰かが重ねて尋ねた。「混じりけのない、穢れひとつないあの空が、一体どうして泥の塊の地球を、自分の方へ引き寄せようなどとするのだろう?」。「否、否。引き寄せているのではない、むしろ追い払われているのだ。宇宙の全方角から、地球は絶え間なく殴りつけられているようなものなのだ。それでどちらの方角へ行くことも叶わず、中空に、激しく引き荒ぶ凶暴な風にさらされつつ留まり続ける他はないのだ」。

ファラオも、これとよく似ている。彼の心は、聖なる人のそれとは激しく反発する。それで彼は、破滅の風の中に留まる以外の道がない。「こちらの世界」を拒絶すれば、「あちらの世界」でも拒絶される。「これ」はだめでも「あれ」がある、などと選んでなぞいられるものか。現世を見失う者は、来世も見失う。拒絶し、拒絶される者には、「これ」も「あれ」もない。

聖なる人々に背を向けたのならば、彼らもまた、背を向けた人を嫌悪している、ということだ。聖なる人々、神を友とする人々、琥珀を所有する人々。もしも彼らが、彼らの琥珀を少しでもあなたに見せようものなら、あなたの存在はまるで藁くずのようにいとも簡単に欲望に追い回されて血迷う。もしも彼らが、あなたから琥珀を隠せば、あなたの(神への)服従は、たちまち反逆に様変わりする。

一体、あなたにとり「聖者」とは何を指すのか。何を以てあなたは「聖者」を見分けるのか。何かを与えてくれるか、くれないかがそれほど気にかかるのか。そのような人々は、聖者達からすればケモノに過ぎない。捕えられ、檻に入れられ、ヒトに餌をくれとねだるケモノだ。ケモノの階梯に対して、ヒトの階梯が持つ力。聖者の力とは、譬えるならそのようなものだ。

アハマドは、全世界の人々を「しもべ」と呼んだ。それも実に正しく、実に義のある呼び方で。彼は言った、 - 「読め、『言え、わがしもべ達よ』と(コーラン39章53節)」。あなた方がラクダなら、ラクダを操るのはラクダの頭脳だ。どこへ行くにも何をするにも、あなた方を厳しく支配するのはあなた方の頭脳だ。そして聖者とは、頭脳を操る知性だ。ラクダが頭脳から逃れることなど出来ぬように、頭脳も知性の監視を逃れることなど出来ない。いずれは捕えられる。

物事には始まりと終わりがある。だが始まりから終わりまで途切れることがないもの、それが知性だ。こちらへ来て、じっくりと見るといい。良く熟慮するといい。物事の、始まりから終わりにかけて、一人の導師が立っているのが見えるだろう。導師の後を、百も千も、万もの魂が追いかけてゆくのが見えるだろう。

 - 言う者がある、「どこに導師がいるんだって?誰がラクダ使いだって?」。何ということだ。太陽と、太陽以外を見分けられないとは。そうした者は、まず見分けられる目を手に入れるところから始めなくてはならない。ごらん。世界が、まるで釘打たれたように夜の中でじっと動かずにいるのを。世界は待っているのだ、やがて太陽が昇るのを、光が届けられるのを。

飛び回る原子の一粒に太陽が隠されている、子羊の皮の下にライオンが隠されている - 「彼」を探せ!辺り一面、藁で敷き詰められているかと思えば、その下に隠された海が広がっていることもある - 気をつけろ、でないと溺れてしまう!注意深く疑うことも、避けられず過ちを犯すことも、そのどちらもが、実のところ神のお導きに他ならぬ。どちらもが、神のお慈悲の顕われだ。

預言者達の誰しもが、この世に遣わされる時はたった一人で遣わされる。預言者は、たった一人で孤独に地に立つ。だが彼の中には、未だ誰の目にもふれたことのない百の宇宙が封じ込められているのだ。彼の力に、大宇宙は恍惚となる。そして小宇宙に姿かたちを変え、彼の中へと逃げ込む。

愚か者には、それが理解できない。たった一人で地に立つ彼を、何も持たず、味方もいない弱き者として侮る。だが王の中の王を友とする者が、どうして弱いことなどあろうか?愚か者は言う、「何のことはない。ただのヒトではないか」。彼には聞こえないのだ、預言者の裡にこだまする小宇宙の歓喜の声が。


閑話休題:預言者サーリフとサムードの民

預言者の一人サーリフが、雌のラクダを連れて彼の民を訪れた時のこと。肉体の目、外的な感覚で見る他にすべを知らない者達にとっては、彼らの姿はただみすぼらしいだけで、とても勝利者のようには見えなかった。神が何ごとかをなさろうという時はいつもそうだ。御方の軍勢は、御方の敵となる者の目にはいかにもか弱く見える。たとえ力量において比べようもなく優っていたとしても、それを知るのはもっとずっと先の事だ。

おまえたちが彼らと遭遇したとき、神はおまえたちの目に彼らを小勢に見せたまう。また彼らの目には、おまえたちを少なく見せたもうた。神が起こるべく定められたことを成就したもうためである。万事は神に帰する(コーラン8章44節)」。さて、サーリフの連れてきた雌のラクダは、一見すると何の変哲もなく、平凡なラクダの姿をしていた。

それで愚かな一族の人々は、何の考えも無しにその腱を切り、軽々しく屠ってしまったのだった。ラクダに与える水を惜しみ、水を巡って - すなわち神の恩恵を巡って - 彼らはラクダの敵となった。パンに目を奪われ水に目を奪われ、だが神の恩恵には目もくれず、ただ忘却したのだった。

サーリフが連れてきた雌のラクダは、小川と雲とに水を求めて飲んだ。彼女は神に属するもの、水は神に属するもの。彼女に水を与えないというのは、真実のところ神から神の所有を奪うということに等しい。サーリフの連れてきた雌のラクダとは、正しき者の肉体の象徴だ。それは邪な者が油断したところに、隠されて仕掛けられた罠のような働きをする。それを通じて、あなた方は神の意図するところを知ることとなる - 神の有たる雌のラクダから、彼女の有たる水をどうして奪えようか。

水はどのように与えられたか。彼らを通じてか、あるいは彼らに与えられる死と悲痛を通じてか。 - 神の陪審である『復讐』は、ただ一頭のラクダの流された血の代償として、一族と、一族の住まう町全てをもって購うよう要求したのだった。預言者達の精神、聖者達の精神とはサーリフのようなものだ、そしてその肉体は雌ラクダのようなものだ。彼らの精神は常に神と共に在り、彼らの肉体は常に苦悩と共に在る。

サーリフ、すなわち精神は、苦悩に支配されることはない。痛めつけられ傷つくのは、ラクダ、すなわち肉体の方だ。外側を覆う器が傷つけられても、器の中身である本質を損ねることにはならない。砕けるのは牡蠣の殻、殻の中の真珠には傷ひとつ負わせることは出来ない。誰ひとりとして、聖なる人々の心を害することは出来ない。サーリフの精神には、傷つく余地などない。

神の光を認めぬ者に、どうして神の光を汚せるだろうか?
神を信じぬ者がいたところで、それが一体何だというのか。
神の光に、何ほどの影響があるというのか。

魂の中の魂、魂の王たる神は、精神と肉体をひとつの場として繋ぎ合わせたもうた。それでヒトは悲哀と試練に、否も応もなく向き合わねばならなくなった。顔を背けずに向き合えば、その根底に流れる神の意図をも知ることになる。この壺の水は、かの河に流れる水と通じている。それを知れば、どうしてこの壺を壊すことなど出来ようか。この壺を壊すということは、御方に逆らうということだ。

神が精神と肉体をひとつの場として繋ぎ合わせたもうたのは、彼ら(預言者達、聖者達)をもって、世界に安寧をもたらす隠れ処とするためだ。サーリフの精神を友とするためには、彼の連れて来た雌のラクダに、すなわち彼らの肉体に奉仕しなくてはならない。おろそかにしてはいけない。サーリフはサムードの民に告げた - 

「あなた方は、妬みからこのような振る舞いに及んだ。三日のうちに、神の罰が届けられるだろう。唯一の御方、命を与え、命を召される御方から、三つのみしるしが届けられるだろう。あなた方の顔は、その色をめまぐるしく変えることだろう、ヒトの顔がこうまでも変わるものかと驚くほどに。サフランの色かと思えば、次の日には薔薇よりも赤く染まり、最後には墨のような黒になるだろう。

それから、間髪待たずに神の怒りが振り下ろされる。だがそんな脅威の兆しを、あなた方は本当に欲するのか?あなた方に見えるだろうか、無惨に屠られたラクダの仔が、あなた方から逃れようと山際で必死にもがいている。もしもあなた方がその手を止め、ラクダの仔に指一本触れずにそっとしておいてやれるならば、それならばまだ希望を持てる。そうでなければ、希望の鳥は罠を避け、この場から去ってしまうだろう」。

けれどサムードの人々は、我れ先にと争ってラクダの仔を追った。ラクダの仔は、誰の手に渡ることもなかった。そのまま一心不乱に逃げ、山頂まで登りつめると、そのまま消えていなくなってしまった。追いつめられれば精神は、恥多き肉体を逃れて、唯一の主の慈悲のみを恃み、慈悲の中へと消え去ってしまうのだ。

サーリフは言った。「誰一人として、御方の命ずるところを理解した者はいなかった。希望は踏みにじられた、希望の首を刎ね、屠ってしまったのはあなた方自身だ!」。ラクダの仔とは何を指すのだろうか?それは誰の心にもあるはずの、もっと高くありたい、もっと良くありたいという意志だ。

そもそもその意志自体が、高いところにある。心優しく、思いやりをもって振る舞うことによって、あなた方はその意志に手を伸ばし、またその意志を甦らせることが出来る。たとえ罪を犯しても、その意志さえ再び甦るならば、あなた方は全ての災厄から逃れることが出来るのだ。

けれどそうでなければ、その時こそは本当の絶望があなた方を取り囲む、自分自身の腕を噛みちぎるばかりの絶望が - サムードの人々は、彼らの上に垂れ込める暗鬱な運命の全てを、このように聞かされた。彼らがしたことと言えば、ただ視線を落として互いに目を背け合い、『それ』を待つことだけ。

一日目。彼らの顔はサフランの色に染まった。彼らが見たのは、絶望のあまり泣き叫ぶ互いの顔。

二日目。彼らの顔は薔薇のように華やかな赤に染まった、彼らの間にあった縋るような望みの全てが潰え、入れ替わりに恐怖が沸き起こった。

三日目。彼らの顔は墨のように黒く染まった。サーリフが告げた言葉が、ことごとく真実であることが証明されてしまった。こんな事になるだなんて、誰も夢にも思っていなかった。呆然となり、虚脱し、やがて無力感だけがその場を満たした。やがて彼らはうつ伏せ跪いた、空飛ぶ鳥が落ちたように。

「彼らは家の中でうつ伏せになっていた(コーラン7章78節)」と、天使ガブリエルが語り告げた通りの光景がそこにあった。誰に教わるものでもない。だが滅びについて、それがどのように訪れるのか、どのように起こるのかを知ってしまえば、うつ伏せて跪く以外に何があるだろうか!

跪くことは恐れるべきことではない。だがこのようなかたちで跪かねばならない、というのは恐ろしいことだ。彼ら(聖者達)がそれを教えてくれている。教わった時に、教わった通りに跪いていさえすれば!サムードの人々は、復讐の一撃が下されるのを待った。やがて『それ』は下され、町は滅びた。

サーリフは隠遁していたが、庵を出て町へと向った。彼は、煙雲と焦熱に包まれているのを見た。かつての町の住人達の、あばらとあばらの間から、嘆きの声が漏れるのを彼は聞いた。嘆きの声はこんなにもはっきりと聞こえるのに、嘆く人々の姿は全く見えない。彼らの骨と骨が擦れあって嘆くのを彼は聞いた。彼らの霊が、雹を降らせるように血の涙を降らせていた。

それを聞いてサーリフもまた、固く縮こまって泣いた。嘆く者達を想って泣いたのである。彼は言った。「虚偽の裡に生きた人々よ!高慢で、自惚れで - それなのに私は神の御前において、今あなた方のためにこうして涙を流している!神は私に告げたもう、『彼らの犯した重大な過ちについて耐え忍べ。助言を与えよ、彼らに残された時間はごくわずかである』、と。

私は言った、『助言は、ひどい仕打ちによって遮られてしまいました。助言とはミルクのようなもの、愛と歓喜からほとばしるもの。けれど彼らは私をないがしろにし、私のラクダにもむごい仕打ちをした。そのために助言のミルクは、ほとばしる前に私の静脈ですっかり固まってしまったのです』。

神は私に告げたもう、『われは汝に善きものを授けよう。汝の傷口に膏薬を貼ろう、汝の傷口を癒そう』。神は私の心を、晴れ渡って澄んだ空のようになされた。あなた方という重石を、私の心から取り除きたもうた。そこで私は、再びあなた方の許を訪ねたのだった。

私はたとえ話を語り、砂糖のように甘い言葉を語った。私は新たなミルクをほとばしらせた、言葉の中に、ミルクとはちみつとを混ぜ合わせて菓子を作った。けれどあなた方の手に渡ると、菓子も毒となってしまった。あなた方の、根も土も、すっかり毒に染まってしまっていたからだ。

今こうして悲嘆の種も無くなったというのに、どうして私がこんなにも深く悲しまねばならないのか?頑迷な人々よ、あなた方は私にとり悲嘆そのものだった。不幸との別れを惜しんで泣くものなどあるだろうか?頭に出来た傷が癒えたというのに、傷との別れを惜しんで髪かきむしる者などいるだろうか?」。それから、彼は自分に向き直って言った、「嘆く者よ。彼らには、おまえが嘆くほどの価値もないぞ」。

暗誦は正しくあらねばならぬ。読者諸賢よ、万が一にも私の詠みに過ちがあったなら、それに惑わされないで欲しい - 「どうして私は背信の民のために嘆かねばならないのか(コーラン7章93節)」。またしても、彼は自分の目にも心にも涙がこみ上げてくるのを感じた。

悲しみ嘆くのに、理由は必要なかった。人の痛みが理解出来てしまう。何とかせねばと思わずにはいられない。相手が誰であれ、無意識のうちに自然とこみ上げる深い同情の念が、サーリフの内側に輝いているのだった。まるで雨を降らせるように、サーリフはぽろぽろと涙をこぼした。

彼は取り乱してもいた。悲しみに打ちひしがれ、わけも分からぬままに恩寵の海原から追放されたひとしずくになったかのような心持ちだった。「なぜ泣くのか?おまえを嘲笑するばかりであった者達のために、なぜおまえが泣くのか?」 - 彼の知性が、矢継ぎ早に語りかけて来る。

「言ってみろ、何のためにおまえは泣くのか。彼らの欺瞞のためにか。彼らのむごたらしい仕打ちのためにか。それとも、錆だらけで濁った彼らの心臓のためにか。それとも、蛇のように毒を持つ彼らの舌のためにか。彼らときたら、怪物サグサールのような息と歯を持ち、その口も目も、蠍を友としているというのに。

いがみ合い、あざけり合い、見下し合う事以外に何も無い者達。だがついに、神は彼らを捕えたもうたのだ。神に感謝を捧げたらどうなのだ。彼らの底意地の悪さを見ただろう。彼らの手も足も目も歪んでいる。彼らの愛も、彼らの平穏も、彼らの怒りもまた歪んでいるのだ」 - 

サーリフは、町の住人達を想って泣いた。彼らが怖れたのは変化である。そして、かたくなに古くからのしきたりを守ろうとした。慣習から逸れることを怖れ、同調の輪から外れることをひたすら盲目的に怖れた。だがそれほどまでに怖れても、それらについてほんの少しでも考えてみようとはしなかった。

ラクダは理性の象徴だ。それは彼らにとり尊敬すべき導師ともなれたろう。けれど彼らはラクダを足蹴にした。慣習にない、というだけの理由で。彼らは、導師を神速から熱望することのない人々だったのだ。学ぼうとも、導かれようとも思ったことのない人々だったのだ。慣習を守ると言ったところで、真に慣習に敬意を払っているというのでもない。することと言えば互いの顔の色を伺い、監視し合うだけ - 何という虚しさ、空々しさ。何という偽善。

 - さて。そろそろ、彼らが地獄にたどりつく頃合いだ。神は、楽園に住まう敬虔な崇拝者達を幾人か、彼らの許へ遣わしたまうことだろう。楽園の住人達の前には、地獄の炎と言えども赤子同然だ。彼らは、楽園の住人達から地獄の炎のあやし方、なだめ方を教わることになるだろう。


閑話休題:二つの海と、それを隔てる障壁について

やがて炎獄につながれる人と、楽園に住まうだろう人とが、同じひとつ屋根の下に集い暮らしている。一見、お互いに何の違いも無いかのように見える。それでも、彼らの間には、決して超えられることのない障壁が存在している。「二つの海を放って相まじらわせながら、両者のあいだに、越すことのできない障壁を置きたもう(コーラン55章19、20節)」。

御方は、炎の人と光の人とを分かつことなくひとつ処に相交わらせたもう。それから、御方は両者の間にカーフの山に立たせたもう。御方は彼らを、鉱脈の中の土塊と黄金のように混ぜ合わせたもう。互いに近い洋でいて、彼らの間には百の砂漠と百のカラヴァンサライ(隊商宿)がある。まるでひとつの首飾りに、真珠と褐炭を一緒に連ねたようなもの。遅からず、離ればなれになる運命だ、一夜限りの恋の相手のように。

海のうち、半分は砂糖のように甘い。舌をとろかすように甘く、月のように明るく。残りの半分は、蛇の毒のように苦い。舌を刺すように苦く、松脂のように暗い。 - こうした対立の兆しは、いつでもこのちっぽけな肉体の内側に生じる。肉体の内側で、精神が『平穏』もしくは『闘争』と混ぜ合わされた時にそれは生じる。

『平穏』の波が、お互いにぶつかり合って飛沫をあげ、ヒトの胸の中にある憎悪を探り当て、憎悪もろともに砕けて散ってゆく。そこへ別の波がわき起こる。『闘争』の波だ。『闘争』の波、これはヒトの胸の中にある愛を探り当て、これを逆さまにひっくり返し、混乱させ、愛もろともに砕けて散ってゆく。

全ての愛は、公正さを土台としている。たとえ何がどれほど苦々しかろうとも、愛はいつでも全てを甘い蜜の方へと引き寄せ、甘い蜜をふるまおうとする。ひきかえ、憤怒は甘い蜜をすら苦みの方へと持ち去ろうとする - どうして苦みが、甘みと同じであるなどと言えるだろうか?

苦みも、甘みも、いずれもこの肉体の目に見えるものではない。だが方法がある。窓越しであれば見ることが出来るのだ。『終末の日』、という窓越しであれば。誰でもいつかは必ず死ぬ。真理を見ることが出来るのは、物事の終わりを見る目を持つ者だけだ。全ては必ず変化する。目の前の安定のみを見る者というのは、要するにまやかしに目を奪われて錯誤しているに過ぎぬ。

言い添えておこう。世の中には、砂糖のように甘い者なら数多くいる。だが同時に、多くの場合、毒もまた砂糖のように甘い糖衣をまとっていることを忘れずに。

 - 多くの者が、唇や歯に当てて初めてそれと知れることでも、賢い者ならば、においだけで嗅ぎ分けることが出来るだろう。喉元に達する前に、唇がそれを拒絶するだろう。たとえ悪魔がその耳元で、「食べろ、ええい、食べろというのに!」と、そそのかし叫んだとしても、自制を知る者は自制するのだ。

だがそれを知らない者には、解毒の過程を踏む必要がある。嘔吐するなり排泄するなり、いずれにせよ燃え盛るような苦痛を味わうことになる。体内から追い出す段になって、初めて自分が飲み込んだものが何だったのかを学ぶというわけだ。

だがさらにその他にも、もっとずっと後になってから毒の効き目を知ることになる者達もいる。数日後か数ヶ月後か、あるいは数年、数十年、あるいは死後。墓穴の中で知ることになる者達もいるだろう。墓穴の中、つかの間の休息を与えられているものならば、必然、復活の日に明らかにされることだろう。

こうして眺めてみると、飴菓子といい蜜菓子といい、この世で見かける欲望をそそるものというのは、止まることのない時の回転から、しばしの猶予を与えられたものばかりのようだ。ルビーが、内側から照り輝くまでに成長するには時間がかかる。長い間、太陽の光に晒されてこそ、太陽のようなあの色、あの輝きを体得する。

青菜のたぐいであれば、二ヶ月もあれば収穫を手に出来る。だがバラの花を咲かせようと思えば、十分に育てるのには一年の月日が必要となるだろう。望み通りの結果は、そう簡単には手元に転がり込んでは来ない。全知全能にして栄光の御方が、アン・ナアムの章で告げたもう通りだ、「一定の期間が、かれの御許に定められている(コーラン6章2節)」と。

さて、わが講義に集まった諸賢よ。あなた方全員の、髪の一筋ひとすじが耳となり、一言も聞き漏らすことなく受け取ってくれていれば良いのだが。私は命の水を注いでいる。これを飲んで、あなた方の渇きが癒えたならば良いのだが。わが講義が、あなた方にとり善きものでありますように!

 - いやいや、これを講義と呼んだのは間違いだ。どうかこれを、命の水と呼んで欲しい。これは私からあなた方へ宛てた手紙である。古めかしい文章の中に、新たなる精神を読み取って欲しい。


閑話休題:聖者にとってそれは蜜だが、弟子にとっては毒である

 - さて、わが友人よ。もうひとつ聞かせておきたいことがある。これについては、例えば魂のごとく、神秘家達にとっては明白であるが、それ以外の者達にとっては難解となるだろう。

何処、という場を持たぬところ、ある精神の階梯においては、神の属性を通じて、蛇も、蛇の毒も昇華できてしまう。ある場面においては毒でも、別の場面では薬となることもある。ある場面においては背徳でも、別の場面では賞讃されることもある。あちら側では魂にとり有害なことが、こちら側では治療となることもあるのだ。

グーラ(若いブドウ)の果汁は酸っぱい。だがグーラがアングール(熟したブドウ)に変化すれば、それは甘く善きものとなる。葡萄酒の瓶に入っているそれも、最初は苦く、また合法ですらない。だがほんの少し待っていれば、瓶の中身はいつか酢になり、食事にこの上ない風味を与えてくれるようになる!

導師のすることを、そのまま弟子が真似ても間違いになることもある。医者には無害の砂糖菓子でも、患者には有害であることもある。霜も雪も、すでに熟した葡萄にとっては何ともないが、若く未熟な葡萄にとっては一大事だ。

「神は過去ならびに将来における汝の罪を赦したまう(コーラン48章2節)」。修行中の身である弟子には、コーランのこの章句が未だ理解出来ていないし、従って体得も出来ていない。導師が飲めば、毒も薬となる。だが弟子が同じものを飲んでも薬にはならず、却って害になるかも知れない。

ここでひとつ、言葉の解釈を学んでみようか。例えばソロモンの、こんな言葉が伝えられている - 「『主よ、私をお赦しください。私に、私よりのちの世のなんぴとにもふさわしくない王国をお授けください』(コーラン38章35節)」。

これはつまり、「私以外の誰にも、この王国と王権を与えないで下さい」ということだろうか。「私以外の誰にも、この栄光と恩寵を与えないで下さい」ということだろうか。これでは、いかにも妬み深いように聞こえる。だが真実は違う。「なんぴとにもふさわしくない」という語に隠された神秘を、また「のちの世の」という語に隠された神秘を、魂を用いて読解しなくてはならない。

この章句を、彼の貪欲さから生じたものであるかのように意味づけしてはいけない。否、否。ソロモンは理解していたのだ、王権を手にするということは、すなわち百の脅威を手にするも同然である、ということを。一体、現世において安泰な王国などというものが、かつて一度でも存在しただろうか?王権を手にするということは、髪の一筋ひとすじが恐怖に置き換わるようなものだ。頭で考えるにも、心で感じるにも、宗教を実践するにも、何をするにも恐怖がついてまわるということだ。

このような試練に、私達のうち一体誰か耐えうる者があるだろうか。ソロモンの気高い野心は、ぜひ身につけるよう努めたいものだ。それが身につけば、現世のありとあらゆる誘惑、虚栄を避けられるようになるだろう。だがこれほどまでに強い意志を持った彼でさえ、寄せては返す現世の波には逆らえなかった。先に息を止めたのは、現世ではなく彼の方であった。

悲哀が、彼の上に砂塵となって降り積もる。彼は、現世の王達全てに対する深い同情を隠さない。それで彼は、神と諸王を仲裁しようと祈ったのだ、「御方よ、彼らに王国をお与え下さい、かつてあなたが私に与えた精神の完成と共に。かつて私が授かったのと同じ恩寵を授かる者があれば、彼はソロモンであり、私もまた彼である」。 - これがかの章句の解釈である。

「のちの世の、なんぴと」であれ、ソロモンは彼と共にある、ということだ。だがしかし、「共にある」、とは具体的にはどのようなことだろうか。これを解き明かすのも私の務めというものだろうが、後回しにしておこう。今は砂漠のベドウィンと、その妻の物語の続きに戻る頃合いだ。


真面目に話を聞いていたムフリース(誠実な者)達は、かの夫婦の口論を、ムフラース(道徳)の価値からどう判断すればよいものやら、考えあぐねていることだろう。男と妻の口論は、あなた方のうち誰にとっても大いに関係がある。まず知っておいて欲しいのは、あれがあなた方自身の理性とナフス(欲望)をめぐる寓話だということだ。

夫と妻、すなわち理性と欲望。善悪が顕現するのに、この二つは必要不可欠だ。そして必要不可欠なこの組み合わせは、地球という名のあばら家に共に住まい、片時もお互いから離れることなく寄り添い合って、昼も夜も絶え間なく口論を繰り返している。妻は生計を立てるのに必要なあれこれを渇望する。

欲するところは世間の評判であったり、パンや蓄えであったり、地位であったりと様々だ。この妻のように、欲望は自分を満たすための手段をあれこれと画策する。頼らねばならない時には、それにふさわしく自分を卑下してみせたり、謙遜してみせたりする。また別の時には、逆に支配しようと企てたりもする。

一方、理性はこうした俗世的な事柄には、全く注意を払わない。理性は、神の愛以外には何の興味も示さない。神の愛以外のことなど、考えたこともないのだ - これが寓話の内側に込められた意味である。だが意味というもの、これはある種の餌であり釣り針だ。意味を覆う容れ物にも目を向けねば。内側と外側、両方があって寓話は完全なものとなる。

もしも精神的な価値だけが全てだったなら、一体、この世界というものは何のために創造されたのか。愛が無形であり有形ではなく、霊的なものに過ぎぬというのなら、それはヒトの思考の中にのみ存在する幻影だということだろうか。愛にリアリティは伴わぬ、ということか?もしもそれが本当ならば、あなた方の断食も礼拝も、精神のみで行なうものと定められただろう。だが実際には、断食も礼拝も肉体を伴う行為である。

愛する者同士が愛を交わし合い、贈り物を贈り合うならば、必ず形が伴う。愛に敬意を払うとはそういうことだ。贈り物の目的とは何か。秘密裏に隠していた愛に形を与え、愛の証しとすることだ。言葉だけなら何とでも言える。行為は、言葉よりも雄弁に語る。

わが友人達よ。体を以て為される思いやりや優しさに満ちた行為は、心の中にしまってある愛の、何よりも優れた証人ではなかろうか。私達の証人は、時として私達の愛が真実であることを知らしめる。あるいは、虚偽であることを暴きもする。葡萄酒に酔っていることもあるだろう。またある時は、酸っぱいカード(凝乳)を手にしていることもあるだろう。

カードを飲んで酔ったかのように振る舞い、調子良く叫ぶ者もある。そうした者は、いかにも葡萄酒の霧がかかって朦朧としているかのようにも見える。カードで酔うやつなどいるものか、偽善者め。表向き、彼らは断食にも礼拝にも執拗なほどに熱心だ。だが彼らは神に酔っているのではない。神を崇拝する自分に酔っているのだ。

要するに、外側に顕われる行為というのは、内側の意図を隠したり、暴いたりするものであるということだ。更に、一見、同じように見える行為であっても、内側の意図は異なる場合もあり、一括りには出来ない、ということだ。主よ!私達に、真実と虚偽を見分ける力を与えたまえ。認識の力、分別の力というものは、一体どうすれば養えるものだろうか。

我らのこの道において、そうした力を手に入れるということは、すなわち神の光を通してものごとを見る、ということに他ならない。外側に顕われるものと、内側に隠されるものの間に我らのこの道がある。外側に何の手がかりも見つからなければ、内側を推論する、神の光を以て。それは我らに手がかりを与える、ほんの些細な手がかりが、深い愛の存在へと我らを導くこともある。

何ごとであれ、神の光を以て認識し、分別する者は、原因と結果に振り回されることがない。神の光を導きとする者は、因果論の奴隷となることもなく、また因果論の犠牲となることもない。愛の炎が燃え盛るほどに光もまた強くなる。こうなると、もはや何かに対して「証し」を求めることも無い。

しかしそれはまた更に違う階梯の話でもある。機会を設けて解き明かさねばならないだろうが、それにしても時間はあっと言う間に過ぎてゆく。夜は短い。今宵はここまでとしよう。次に会うその時まで、互いに思索を深めておくこととしよう。


ベドウィンの男は、愛する自分の妻に心を開いて見せた。そして彼女への忠誠に嘘いつわりの無いこと、彼女を騙そうという意図など無いことを語って聞かせた。「おまえに逆らったりするものか」、男は言った。「おまえが全て正しいのだ、思う通りにしたら良い。さあ、鞘から剣を抜くが良い。

何であれ、ああしろ、こうしろとおまえが命じれば、私はその通りにしよう。結果の良し悪しについて、行なう前からあれこれ思い煩うのはやめにしよう。おまえさえ居れば、私はどうでも構わないのだ、何故ならおまえを愛しているから。愛は盲目、と昔から言う通りだ」。

「何がどうなっているのやら」、妻はいぶかしげに言った。「あんた、どうかしてしまったんじゃないのかい。本当に、私のよく知っているあんたの言うこととも思えないよ。でなけりゃあ、私をひっかけようとでもしているんじゃあないのかい」。彼は答えた、「まさか。信じておくれ、誓うよ、神にかけて。最も深いところに隠されたものを知る御方にかけて、アダムを塵から創りたまい、最も清らかな者とされた御方にかけて」。

御方は、3キュビットあまりの肉体をアダムに与えたもう。
それから彼を、運命の碑盤に記された全てと、精神の息吹で飾りたもう。
御方は『もろもろの名前をすべてアダムに教えたまい(コーラン2章31節)』、
ものごとの、始めから終わりまでを教えたもう。

それからアダムは天使達と対面し、御方に教えられた知識を天使達に伝えた。
初めてアダムに出会った天使達は、驚きのあまり我を忘れて取り乱した。
だがその替わりに、天使達は新たな知識を得ることとなった。
彼らはアダムを通して御方の知識を受け取ったのだ。

天使達の賛美の流儀と、アダムの賛美の流儀には明らかに違いがある。
天使達はアダムの賛美の流儀を目にし、それで初めて、
彼らが有する聖性とは、異なる種類の聖性があることを悟ったのだ。

アダムが彼らに差し出した新たな知識は、
彼らが見知っている天界の範囲に収まりきるものではなかった。
アダムの純粋な精神の広がりに比べれば、
彼らの住まう七層の天界すらいかにも狭隘に過ぎたのだ。

 - お聞き。預言者は、神の御言葉としてこのように伝えている - 

『われは「高い」「低い」といった(空間の)壺には収まりきらぬ。
大地と天空の全てであろうとも、
あるいは最も高い宇宙であろうとも、
われは収まりきらぬ - だが、高貴な者よ。
真にわれを信ずる者の心にならば、われは収まるだろう。
汝、われを探すなら彼らの心の裡に探せ』。

さらにまた、神はこうも言いたもう - 

『汝、畏れる者ならばわがしもべの後に続け。
汝らは楽園を目にするだろう、われを視覚に捉えるだろう』。

最も高きにある宇宙は、果てしない彼方までその光を届ける。
だがその宇宙さえ、初めてアダムの精神を目にした時は驚愕のあまり声を失った。
宇宙の天蓋が、想像を絶する広大さであることは誰しも認めるところだろう。
それは『外側』としては申し分がなかった。
そこへ新たに顕されたのが、アダムに宿された純粋な精神、
すなわち申し分のない『内側』、完璧な実在だったのだ。

天使達はアダムに言った - 

『今の今まで我らとあなたが友情を保てたのも、
あなたが自らを地上の塵として弁えておられたからこそ。
我らは地上に崇拝の種を蒔いた。
だがそれも、そのように命じられたからそうしたまでに過ぎぬ。
そのことにどのような意味があるかなど、我らは知らぬし興味もない。
一体、あなたと我らに何の関わりがあるというのか。
あなたの本質は地上にあり、我らの本質は天界にある。
光である我らと、闇であるあなたに何の関わりがあるというのか。
何の理由あって交わらねばならぬのか』

『光と闇が、共に居られるはずがない。
アダムよ、我らがあなたに示す友情は、
あなたが漂わせる(知識の)芳香に向けられたものだ。
アダムよ、地上こそはあなたという織物の縦糸。
そしてあなたの放つ芳香は、そもそも天界に属するものだ。
あなたの精神の光に、我らの魂が照らし出されるとは!
我らとて地上を知らぬというものではない、かつて我らも訪れた場所だ。
だが我らは地上に無頓着であった。
地上に隠された財宝にも無頓着であった。
御方に、かつて我らの有であった階梯を召し上げられ、退くよう命じられ、
あなたを我らよりも高いものとされた時ほど、心底悲しく思ったことはない』

だから我らは、御方にその通りに申し上げた - 
『神よ。我らの代わりに、誰を召し抱えるおつもりですか。
我らの捧げる賛美は、あなたの栄光の飾りともなるのに。
それをあなたは、無駄話や喧噪と引き換えになさると仰るのですか』

すると神はこうお答えになった、 - 『話せ、遠慮は無用だ』
神は我らのために寛大の敷物を広げ、我らをその上に座らせた。
『さあ、何でも話せ、恐れを知らぬおさなごが父にするように。
汝らの舌の向くまま、気の向くまま、話したいように話すがいい。
汝らの言葉が拙かろうが、見苦しかろうが、構うものか。
忘れるな、わが慈悲はわが怒りをはるかに凌ぐ。
これを知らしめるために、われは汝らを当惑と疑念の渦中に投げ入れた。
汝らがわれに訴え出ることなどお見通し。
かと言って、われは汝らに怒りを向けはせぬ。
さあ、これで誰一人として、わが慈悲を否定する者もないだろう。
わが怒りを被る者、それはわが慈悲を否定する者のみ』

男はそこで言葉に詰まった - いや、言葉に詰まったのは私の方だ。御方の恩寵、御方の慈悲に限りというものはない。見よ、一瞬ごとに百の父と百の母が生じては去り、生じては去り - それが絶え間なく繰り返される。地上の父と母の慈悲とは、御方の慈悲の海原に漂う泡のようなものだ。泡は生じては消える、だが海原は常にそこに在り続ける。

私は一体、どう語れば良かっただろう?御方の慈悲が真珠なら、我らの慈悲など貝殻ほどの価値もない。御方の言葉の前には、我らの言葉など泡の、泡の、泡の、更にその泡に過ぎぬ。だがそれでも、私のようなはかないあぶくにも真実はある。泡の真実にかけて、神聖な海原の真実にかけて。誓おう、私はあなた方を試しているのでもなければ、気紛れに語っているのでもない。あなた方に対する愛と、真心と、忠誠から語っているのだ。誓おう、いつの日か私が還りゆくであろう、ただおひとつの御方の真実にかけて。

 - 「ねえ、おまえ」、男は妻に言った。「こんなふうに、私はおまえへの愛情を示したつもりでも、おまえからすれば試されているかのように感じてしまうのだね。それならそれで、いっそほんの少しだけ試されてみてはくれまいか。さ、何でも隠さず、正直に言ってみてはくれまいか。そうすれば、私がおまえに何ひとつ隠しだてする気がないことが分かるだろうから。

何でも命令しておくれ、出来ることなら何でもするから。思っていることを何でも言っておくれ、私も、思っていることを何でも言うから。これから、私に何が出来て、何が出来ないのかを一緒に考えたいのだよ。どうすればいい?私に、何が出来るだろうか?見ておくれ、私の魂を。一体どこへ向えばよいものやら、途方に暮れている有り様なのだよ」。

そこで妻は、日々の糧を得るためにどうすれば良いか、彼女の思うところを語り始めた。「そろそろ夜も明けて、日が昇る頃だね。私らはみんな、太陽の光を頂戴して生きているんだねえ。太陽というのは本当に、慈悲深い御方の忠実なしもべ、創造の御方のカリフ様さ。そうだよ、あんた。ねえ、バグダッドの都に行ってみたらどうだろうね。

バグダッドの都の人々が、来る日も来る日もまるで毎日が春みたいに陽気で楽しそうにしていられるのも、カリフ様がきっちりと治めているからだよ。王と交わる者は王になる、って昔から言うじゃないか。

不運と不幸の王の後をついて行くのは金輪際やめにして、あんたは本物の王と交わらなくっちゃ。幸福で、偉大な王とお近づきになれれば、万能薬みたいに何もかもがうまく行くはずだよ。アハマドとアブー・バクルをごらんよ。アハマドがアブー・バクルに目をかけた途端に、アブー・バクルは『シッディーク(誠実な者)』と呼ばれるまでに出世したじゃないか」。

夫は言った。「ふむ。しかし、どうすれば王に会えるだろう?何かしら口実でも無い限り、そう簡単に王に会えるはずがない。こんな時はどうすれば良いのだろう。手引きなり、手がかりなりが必要だよ。だってそうだろう、何を作るにも、そのための道具立てというものがなくては。そら、誰もが知っているあのマジュヌーンだって、同じような悩みを抱えていたよ。

誰かが彼のところへやって来て、愛しいライラが少しばかり具合を悪くして臥せっていると知らせた時のことだ。マジュヌーンは泣いた、『ああ、彼女に会いたいけれど、私には会うための手立てが何ひとつない。私がただ彼女に会いたいからというだけで、病に苦しむライラの許へ、手ぶらでのこのこ出かけるようなみっともない真似をするわけにもいかない。

私が、熟練の医者だったら良かったのに!そうだったなら、何もかもを投げ捨てて、誰よりも先にライラの許へ飛んで行くのに』とね。コウモリだって、もしも太陽と交われるものならば、夜を待たずに堂々と昼を楽しむだろうよ」。

妻は答えた。「いいかい。王が王になれたのも、無を有に変える力を持っているからなんだ。私らが、有と呼べるものを何ひとつ持っていないならいないで、ありのまま、無をお持ちすればいいのさ」。「そうは言っても」、夫は妻に言った、「一体どうやって無をお持ちすれば良いのだね?何ひとつ持っていないということを、どうにかして表わさねばならぬ。そのためには、私が何ひとつ持たない者であることを証明する何かが必要なのだ。何でもいい、王に、私の困窮を知らせる何かが。

ねえおまえ、何かこしらえてはくれないか、おしゃべりや見世物とは違った何かを。うるわしき王の心を揺り動かすような何かを。おしゃべりや見世物ごときでは、偉大な判定者の判決を勝ち取ることは出来ないだろう。賢い人々というのは、常に外的な物証を求めるものだよ。多くを語らずとも、無駄口をたたかずとも、物証そのものが雄弁に内的な真実を語り出すような、そんな物証をね」。

妻は答えた。「やましい気持ちを全て振り払って、自分の力で精一杯に立ち上がるだけだよ。そうすりゃ、真実の方がついてくるさ。 - この壺を持ってお行きよ、毎日、あんたと私が御世話になっているこの壺を。壺の中には雨水が溜めてある。これだけがあんたの全財産で、あんたの商売の元手で、そしてあんたの言う道具立て、というものさ。

さあ、この壺を持って行っておくれ。この壺を手土産にして、王の中の王にお目もじするのだよ。そしてこう言うんだ、『これが私どもの全てです。これの他には何ひとつ捧げるものを持っておりません。私どもの住まう砂漠では、この水よりも他に素晴らしいものは何ひとつございません』とね。

王の宝物倉に、どれだけ沢山の金銀や宝石が詰まってたって、こんな水は絶対に持っているはずがないよ。何故ってこの水は、あんたも知ってる通りめったなことでは手に入らない。それはそれは珍しくて、とても貴重なものなのだからね」。

 - さて、ここに出てくる『壺』とは何を指すのか?私達の、はかなく消えるこの体だ。そして壺の中には、私達の感覚という名の、塩辛い水が溜まっている。主よ!私という水の入った、この壺を受け入れたまいますよう。「まことに神は、楽園と引き換えに信者たちの生命と財産を買いたもうた(コーラン9章111節)」との、主の御言葉にかけて。

この壺には五つの注ぎ口が、五つの感覚が備わっている。気をつけておくれ、大事に扱っておくれ。壺よ、水を守っておくれ。あらゆる汚れを避け、清らかに保っておくれ。この壺はかの海へと至る水門、壺の中の水はかの海と繋がっている。清らかに保っておくれ、清らかに保てば、やがてかの海へと再び還りつく日も来よう、かの海を統べる王の手に、再び買い戻される日も来ようから。

その後、やがて水は - 私達は - 、果てしなく続く海そのものとなるだろう。やがて水は - 私達は - 、小さな壺を抜け出して、百も、二百もの宇宙を潤すだろう!そのためにも、「目を伏せて隠し処を守れ(コーラン24章30節)」、注ぎ口を塞ぎ、水を清らかに保つのだ。

 - 「おまえの言う通りだよ!そうとも、これほど素晴らしい贈り物を思いついた者はいないだろう!」。夫が嬉しげにそう言うと、それまでしょんぼりと萎んでいた彼の髭も、空気を含んで誇らしげにぴんと上を向いた。「本当に、これこそはバグダッドの都を統べる王にふさわしい手土産だよ」。

妻も、夫も、バグダッドの都が「下を河川が流れる楽園(コーラン2章25節)」のように、蜜のように甘い水をなみなみとたたえて流れる大河のあることを全く知らなかった。無数の船を浮かべた、海のように多くの魚が穫れる大河のあることを全く知らなかった。この妻、この夫の無知を嗤うことは出来ぬ。私達の知識もまた、彼らのそれと同じく大河のほんの一滴に過ぎぬ。

さあ、スルタンの許へ行く時が来た。その壮麗さを、その目でじかに確かめるのだ。御方の楽園に流れる大河もかくやと思われるその光景を、御方が与えたもうその目で、じかに確かめるのだ。

妻は、雨水の溜まった壺を羊毛の布で包み、それから口の部分を固く縫いつけた。夫が王に献上する貴重な宝物ならば、念入りに封印するのがふさわしいと思えたからだった。「そうだ、そうだ」、夫は言った、「しっかりと、袋の口を縫い閉じてしまっておくれ。気をつけて扱わねば、大事に扱わねば。何しろ、これが私達のためにもなるだろう捧げものだからね。

羊毛の布で、きっちりと縫い込めて差し出そう。私達の贈り物は、王の断食明けの水としても立派に通用するだろう。世界中の、どこを探してもこれほどの水は見つからないだろう。世界中のどの水よりも、純粋で清らかな水だもの」。彼は心の底からそう信じて言っているのだった。苦く、塩辛い水以外の水を知らない彼のような者にとっては、それが真実なのだ。

不足と欠乏だけが生活の全てである彼のような者ならば、たとえ苦く塩辛い水であっても、水であるというだけで十二分に酔える。塩辛い水の湧く泉のそばに生まれ育った小鳥に、どうして甘く透明な水の在り処を知ることが出来ようか。塩辛い水の流れる小川のそばに住まう者に、どうしてシャッタの川とジャイフーンの川、ユーフラテスの川の違いを知ることが出来ようか。

「つかの間のカラヴァンサライ(=物的世界)」から離れられずにいる者に、どうして「消滅」「陶酔」「拡張」の意味を知ることが出来ようか - 仮にあなたがそれらの語を知っていたとしても、それだけで本当に「知っている」と言えるだろうか?父や祖父の代から、誰かによって丸暗記された「知識」を手渡され、同じように丸暗記しているだけではないのか。

だとすればそれらの語は、あなたにとってはアブジャド(アルファベット)の綴りに過ぎないのではないか。アブジャドなら、教え込めば子供達でもすらすらと書けるようにはなるだろう。しかしものの名前を書けたとしても、だからと言ってものの意味が、手を伸ばせばすぐに届く近さにある、ということには決してなりはしないのだ。

 - さて、砂漠のベドウィンの男は、妻が用意した壺の包みを抱えて都を目指し旅に出た。それから昼も夜も、包みを肌身離さず抱えて歩き続けた。抱えている包みが、彼を不安にさせた。運命が、誤った道へと彼を連れて行かないかとそれだけが気がかりだった。それでもなお、彼は砂漠を離れて都へと向って行った。

夫の姿が見えなくなると、妻は擦り切れた敷物を出してその上に座り、祈りの言葉をほとばしらせた。「主よ、お守り下さい!私らの水をお守りください!主よ、あなたの下された真珠が、無事に海へと還りつきますように!私の夫は良くできた男です。頭だって切れるし、腕っぷしも強いし。それでも、真珠を狙う敵共が大勢で襲いかかりでもしたら!

本当に、あれは貴重な真珠です。あれはかつてカウサルの川を流れた水。もとを辿れば、楽園の流れのひとしずくだったのだから」。妻の祈りと願いが通じたか、不安と重荷を黙々と運んだ夫の忍耐が報われたか、やがて夫はつつがなく都に辿り着いた。盗賊に遭うことも、怪我をすることもなかった。彼はカリフの住まう宮殿の広場に行き、人寄せの一角に場所を見つけて腰を下ろした。

彼が見たものは、そこで繰り広げられる光景の、驚くばかりの気前の良さ、豊かさだった。困窮者達は、それぞれに彼らの網を広げて恩寵をすなどる。あちらこちらで、ひきもきらさず嘆願者達が思うところを願い出ている。そして誰もが、立ち去る時には必ず喜捨なり、名誉なりを手にしていた。

まるで太陽と慈雨とが、手を取り合って一緒にやって来たかのよう。まさしく楽園のような光景だった。万人に開かれた場、それこそが真の楽園。真の楽園は不信者も信者も、善人も悪人も、決して分け隔てはしないのだ。

嘆願を抱えてやって来た人々の中に、カリフに祝され整列している者達がいるのが見えた。そしてその隣には、自分達の番を待って立ち並ぶ者達がいた。大から小まで、ソロモンから蟻一匹にいたるまで、まるで復活の日のラッパを聞いたかのように、生き生きと甦り、息を吹き返しているのだった。

現世の糧に飢えた者達が、あふれるほどの真珠の首飾りに埋もれていた。真理の探求者達が、真理そのものの海原に漂っていた。それまでの努力に応じて、あるいは探究心に応じて - 多くを支払った者にはそれに見合うだけのものが、また足りない者にはそれに見合うだけのものが与えられるのだった。


二種類の貧困

物乞いする貧しい者達が、富める者達の施す財を恋い慕って求めるように、富める者達の施す財もまた、物乞いする貧しい者達を恋い慕って求めている。貧しい者達が欠乏に耐えていると、やがて財の方が彼らを訪れて扉をたたく。富める者達が施しをせずにいれば、欠乏が彼らを訪れて扉をたたく。

目の前の貧窮を見詰める、ということは、それをする者の立場によって全く意味が違う。貧しい者にとり、それは黙って貧窮を耐えるということだ。そしてそれが、貧しい者達の美徳でもある。だが富める者がそうしているなら、それは黙って貧窮を見過ごすということであり、悪徳以外の何ものでもない。

 - 「来たれ、求める者よ!」、鐘の音が響き渡る。「汝らが恩恵を欲するように、恩恵もまた汝らを欲する」。恩恵は貧しき者を探す、それは美しい者がよく映る鏡を探すのと似ている。美しい者の顔は、鏡を覗き込むことでますます美しくなる。恩恵は、貧しき者を鏡に、自らの顔を見たいと欲するのだ。「朝にかけて(コーラン94章1節)」、神がこのように申されるも道理、 - 「乞食を叱りつけるな(コーラン94章10節)」と。

貧しき者達とは、あなた方自身を映し出す鏡だ。あなた方自身の寛大さや優しさを、まっすぐに映し出す鏡だ。真実を知りたければ、鏡は大事に扱わねばならぬ。物乞いする貧しき者とは、恩恵を映し出す鏡だ。大事にもてなさねばならぬ。声を荒げたりしようものなら、鏡の表面が曇ってしまう。

施す者には二通りある。たとえば富を握りしめ、乞われるまで施そうとしない者がある。物乞いがあなたの後ろを追いかけてくるのなら、貧しき者に物乞いをさせているのはあなた自身だ。そして別のある者は、乞われる前に必要よりも多くを与える。貧しき者に物乞いをさせたりはしない。彼らが、自分自身の鏡であることを十分に承知しているからだ。

物乞いをする貧しき者とは、神の恩恵を映し出す鏡だ。富と言っても現世のそれは、結句のところ相対的なものに過ぎず、比較の上でなければ計ることも出来ない。だが神と共に在る貧しき者は、無条件かつ絶対の恩恵と分かち難く結ばれている - 人は皆、貧しき者なのだ。あるのは物乞いを、するか、させるかの違いだけ。

それを知る者もあれば、知らぬままにやり過ごそうとする者もある。まるで生きながら腐臭漂わせる死者のよう、彼らの生は虚しいものだ。彼らは、この扉の前に立って自ら物乞いをすることもない。従って、神の中庭に至ることもない。だからいつまで経っても、彼らの生は始まることがない。まるで壁掛けに描かれた刺繍のよう、見てくれだけは豪奢でも、肝心のいのちが宿っていない。

貧しさにも二通りある。神を渇望し、神を欲するがゆえの貧しさと、神以外を渇望し、神を避けるがゆえの貧しさと。神以外を追い求める者というのは、ダルヴィーシュとは無縁の輩だ。これもまるで描かれた絵のようなもので、神の恩恵にも、一切れのパンにも値しない。描かれた犬は真の犬ではない、骨を与えるのも無駄なことだ。あれらが探し求めるのは神ではなく一皿の食事だ。死者にパンなど、無用の長物ではないか。

パンを欲しがるダルヴィーシュなど、陸に揚がった魚のようなもの。魚の姿かたちに生まれていながら、海から逃げ出して何がどうなるというのか。あれらは飼いならされた家禽のよう、大空を住処とするシームルグではない。美味い、うまいと目の前に与えられた餌を飲み込む、天に糧を求めることもせずに。

あれらは、ご利益を目当てに神を愛する。あれらの魂は、神の素晴らしさ、美しさに恋い焦がれるということがない。あれらは、自分では神の実在そのものを愛していると思い込んでいる - 実のところ、神の御名、神の属性といった概念をもてあそんでいるに過ぎないのだが。

神の実在と、神に関する概念とは言うまでもなく別のものだ。性質と定義から生ずるもの、それが概念である。だが神とは「生じるもの」ではない。「生まず、生まれず(コーラン112章3節)」、それが神だ。自らの妄想と神とを取り違えるような者を、どうして神を愛する者の一人に数えられようか。

 - とは言うものの、たとえ過った想念に取り付かれていたとしても、誠実さを伴う者であったなら、まだしも救いがあるというもの。どれほどいつわりに満ちたまぼろしを愛そうとも、やがてはその者自身の誠実さが、非現実から現実への導きとなるだろうから。これについては、言葉を尽くして説き明かす必要がある。

だが人々の中には、理解力に乏しい者もいるだろう。そうした者が、私の言葉を私の意図とは全く違った方向へ曲解することを私は恐れる。理解力に乏しい者、視野の狭い者というのは、ひとの話を聞いているようでいて聞かない。あれらは本当に気が短い連中だ。途中まで聞きかじっただけで、こちらの話が終わってもいないうちから、早々と自分勝手な思い込みを百も二百も混ぜ込んで捻じ曲げる。皆が皆、正しくひとの話を聞く才覚があるというわけではない。

いちじくが、全ての小鳥の糧となるとは限らない。特にその小鳥が、すでに生きながら死して久しく、土に還るのを待つばかりというような場合には。あれらの目に映るものと言えば、何の役にも立たない非現実のあれやこれやばかりなのだ。絵に描いた魚にとっては、陸も海も変わりがない。褐色に焼けたヒンドの人にとっては、石鹸も明礬も変わりがない。

紙の上に、悲しげな表情の肖像を描いたとしよう、だが肖像はあくまでも肖像に過ぎない。描かれた肖像に、悲しんだり喜んだりするすべはない。悲しそうに見えてはいても、悲しみの在り処はそこではない。あるいは、微笑んで見えたとしても、喜びの在り処はそこではない。現世には、一見すると悲しみや喜びがあふれているかのようだ。しかし現世というものは、描かれた絵画のようなもの。悲しみも喜びも、それらの真の在り処は現世ではない。

悲しみも、喜びも、真の在り処はあなた方の心だ。描かれた絵画が、微笑んでいるように見えるのなら、それはあなたの心が微笑んでいるからだ。逆もまた然り。と、すれば、あなたがあなた自身を正しく理解することが、世界を正しく理解することに通じるのではないか。

熱されたハマム(公衆浴場)の壁一面に、絵画が描かれている。服を着たままではハマムには入れない。脱衣場で、全て脱ぎ去る必要がある。だがしかし、一体いつまで、ハマムの外で待ち続けるつもりか。ハマムに入れ、わが友人達よ。

ハマムに入るためには、全てを脱ぎ去らねばならぬ。魂にとって、肉体とは服のようなもの、描かれた絵画のようなもの、ほんの一時期の現象に過ぎぬ。現象など、脱ぎ捨ててしまえ。魂そのものとなって、夜を徹して共に語ろう、わが友人達よ。


はるか彼方の砂漠から、ベドウィンがカリフの宮殿を訪れたというので、従者達はベドウィンを歓迎しようと彼の傍までやって来た。歓迎のしるしに、彼らは、ベドウィンの胸元に薔薇水を惜しみなく振りかけた。一言の言葉も交わさぬうちから、彼らはベドウィンが何を望んでいるのかを承知していた。乞われる前に差し出すのが、彼らの習いであったからだ。

彼らは愛想良く話しかけた。「これはこれは、アラブの族長どの。どちらの方角からお越しですか。さぞや長旅であったことでしょう、お疲れではありませぬか」。

「いかにも私は族長でありましょう」、彼は答えた、「あなた方がそう仰るのならば。しかし実のところ、私はあなた方の尊敬を勝ち得るような身ではないのです。あなた方の助け無しには、何ひとつままならぬ身なのです、おお、聡明のしるしを額に持つ人々よ。ジャファー(シーア派6代イマム)の黄金よりもなお輝ける人々よ、たった一人でも百人の働きをなす人々よ。

おお、一たび眼差しを注げば、ひとつの黄金を百にも増やす人々よ。おお、神の光もて真実を見抜く人々よ、神の恩寵を知らしめるために働く人々よ。あなた方の眼差しは錬金術のよう。あなた方の一瞥を与えられれば、銅もたちまち黄金に変わる。あなた方は、その錬金術もて訪れる一人ひとりに眼差しを注ぐ。

私は、この地の者ではありません。砂漠に住まう者です、誉れ高きスルタンに、一目でもお目にかかりたいと望んでここまで参りました。スルタンのお優しさが放つ芳香は、私めの住まう砂漠の奥にまで満ち満ちております。砂の一粒にまで、その香りが染み込んでいるほどです。私は最初、ディナールを得ようとこの宮殿までやって来たのです。けれどここに至ってすぐに、目に映るもの全てに、私はすっかり酔わされてしまいました」。

腹を空かせてパン屋まで走った男が、パンよりも、パン屋の美貌に胸をわしづかみにされて倒れ込む。一輪の薔薇を求めて庭を訪れた者が、薔薇よりも庭師の美貌に心打たれてすっかり薔薇のことなど忘れてしまう - 彼に起きたのは、それと同じような事だった。砂漠から来たアラブの男は、水を飲もうと井戸につるべを落としたものの、井戸の底から現れたのは水どころかヨセフであった(コーラン12章19節)。ヨセフの美貌に、アラブの男は、水どころか『生命の水』を得たかのように感じ入っていたのだ。

モーセは、山際に燃える火を見て火を取りに走った。だがモーセが火を捉えたのではない、モーセが御方に捉えられたのだ(コーラン28章29、30節)。イエスは、敵の追っ手から逃れようと高く飛んだ。だがイエスが飛んだのではない、御方が彼を引き上げたのだ(コーラン4章157、158節)。

小麦の穂はアダムを陥れる奸計となり、禁断の果実は彼を地上へと追放する種となった。だが考えてもみよ。それでこそ、アダムの存在は我ら全人類という果実の種ともなり、小麦の穂もまた、我ら全人類の糧ともなったのである。

鷹は、そこにある餌を求めて罠にかかる。だがその後で、鷹は王の腕を止まり木とする幸運と栄誉を手に入れる。「ごほうびに、小鳥を飼ってあげよう」という父の言葉に釣られて、子供は学び舎に通い学び始める。だがその後で、子供は学識を手に入れる。月にいくばくかの謝礼を教師に支払って手に入れた学識や知識が、やがては金で購うことの出来ない高みへと子供を連れて行く。

アッバース一族の、そもそもの目的は復讐であった。アハマド(ムハンマド)と、真実の宗教とを制圧するために戦いを挑んだ。ところが、見よ、やがて彼と彼の子孫によるカリフ統治は、審判の日が訪れるまで、前からも後ろからも真実の宗教を守護するものとなったのだ。

 - 「私は、富を求めてこの宮殿へとはるばる旅をしてやって来ました。しかしこちらの前廊をくぐるなり、私は目が覚めた思いを味わったのです。今こそ私は、自らの精神を治める族長となったのでしょう。パンを得るための贈り物として、私は水をお持ちしました。パンを得たい、そんな低いところに生じた望みが、楽園の最も高いところへと私を導いたのです。

アダムをして、楽園のさらにその先へと導いたのもパンでありました。それと同じく、私をして、楽園の住人達と交わらせたのもやはりパンでありました。一体、今の今までというもの、私ときたら何に拘泥し、何を逡巡していたのでしょう。今こそ、私はまるで天使のように、水からもパンからも自由になれた心持ちです。まるで天空を回転するように、こうしてこの宮殿をくるくると廻って見渡せば、世間のあれだのこれだの、全く欲しいとも思えなくなりました」。


閑話休題:現世の虜

現世を動かすもの、それは欲望である。
現世の何ひとつとして欲望抜きには動かない - 
ただひとつ、公正無私な愛の炎を心に燃やす者を除いては。

現世を愛する人々というのは、壁を相手に情熱を傾ける人々だ。
壁の上を、太陽の光が照らしては消えてゆく様子に一喜一憂する。
しかしその光を届ける根源に気付かず、太陽の存在にも気付かない。
壁が光を放つのではないのに、
壁はただ照らされているに過ぎないというのに。

全体を見渡し、その上で全てを愛する者と、
選り好みをし、部分のみに拘る者との間には明らかに違いがある。
部分のみに拘る者は、最後まで全体を理解することなく一生を終える。

溺れている時に、藁を掴んで助かった者はいない。
自分よりも弱いものにしがみついたところで、何になるというのか。
あるじを持たぬしもべは、自らのあるじとなるより他はない。
だがそれは不可能だ - 
だから溺れている、だから救いを求めている。

考えても見よ。あなたを救える何かというのは、
あなたよりも優れている何かでなくてはならぬ。
あなたよりも劣った何かに、あなたを救えるだろうか?


閑話休題:『密通を犯すならば自由な女と、盗むならば真珠を』という言葉について

アラブの古いことわざに、「密通するならば自由な身分の女を選べ」というものがある。これの意味はそのままに、言葉を転じたものが「盗むなら(貝殻ではなく)真珠を盗め」という格言だ。

いくら愛を注ごうが、奴隷はいつか主人の許へと帰ってゆく。恋人は、惨めさの中に置き去りにされる。薔薇の芳香が彼の許を去り、薔薇の許へと帰ってしまったのだ。恋人の手に残されたのは、鋭くとがる薔薇の棘ばかり。彼の欲するところは、彼を離れてはるか遠くへ消え去ってしまった。彼の費やした労苦も努力も、全てが実ることなく水の泡となってしまったのだ。残されたのは足に突き刺さる棘の痛みだけ - 

まるで影を狩る猟師のよう。影を欲したところで、どうして影を我がものになど出来るだろうか?地面に映る鳥の影を、いくら強く握りしめたところで鳥を得られるだろうか?影を捕えてみても、枝に止まる鳥は手の中に落ちては来ないのに。鳥は驚き呆れて言うだろう、「あの男、一体何がおかしくてあんなに笑っているのだろう?ばかも大ばか、影と実体を取り違えるだなんて!」。

言う者がある、「部分もまた全体に通じる。それゆえに部分を愛さぬ道理はない」、と。なるほど。良かろう、そうした者は薔薇の棘を食べ続けて見せるがいい。部分を愛することの道理を言うなら、棘も薔薇の部分だ。何の異存も不満もなかろう、芳香を手放して棘を食べろ。

部分とは、全体に関する「あるひとつのものの見方」に過ぎぬ。部分と部分を繋ぎ合わせて全体を見通すつもりも無いのなら、あるひとつの部分にばかり固執するのは賢いことではない。預言者の仕事というのは本当に骨の折れることだ。彼らが遣わされたのも、離ればなれになった部分の欠片を拾い集めて再び繋ぎ合わせるため。遣わされた彼ら自身もまた、それぞれに個別のかけらの身でありながら、そのような仕事を為すのだから大変なことだ。

しかしもう遅い、この話はここまでとしよう。諸君と語り合っていると、時間は本当にあっと言う間に過ぎ去る。さて、物語を締めくくるとしよう。


ベドウィンは水の入った壺を差し出した、宮殿の広間中に、敬意という名の種を蒔きながら。「この贈り物を受け取って下さい」、彼は言った、「どうかお納め下さい、私を救うと思って。スルタンにお渡し下さい、王のしもべを、困窮から助けると思ってどうかお納め下さい。真新しい緑の壺に、甘露を、雨樋を伝った雨水を集めたものです」。

従者達は微笑んだ。微笑みつつ、彼が差し出したその壺に、貴重きわまりない生命のしるしを認めてもいた。統治する王が賢く優雅であれば、その賢さ、優雅さは、自ずと仕える従者達のしるしともなる。あらゆる物事は、王権を握る者の采配次第でいかようにも変化する。一点の曇りもない紺碧の空の下にあっては、大地もそれにふさわしく緑に輝くもの。

王とは、すなわち四方八方に向って伸びゆく水路だ。そして水路を流れる水とは、石臼に挽かれて精製される麦のようでもある。水路が、芳醇で清い水源から敷かれたものならば、流れる水も甘く清く、全ての者が良い水を楽しむだろう。だが水源が、塩気を含んで濁っていれば、流れる水もまた同じように価値なきものとなるだろう。

全ての水路は、ひとつの水源から派生している - さあ、この譬え話の水に飛び込め。深く潜って、意味の水源を探り当てよ。考えてもみよ。ひとつ処に縛られることのない放浪の魂の優雅さが、肉体にどれほどの影響を及ぼしていることか。考えてもみよ、純粋を出自とする理性の高貴さが、肉体をどれほど律していることか。

そして、考えてもみよ - 抑えきれず、制しきれることのない愛が、肉体をどれほどの狂気に陥れることか。しかしそのどれもが、カウサルのように清らかな水を湛えた海ならば、水滴の一粒ずつも、真珠や宝玉のように輝くだろう。

どのような学問であれ、その領域において名の知れた師に学べば、弟子達の魂は多かれ少なかれ師のそれと同じ道筋を辿ることになる。神学者の師を持つ弟子ならば神学を、法学者の師を持つ弟子ならば法学を、いち早く身に付けることだろう。それぞれの学問の言葉をもって世界を説明するようになるだろう。

文法学者を師に持つ弟子ならば、師の教える文法が、弟子の魂にすっかり染み込むことだろう。そしてまた、我らが道(神秘道)を行く者を師に持つ弟子ならば、魂そのものが、我らが王の中の王(神)に、すっかり染み込むことだろう。

これら全ての、多岐に渡る様々な知識や異なる学問を学びつつ、それでも我ら全ての道はただひとつの同じ方向へ、すなわち死の日へと向かっている。この道を歩むのに最もふさわしく、また最も役立つ知識とは何であろうか? - それは「どれほど学ぼうとも、私達は無知である」という知識である。


閑話休題:文法学者と船頭

ある文法学者が船に乗り込んだ。「文法を学んだことはあるかね?」、自惚れたこの男は船頭に向かってそう尋ねた。「いや」、と船頭が答えた。「やれやれ」、文法学者は言った、「そなたは半生を無為に過ごしたようだな!」。その言葉は、船頭を悲しませた。彼の心は深く傷ついたが、その時は何も言わずに黙していた。

ところが、漕ぎ進むうちに強い風が吹き荒れ始め、瞬く間に船を渦へと巻き込んだ。「おい、泳げるか?」、船頭は大声で文法学者に尋ねた。「いいえ、泳げません、公正無私なる美しきお方よ!」、これ以上はない修辞法で文法学者は答えた。「文法学者さん」、船頭は言った。「あんたは、どうやら一生を無為に過ごしたってことになりそうだ。もうじきこの船は、渦に巻き込まれて沈むだろうから!」。

さて、ここで真に必要とされたものは何か。それは「ナフウ(nahw:文法)」ではなく「マフウ(mahw:自己滅却)」である。もしもあなたが既に「マフウ」の階梯にあるならば、その時は迷わずに海へ飛び込め。怖れることはない。海水は、常に死者を海面へと浮かび上がらせてくれる。だが、未だ生きている者はその限りではない。

生者、すなわち自己に固執している者が、どうして潮流から逃れることが出来ようか。あなたが肉体の呪縛を破り、自己という属性を滅却させたとき、神的意識の海原はあなたを王冠のように最も高いところへ、覚醒の海面へと引き上げるだろう - だが他人を阿呆呼ばわりしたあの文法学者は?いずれが阿呆であったか?水底に沈み、やがて氷に閉ざされるのはどちらであったか?

もしも自分が、この世におけるありとあらゆる学識を備えた当代随一の学者だと自負するものならば、次に学ぶべきはこの世の去り方、身の引き方だ。我らがここに文法学者の小咄を差し挟んだのも、あなた方に「マフウのナフウ(自己滅却の文法)」について教えるため。慕わしき読者諸賢よ、自己滅却の裡にこそ、あなた方は学ぶだろう、法学の法を、文法学の文法を、形態論の形態を。

物語のベドウィンが運ぶ水の壺は、「私」という個体によって表象される、それぞれに異なる知識の断片を指している。そしてカリフは、ティグリスのごとき神の知識を指している。私達はそれぞれに、ティグリスから汲んだ水を「私」という小さな壺に汲んで運んでいる。

しかしティグリスの水の全てが、こんな小さな壺に収まるはずもない - 自分が何ひとつ知らぬ阿呆だ、ということを知らぬなら、それこそ本当の阿呆というもの。


ベドウィンはティグリスについては知らなかった。都を流れる巨大な川について、何ひとつ知らなかった。だがそれは彼の罪ではない。砂漠の奥深く、ティグリスからはるか遠くに生まれついた彼が、ティグリスについて知らずとも当然のことだ。もしも彼がティグリスの川について、私達と同じように知っていたとしたら、あちらからこちらへと水の入った壺を抱えて旅をすることも無かっただろう - 否、もしも少しでもティグリスについて知ってしまったとしたら、旅の途中であっても、彼ならば壺を叩き割るぐらいのことはしていただろう。

カリフの耳にベドウィンの話が届けられると、彼は壺に入った水を受け取り、その同じ壺を金貨で満たし、それから他にも数々の贈り物を添えて返礼した。彼はベドウィンを窮乏から救い、寄進と、名誉の衣とを差し出した。そしてこう命じた、「この壺をベドウィンの族長殿に手渡せ。お帰りの際には、ティグリスにお連れせよ。砂漠から、険しい陸路を渡ってはるばる訪ねて来られたのだ。せめて戻られるのには水路を使うのがよろしかろう、その方がはるかに早い」。

用意された小舟に乗り込み、ティグリスの流れを目にしたベドウィンは、恥のためにひれ伏す他は無かった。「なんと慈悲深く寛大な王であったことか!だが何よりも優るのは、彼が私の持ち込んだ水を受け取り、それを飲んだことだ。一体、どうしてそのような事が出来るのか。海のごとく豊かに持てる者が、何の逡巡もなく私の贋金同然の贈り物を受け取るだなんて!」。

さて、年若き我が友人達よ。この宇宙、この世界に存在する全てが、知と美に満たされた壺であることを、どうか覚えておいて欲しい。それも、それも、それも。ひとつの例外もなく、ありとあらゆる「それ」が御方の美というティグリスのひとしずくだ。私達の間にあるのはヒトの皮膚一枚の隔たりのみ。その下には、かの御方の知と美が充満している。

それは未だ隠された財宝だ。壺に溜まった水がやがて溢れ出すように、知と美とが隠しようもなく溢れ出し、王の絹衣のように大地を覆う時、大地は諸天よりもなお光り輝くヒトの住み処となろう - もしもかのベドウィンが、神の創りたもうティグリスを、辿り着く前に垣間見ようものならば、彼は壺をたたき壊していたことだろう。壺は粉微塵に砕けていたことだろう。

「それ」を目にした者ならば、誰であれ我を忘れる。我を忘れて取り乱すのが常だ。そして壺という名の自己存在に向かって石を投げつけ、壺をたたき壊してしまう。石を壺に投げつけるという行為に至らしめるもの、突き詰めるとそれは嫉妬に他ならぬ。だがそれで良いのだ。何しろここで言う壺というものは、たたき壊されてこそ完成に近づくものなのだから。

壺がたたき壊されて、初めて知るのだ、中の水がこぼれ落ちることもなければ、減りもしないことを。この破壊が招くものが、百もの静寂、百もの安寧であったことを。目をやれば、そこにあなたは見るだろう、粉々に砕けた壺のかけらが恍惚の舞踏を舞う光景を  - だがしかし、個別の知性を通して理解しようと試みたところで、その光景は不条理極まりなく、ばかげたものとしか映らないだろう。だが砕けてしまえば、そこにあるのは壺でもなければ水でもない、ただ忘我の歓喜のみ。ただ座して楽しめ - 「神は最もよく知りたもう(コーラン6章58節)」。

あなたがリアリティの扉を叩けば、扉は開いてあなたを迎え入れるだろう。思考の歯車を働かせ、思考の翼を広げるのだ、王の鷹となるためにも。だが歯車が噛み合わず、翼を広げることが出来ぬなら、歯車と歯車の間に泥土が詰まっているのだろう。泥土を食べ過ぎているのだ。泥土のパンを糧としているのだ。パンも肉も、やがては泥土に還る。控えめに食し、精神のパンを糧とせよ、パンと肉のように泥土に還るのではなく、御方の許へ還ろうと望むなら。

腹が空けば、犬のように振る舞う。激しく吠えて、気難しく意地の悪い生き物になる。たっぷりと食べて腹が満たされれば、今度は死体のように振る舞う。何も感じず、何も理解せず、動こうともしない壁になる。あなたは時として死体のようになり、また時として犬のようになる。だがそのようでは、聖者の後を追い、獅子の道をひた走ることなど到底望めまい。

狩猟には犬がつきものだ。だがその犬を甘やかすばかりでは、狩りに出かけることも出来ない。自分の犬、すなわち魂の獣性についてはしっかりとしつけることが肝心だ。犬には残り物の骨を与えておけ。満腹すれば、獣は反抗する。満腹した犬は獲物を追わぬ。飢えを知らぬ魂には、何ひとつ捉えられぬ。

かのベドウィンを宮殿へと導いたのは、日々の糧にも事欠く暮らしであった。そして導かれたその先に、彼は糧を見出した。充足に必要なもの、それは不足だ。そして王の寛大さをもって、我らは物語の結末とした。物語は不足によって始まり、充足によって終わるとしよう。

愛する者が語るとき、その口からは愛の芳香が立ちのぼる。何を語ろうとも立ちのぼるのは愛の芳香、かつての住処へ還り行こうと飛び立ってゆく、愛する者の言葉を翼にして。愛する者が法を語るとき、ありとあらゆる貧困の類いがその言葉に耳を傾ける。愛する者の語る言葉にすがりつき、その蜜をすすろうとする。愛する者が法を語るとき、その言葉に救いを求めて群がる貧困の放つ匂いが立ちこめる。

愛する者が背信を語るとき、漂うのは真の信仰の香りだ。そして疑念について語るとき、愛する者の中に生じるのは新たな確信の光である。 ー 嘘偽りのない誠心の海からわき起こる波また波。水面に浮かぶ泡また泡。泡は白く濁って見える。だがその泡を生じせしめたのもその下に広がる透き通った海だ。波も泡も、元を辿ればその根源は、透き通るあの海に在るもの。波を厭うな、泡を嫌うな。恋人の頬に触れようとして触れられぬ時について出たため息のようなもの。愛する者はえくぼについて語っているのだ、あばたではなく。

恋しいひとが語る言葉なら、たとえ嘘でも真実のように聞こえる。愛する者の言葉に重ねられた虚偽を暴こうとしたところで何になるだろう ー 虚偽を暴こうとすればするほど、隠されていた真実に引き寄せられるだけのこと。虚偽は真実の飾りに過ぎぬ、それもとびきり豪奢な飾りだ。砂糖を捏ねてパンの形をした何かを焼いてもパンにはならぬ。一口、舐めればたちまち知れるだろう、パンの形をしたそれが、一体何から出来ているのかを。

信じる者が、黄金で作られた像を見たならばどうするか。信じぬ者の手から像を取り上げる他に何があろうか。像を火にくべて燃やす他に何があろうか。形態という人為のかりそめを打ち砕く他に何があろうか。ひとたび加えられた型枠は、いつまでも黄金の上にこびりつくだろう。払っても払っても、幻想と妄想は黄金の上にまとわりつくだろう。だがそれでも、火にくべ燃やし尽くす以外には、人の目に真実を焼き付けるすべはない。

黄金の本質とは、それが主から下されたものだと知らしめるところにある。黄金の本質は主の本質に通じる。それが何であれ、黄金を用いたところに生じるものの全ては、ヒトを真理の道から惑わせるかりそめの偶像に過ぎぬ。かが一匹のノミのために、毛布を丸ごと燃やすような真似はするな。たかが一匹の蠅を追って、一日を丸ごと費やすような真似はするな。偶像を捨てろ、黄金を取れ。型枠を捨てて真理を取れ、言葉を捨てて意味を取れ!

もしもあなたが巡礼を目指す者ならば、あなたと道を共にする巡礼者を探せ。ヒンドを探すな、テュルクを、アラブを探すな。ただ純粋に巡礼者を探せ。姿や形に拘るな、色を見るな。見るならば、目的と意図とを見るがいい。黒かろうが白かろうが、巡礼を目指す者同士、調和せぬはずがないではないか。あなたが道連れの色に、道連れがあなたの色になるまで互いに親しみ合わずして何のための巡礼か。真に偶像から解き放たれた精神ならば、全て同じひとつの色であることが理解出来るはずだ。

 - さあさあ、今度こそ本当に物語を終わろう。いやはや、ここまで長引くとは思わなんだ。ともかくも、どうにかこうにか結びまでこぎ着けたものの、こうして振り返ってみると上を下への大騒ぎだったな。まるで恋人同士の睦み合いのよう、一体、どこに頭があるのやら、どこに足があるのやら。

いやいや、この物語には頭となる始まりもなければ、足となる終わりもない、ということにでもしておこうか。御方より前に始まりなし、御方より後に終わりなし。この物語もまた御方に倣って、永遠と名付けるとしようか。

いやいや。違う、それは違うぞ。物語の肝心かなめとなった「あれ」があるではないか。そうだ。この物語は水だ。水もまた、始まりもなければ終わりもない。それにそら、水のしずくの一粒づつを見よ。どちらが前でどちらが後ろか、判じようもないだろう。

 - こら!何をこそこそ書き記しているのだ。物語は終わったと言っているだろう。おしまいだ。おしまいだ。ええい、ふざけるのもいい加減にしないか、この罰当たりめ。筆を置いてよくよく考えろ。今語り合っているこれは、おまえ、これは言うなれば現金だぞ。おまえと私の取り分なのだぞ。こっそり山分けしようではないか。忘れたのか、我らはスーフィーだぞ。いやしくもスーフィーたる者、舞台裏を見せるなどもっての他だろう。

偉大かつ素晴らしきスーフィーのあるべき姿というのはこうだ。すなわち過去に縛られず、何ものにも囚われず、心の中には染みひとつ残さず - よいか、一度だけ言うが、聞いたことは全て忘れるのだぞ、何しろ「心の中には染みひとつ残さず」なのだからな。

我らは、物語に登場したベドウィンでもあり、同時に水の入った壺でもあり、更にまた同時に王でもある。我らは全てだ、全ては我らだ。真実から遠く締め出され、そしてまた真実へと還りつこうとするありとあらゆる全て、それが我らだ。そしてベドウィンが夫であるように我らも夫であり、そして妻がある。

夫は理性だ、蝋燭の灯火だ。そして妻は欲望だ、全てを欲しがりおる。我ら夫という蝋燭の灯火を、いとも簡単に吹き消しおる。いとも簡単に否定しおる - だが妻の否定こそが、物語の幕開けとなったのだ。妻の否定に耳を傾けてこそ、ばらばらだった物語の断片も、全体となり完成に至ったのだ。

ものごとは全て連環している。断片となった部分も、断片であるからといって全体から切り離されているわけではない。薔薇の芳香が、薔薇とは切っても切り離せないのと同じことだ。みずみずしい緑の香草の美しさと、薔薇の花の美しさは同じひとつの美しさだ。キジバトがくう、くうとのどを鳴らすあの声があってこそ、ナイチンゲールの歌声も際立つというもの。

私にはこれが合っている、眉間にしわを寄せ難問を解くことばかりに時間を使いたくはない。そのようなことにばかりかまけていたのでは、喉の渇きに苦しむ者に水を注いでまわる時間が無くなってしまう。難問が道を塞ぎ、にっちもさっちもいかずに困っているならば、出来ることはただひとつ - 忍耐だ、忍耐あるのみだ。

耐え忍ぶこと、これぞ幸福への鍵。あれやこれやと思案したところでろくなことにはならぬ。むしろつまらぬ思案など慎むことだ。気を散じるな、思案を慎むことに集中せよ。ヒトの思案は獅子とロバの追いかけ合いのようなもの。そしてヒトの心は茂みだ、つつけば何が出て来るものやら見当もつかぬ。

痒いところを掻きむしれば、ますます痒くなるというもの。薬を塗るのも結構なことだが、我慢出来るものなら我慢せい、薬よりもその方が効き目がある。まことに、医学の最初の一歩は常日頃からの節制だ。まずは慎め。あれもこれもと欲しいものに目を奪われるな、まずは自らの魂を見つめよ。自らの魂に目を転じ、魂を育むことに集中せよ、余計な思案は一切するな。

あなたの耳を傾けて欲しい、私は今、とても大事なことを話している。私の言葉を受け取って欲しい、そして金の耳飾りのように、あなたの耳に飾って欲しいのだ。その耳飾りは月に仕える者の目印だ。やがてあなた自身が耳飾りとなり、黄金色に輝くあの月に飾られ仕える日がやってくる。あなたは月へと迎え入れられ、プレイアデスの高みにまで昇りつめるだろう。

そのためにも良く聞き、良く学べ。まずはアリフからヤーまで、ひとつひとつの文字の違いを知れ。文字がひとつひとつ異なるように、被創造物もひとつひとつ異なる。見かけも違えば、その中身も違う。さらにまた、文字が語中の位置によって変化するように、非創造者もまた、ある視点から見た場合と、別の視点から見た場合では異なってくる。

同じ一人の男でも、ある者は冗談好きの男と考えたり、また別の者は真面目な男と思っていたりする。自分の思案が普遍であると思い込むところに、混乱や不信が生じる。しかしだからこそ、最高の検証の日として「復活の日」が用意されているというわけだ。昼の光を避け、顔を隠すヴェイルを欲するように夜の暗闇を求めても得られぬ日、それが復活の日だ。

詐欺を働くヒンドの商売人も、ごまかした帳簿を隠しおおせることは出来ない。けれど正直に、誠実に生きた者ならば、復活の日を待ち望みこそすれ怖れたりはしないだろう。頭のてっぺんからつま先まで、薔薇の花、百合の花のように一生を過ごした者にとり、「復活の日」は春の訪れそのものだ。

けれど葉や花弁の一枚も育てず、棘ばかりを後生大事にして一生を過ごした者にとり、春は好ましからぬものとなる。彼らからすれば、「復活の日」の、輝ける両の眼に射抜かれるのはたまらない。彼らは棘を磨く、魂ではなく。彼らは秋を好む、秋ならば薔薇の花も消え失せ、薔薇園を訪れる者もいない。従って棘を隠し持つことの恥も、他人に知られずに済むと考えている。

秋ならば、花と棘の違いを隠してくれる。棘にとり秋こそは春だ。色という色が消え失せてしまえば、石ころとルビーの違いも見分けがつかなくなると考えている。浅はかなことだ、春であろうが秋であろうが、御方の庭師からすれば見分けをつけるのは雑作も無いことなのに。世界中の眼が見ているものよりも、なお多くを御方の庭師は見ている。御方の庭師、御方の定めたもう宇宙の法則からすれば、何が自らに沿っているか、また何が自らから逸れているかは全てお見通しだ。

見よ、満天に輝く星々を。星々が、月を讃えて逸れることなく繰り返し軌道を描くのを。あらゆるイメージと、あらゆるフォルムが喝采する、「吉報が届けられた!吉報が届けられた! - 待ちに待った春の訪れだ!」。花のつぼみがほころびもせず、いつまでも鎖帷子のようにきつく締まっていたのではいけない。扉が開かぬようでは、果実達も部屋に入れない。

花は散るために咲くものだ。散ってこそ、果実の出番がやってくる。肉体は捨てるためにあるものだ。捨ててこそ、魂の出番がやってくる。花は吉報であり、果実はその報奨である。花はフォルムであり、果実はリアリティである。フォルムを捨ててこそ、リアリティが手に入るのだ。何かを減らすことによってのみ、初めて増やせるものがある。

パンを見詰めているだけで腹が膨れるだろうか?パンはちぎって、口に入れてしまわなくては何の意味もない。目の前からパンが無くなり、それで初めてパンは活力となる。葡萄の房を、飾っておいて何になる。押しつぶし、搾り取らねば葡萄酒にもならぬ。ミロバランも、すりつぶさねば薬にはならぬ。そして薬というものは、飲まねば病を癒すことも出来ぬのだ。

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「砂漠のベドウィンと、その妻の物語」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー

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