مثنوی معنوی - "Mathnawi ye-Manawi" Mawlana Jalal-Din Muhammad al-Balkhi Rumi
index > bookworm > 『精神的マスナヴィー』1巻
「吟遊詩人の物語」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー
昔々、ウマルが治めた時代のこと。素晴らしい吟遊詩人がいた。この吟遊詩人、竪琴の名手でもあった。彼の声の見事なことときたら、ナイチンゲールですら我を忘れてうっとりと聞き惚れるほどだった。その美しい歌声に、ひとつの恍惚が百にも二百にも増えるほどだった。彼の吐息には香気が漂い、集まった聴衆達の感覚を心地よくくすぐった。彼が歌えば、死者ですら眠りから目覚めるほどだった。
彼はまるでイスラーフィール(セラフィエル)のよう。その声は、死者の魂を巧みにあやつり、もとの肉体へと呼び戻す。あるいは、彼は本当にイスラーフィールの伴奏者であったのかも知れない。彼が紡ぎ出す音楽には、象の背中に翼を与えるほどの力があった。
イスラーフィールが、手にしたラッパを鋭く一吹きすれば、百年前に朽ち果てた肉体であってもたちまちのうちに生命を取り戻して動き出す。預言者達もまた、イスラーフィールと同じくその体内に特別な音感を持つ人々であった。預言者とは、いわば特別な音感を用いて、現世の生を超えたいのちそのものの価値を探求した人のことだ。
肉体に備わる耳、諸感覚のひとつとしての聴覚を用いても、その旋律を捉えることは出来ない。肉体の耳には、「自分の聞きたいところのみを聞く」という罪が常につきまとうからである。人間には、精霊達の旋律を聞き取ることが出来ない。人間には、内的音楽の神秘を、これ、と指し示すことも、捉えることも出来ない。
かと言って、精霊達の奏でる内的音楽が現世に存在しない、ということではない。それは現世にも流れている。ただしその旋律は、人間の奏でるそれとは明らかに違う。その旋律は呼吸と呼ぶにはなお近く、心音と呼ぶにはなお遠い。
精霊達も人間達も、ふたつながらにして囚われの身。それぞれが、それぞれの無知に囚われている。それで、内的音楽とのすれ違いが生じる。「おお、ジンと人間どもよ、おまえたち、天地の境界を飛びだせるなら出てみよ。どんな権威もなくして、おまえたちに飛びだせるものか。おまえたち双方は、主の恵みのいずれを嘘だと言うのか1」。
聖者達は、内的音楽の優れた演奏者だ。彼らは言う、「『否』のかけらたちよ。聞け、『否』という非存在から抜け出せ。否定形の殻を突き破れ。頭に詰め込まれた幻想を振り払え。空虚な妄想遊びを捨てよ。たった今、これに夢中になったかと思えば、次の瞬間には別のものに夢中になる。はやりすたりの残骸にまみれ、折り重なって朽ち果てていく。
「魂は永遠であるのに、あなた方は学びもせず、また生まれ出ようともしない。肉の耳を塞げ。魂の耳で聞け。内的音楽の、ほんのさわりだけでもふれたなら、魂はその頭をまっすぐに上げて肉体の墓から飛び立つだろう。耳を澄ませてみよ、旋律が聞こえるはずだ。それはさほど遠くはないところから流れてくる - それを耳にすることが赦されていればの話だが」。
聖者達とは、現世に遣わされたイスラーフィールだ。彼らに出逢えば、死者も再びよみがえって新しく道を歩み始める。彼らの声を聞けば、よどんだ魂も肉体の墓場を揺らさずにはおられない。「この声は他のどの声とも違う。死者を生き返らせるとは、神の声に違いない」、死衣の裾を揺らしながら、呼び覚まされた者達が言う -
「我らは遠い昔に死んだはず、肉体もとうに朽ち果てたはず。それが、これ、この通り。神のお呼びを聞いて姿を現すこととなった」。神のお呼びというもの、隠されたものであれ顕されたものであれ、それは神の御胸からじかに下される。ちょうどマリアが、そのようにして神の御胸から(子を)授けられたように。
生きながらにして死した人々よ。その肌の下には、生きながらにして朽ちた心臓と死した血が流れる人々よ。虚無から還れ、あなた方の真の友である神の声を聞け!あなた方は皆、生まれながらにして王の中の王を友に持つ者。あなた方に、真の友の声が聞こえないはずがない。時として、それは神のしもべの喉を通して顕されることもある。絶対に、本当に、あなた方が聞くべき召喚の声というものがある。耳を澄ませるのだ。
御方はしもべに言いたもう、「われは汝の舌となり、汝の目となろう。われは汝の意識となろう、汝の喜びとなり、汝の怒りとなろう。汝、われを通して聞き、われを通して見よ」。行って探せ、そのような人を。あなた方の意識を、御方の顕現の場とするためにも。
- さて、「御方の顕現の場」としての意識とは、一体どのようなものだろうか。それを正しく識別することは可能だろうか。当惑するのはごく自然なことだ。御方に属する、ということは、すなわち御方の秘密になる、ということだ。主客については問うてはならぬ。古語にもある通りだ、「われは汝のもの、汝はわれのもの」 -
われは汝なり。汝はわれなり
時として『われ』は『汝』となり
また時として『汝』は『われ』となる
地上を照らす太陽のように
全てを白日のもとにさらけ出す
壁龕にそなえられたランプの光が
暗がりを明るく照らし出すように
わが言葉をもってすれば
この世に解き明かせぬ困難も障害もない
天空を走る太陽の、光が届かぬ暗闇であってさえも
わが息をもってすれば
たちまちのうちに夜明けは訪れ
澄んだ明るさが取り戻される
- アダムに対し、御方は御自らものごとの名前すなわち知識を示したもう。そしてその末裔には、アダムを通して知識を示したもう。知識という光、あなた方はこれをアダムを通して受け取り、また御方からも受け取る。ぶどう酒を、樽から受け取るか、ひさごから受け取るか。ひさごに注がれたぶどう酒も、元を辿れば同じ樽。ムスタファ(ムハンマド)は言った、「私とじかに出会った者達は幸福である。彼らに出会った者達も、幸福である」。
ろうそくの灯されたランプを見れば、誰でも明かりの原因はろうそくであると理解するだろう。百のランプに次々と明かりを灯せば、最後のランプに灯された明かりは、最初の明かりと同一だ。光はランプが放つのではない、灯されたろうそくが放つのだ。いつでも、最も新しい光を受け取れ、魂という名のろうそくよ。ランプが百あろうとも誤るな、光そのものを受け取れ。
生きた光を受け取れ、魂という名のろうそくよ。すでにこの世を遠く離れて先立った、過去の幻の中に探すな。今、ここ、目の前にある光を受け取れ。
預言者は申された、「これが時代というものだろうか、近頃は神の吐息を感じる機会に事欠かない。あなた方も耳をよく澄ませておきなさい、神の吐息を、ひとつたりとも聞き逃がすことのないように」。
神の吐息、それは途切れることなく巡りめぐってくる。あなた方のすぐ傍まで来て、ゆっくりと周囲を漂う。誰であれ、欲する人には生命を与え、それからまた去って行く。ひとつの吐息が去れば、また次の吐息が届けられる。わが友人達よ、見のがすことのないように。注意深く、届けられた御方の吐息を受け取れ。
それは楽園の中心にある生命の樹、トゥーバの樹そのもののよう。とこしえにみずみずしく、自由に動く。だがその動きはけもののそれ、地上のそれとは明らかに異なる。もしもそれが、空と大地に下されようものなら、彼らは怯えて姿も色も失い、怖れのあまり水のごとく流れて落ちるだろう。
途絶えることのないこの吐息、この神からの贈り物に、空も大地もただ狼狽し恐怖するより他はない。だが、詠め、「われらは天と地に信託を示してやったが、これらは信託を担うことを断った、信託に畏れを抱いたのである2」。山々を、不動とせしめているのは何か。あの不動の中心にあるものは「それ」を担うことへの恐怖に他ならぬ。だが人間は違う。人間のみが、天と地のように縮みあがることもなく、尻込みすることもなく「それ」を、神の吐息を、信託を担ったのだ。
送り届けられる神の吐息は、激しく燃え盛る魂の炎を鎮めもする。霊的には死んだも同然の、動くことも感ずることもしない魂に、再び命を与えもする。 - さて、なぜ私がこのような話をしているのか。昨晩のことだ、私の許へまさしく「それ」が送り届けられた。私が知る「それ」とは明らかに異なる見かけ、異なる方法だった。そのため、私の中にあるほんの一かけらほどの何かが、私の中へと「それ」が通ずる道を塞いでしまった。
ほんの一かけらのちっぽけなルクマが、私をルクマーンの道から遠ざけたのだ。3綴りは似ていても、何という隔たりか。私が欲するのはルクマーンだ、ルクマではない!ほんの一かけら、ほんの一口が大事の元、とはまさしくこのこと。それはルクマーンのかかとに刺さったとげのよう、ほんの小さなとげであっても、抜いてしまわぬ限りは歩みの邪魔となる。
とげなど無い、と思うかも知れない。だが目に見えるもの、影を作るものばかりがとげではない。「ほんの一かけら」「ほんの一口」の欲を放し飼いにすることに慣れてしまっていては、とげを見分ける判断の力すら、残されているかどうか怪しいものではないか。
欲望は人間を不注意にする。欲望は人間を散漫にし、識別を鈍らせる。甘いなつめやしの実と思って無造作に口に放り込むそれが、実はとげであることに気付かない。「ほんの一口」を、正直に数え上げてみよう。私達が、一体どれほど衝動的であることか、どれほど貪欲であることか。
ルクマーンの精神は、まるで神の薔薇園のようだ。だがそれでいて、その精神のかかとはとげに傷つけられ苦しめられる。何故だろうか?痛みや苦しみ、それはとげを食むラクダのようだ。私達をこちらからあちらへと運んでゆく。我らがムスタファ(ムハンマド)も、このラクダにまたがって旅をした、彼の後に続く者達もまた。ラクダよ、ラクダよ。私を、その背に乗せて連れて行っておくれ。薔薇の花を、山と積んで運んでおくれ。芳香の届くところならば何処であっても、百も二百も薔薇園が育つことだろう。
好きこのんで、とげの茂みに鼻先を突っ込む者があるだろうか、砂の中に、顔を埋める者があるだろうか。おまえが探し求めるものは、おまえの背中に既に乗っているというのに。不毛の土地に、どうして薔薇が咲くだろうか。それはどこか遠くにあるものでもなければ、外側にあるものでもない。
あちらからこちらへ、探し求めてさまよう人よ。一体、あとどれくらい迷えばそれを知るだろうか。一体、あとどれくらい問い続けるのだろうか、「薔薇園はどこにあるのか?」と。あなた方の目を曇らせるもの、それはあなた方自身の目の中にある。自分のかかとに刺さったとげを抜いてしまわない限り、自分の目の塵を取り除かぬ限り、あなた方はいつまでもさまよい続ける、「どこにあるのか?」と。
ムスタファ(ムハンマド)がこの世に生まれ落ちたのは、私達に調和をもたらすためである。彼が優しく妻に語りかける声が聞こえる、「フマイラ4よ、黙っていないで話しておくれ」。フマイラよ、戦馬のひずめに打ち付ける馬蹄という馬蹄をかき集め、愛という名の炎の中に投げ込んでおくれ。全てを燃やしてしまっておくれ。馬蹄は愛の炎に燃やされて、輝くルビーになるだろう。きらきら光る赤い石は、貴女の髪に飾ればきっととても似合うだろう。
さて、この「フマイラ」という語、これは女性形だ。アラブの人々はこの語と同じく、「魂」という語を女性形で言い表す。だが魂という語が女性形であることと、魂の本質そのものにはいささかの関わりも存在しない。魂に、男女の別など一切ない。魂の尊さとは、女性性も男性性も超えたところにある。それは熱くもなければ冷たくもなく、乾いてもいなければ湿ってもいない。
魂を成長させる糧はパンではない。肉体と違って魂は領域に縛られるということがない、時間や空間によって姿かたちを変化させることもない。たとえるならば魂とは、善きものを善きものたらしめ、甘きものを甘きものたらしめる、目には見えない働きのようなもの。これ無くして、善きものは善きものたり得ず、また甘きものも甘きものたり得ない。 - あなた方が、私の言葉に惑わされることなくただ本質を受け取ってくれたら良いのだが。
砂糖を使って菓子をこしらえたとしよう。出来上がった菓子を食べ終えて、また菓子をこしらえて、そうやって繰り返し使い続けているうちに、やがて砂糖はあなた方の手元から消えてなくなってしまう。だが外側の世界に甘いものを探すのではなく、自分自身の内側に甘いものを探してみたならばどうだろうか?
たとえるならば、信仰とはそのようなものだ。自分自身の内側に、砂糖きびの畑を耕すことだ。自分自身の内側に、豊かな畑を持つ人が、砂糖に不自由することなど二度と起こりはしなくなる。自分自身が、砂糖のようである人が、甘い菓子に不自由することなど二度と起こりはしなくなる。
愛する者が神と聖餐を共にするとき、愛する者は自分自身をぶどう酒に変化せしめる。理性は消失し、酩酊そのものとなってしまう。人の理性には限界があり、それは人と愛との隔てにしかならない。個々人の理性は全的な知から切り離され、知るのは部分のみであり、愛を怖れ、愛を否認する。だが、愛を怖れて避けようと試みる理性の働きそのものが、同時に愛の存在を暴露してしまう。理性が、いかに愛に負うところが大きいのかを知らしめてしまう。
理性は賢く、またよく知ってもいる。だがおのれを殺すことが出来ない。おのれを捨てることが出来ない。天使達を見よ、もしも彼らがおのれを滅することなくおのれにしがみつき続けるようならば、それは天使ではなく堕天した悪魔である。
個々人の理性は、その言葉、その行為のみを見れば良き友人のように思えるかも知れない。しかし言葉や行為といった外側の営みではなく、内側の営みにおいて、理性は全く重要ではない。そうだ、理性は全く重要ではない。おのれを消し去ることが理性には出来ないからだ。有から無へと還ろうとはしないからだ。喜びと共に、あるがままに還ろうとは決してしないからだ。やがていやも応もなく死が訪れ、そこで初めて、しぶしぶ立ち去ってゆく。
理性ではなく、魂をこそ導きとせよ。魂は全的な知とつながっている。
魂は完成へと至る道を知っており、その呼び声は完成への導きである。
- ムスタファ(ムハンマド)が、旅の途上にあった時のこと。彼は言った、「ビラール5よ、私達を励ましてくれ。おまえの声は、私達を元気にしてくれる。遠慮せず、もっと大きな声で聞かせておくれ。おまえのなめらかな声には、蜜がたっぷり入って力強い。おまえの声、おまえの呼吸を通して、私にはおまえの心が見える - おまえの心はなんと広いのだろう!そして中心には、かつてアダムがおそるおそる(神から)受け取ったのと同じ吐息がある。才知ある楽園の住人達を魅了し、ふぬけにさせてしまったのと同じ吐息がある」。
ビラールの美しい声にムスタファは感じ入り、すっかり我を忘れた。神の配慮であっただろうか、その夜は、祈りの方がそっと彼のそばを離れた。祝福に満ちた眠りに包まれ、時間は夜明けの祈りを通り過ぎ、やがて昼にさしかかる頃まで、彼は一度も起き上がることはなかった。だが彼の体が眠っている間に、彼の魂は、誰に邪魔されることもなく愛する花嫁の手を取り接吻し、花嫁の顔を覆うヴェイルを取り去って、その光をじかに見るという栄誉を授かっていたのだ。
- そうとも。私は今、確かに神を、御方を「花嫁」と言い表した。だが一体、そのことに何の障りがあるというのか。愛も魂も、ふたつながらにヴェイルに覆われ隠されていることに違いは無いではないか。見かけ倒しの道徳をもって、ものも知らずに猥雑だの不埒だのとやかましい。
私は今まで、もう長いこと沈黙していた。御方のお怒りを畏れたからだ。もしも御方が私に怒りたもうたならば、おまえが言わずとも御方が御手自ら私の口を塞ぐだろう。これを語り始めたのも、御方が私に言いたもうたからだ、 - 「語れ、わが詩人よ。続けよ、わが詩人よ。語れ、思う存分に語れ、不可視の世界について知らしめよ。それをもって汝の天命を全うせよ」。
過誤は外側に宿らない。常にありとあらゆるものに難癖をつけ、あら探しに明け暮れる者の内側にこそ宿っている。とかくに清浄ぶりたがる者が、真に清浄でなどあるものか。過誤とは、不完全な人間同士の交わりの中に生じるもの。互いに無知な被創造物に過ぎぬのだから、どちらか一方のみが正しく、どちらか一方のみが誤っているということにはならない。
完全なる創造主との交わりの中には、ただ恩寵と平穏が生じるのみ。創造主たる御方との交わりにあっては、背徳もまた叡智となる。だが不完全な我ら人間同士では、背徳を交換したところで生ずるのは害以外の何ものでもない。人間というもの、たったひとつの過誤に目を奪われると、たちまちそれ以前に当然のように受け取っている百もの利益についてはすっかり忘れてしまう。純金も、混ぜ物無しには金貨として使いものにはならないと言うのに。
砂糖きびの畑に出かけて、そこにあるのが砂糖ではなく固い茎ばかりだ、などと言って怒りだすやつがあるか。固い茎には代価は払わぬ、甘い蜜だけを秤に乗せろ、などと言うやつがあるか。体あっての魂、魂あっての体だ。「魂の清浄こそ肝要。その魂が清浄であればあるほど、その体もまた清浄である」と、神秘道の偉大な先人達が異口同音に我らに伝えているのは、酔狂でもなければ戯れ言でもない。
見よ、彼らの言葉、魂、そして体の、その純粋な在りようを。はばかることなく神の愛にすがるその在りようを。彼らはほんのわずかな傷跡も、また差し障りも残さずにこの世を去っていった。魂の声を聞け。魂で声を聞け。我らの偉大な先人達に敵意を抱かせるのは、魂ではなく体の声だ。
チェスや双六遊びであれば、体の声を聞くのも一興。だが遊戯は遊戯に過ぎぬ。体はやがて大地に還り、大地そのものとなるだろう。魂はやがてかの海へ還り、透明な塩に結晶する。塩のうち最も洗練された塩、それはムハンマドの魂の塩だ。ありとあらゆる塩のうち最も雄弁、最も良き塩。その塩を使えば、どのような肉でも極上の一品に調理される塩 -
ハディースとはまさしくそのような塩だ。ハディースという名のこの塩、これこそは彼が我らに残した財産。この塩を継ぐ者達が、あなた方の生きる今を共に生きている。あなた方には、塩を継ぐ者達を探し出すことが出来るだろうか?探せ、行って塩を継ぐ者達を探せ!
魂の塩を継ぐ者はあなた方のすぐ傍に、あなた方の目の前に座している。 - しかし実際のところ、「目の前」とは一体どこを指すのだろうか?魂の塩を継ぐ者は、あなた方の正面に座している。しかし「正面」とは一体どこを指すのだろうか?私達は魂の話をしていたのだ。
もしもあなた方が、「前」と言えばこちら、「後ろ」と言えばこちら、などと何の疑いもなく考えているようなら、魂を忘れて身体に囚われ過ぎている、ということでもある。「下」も「上」も、「前」も「後ろ」も、それは体に関わる属性である。魂の、輝ける本質とは方角や空間に制限されるものではない。我らが王の、まじりけのない光もてあなた方の内側にある視野をひらけ。注意深くあれ、空想をもてあそぶようであってはならない。
ごらん、この体を。何とちっぽけなのだろう。このちっぽけな体ひとつに頼り切って、悲しみと喜びの間を行ったり来たり。これでも、ここに「在る」と言えるだろうか?「前」だの「後ろ」だのに縛られたままで、本当にここに「在る」、と、私達は言えるのだろうか?
- 今日は雨が降っている。夜を訪ねて、少し歩くとしようか。雨に濡れながら寄り道するのも悪くはない、ましてや、それが御方からの贈り物ならば。
ある日のこと。ムスタファ(ムハンマド)は墓地に来ていた。運んできた棺の中には、彼の友人が眠っていた。彼は大地に穴を掘り、友人の眠る棺を埋めて墓とし、それから急いで土を被せた。大地の奥深くに、貴重な種を埋めるかのように。貴重な種に、新たな生を与えるかのように。
草や木々ほど、かつて埋葬された者達を思い起こさせるものはない。
大地の下から両の腕を高く伸ばすその姿は、まるで天空の高みを目指すかのよう。
耳を傾けようとさえすれば、誰にでもはっきりと彼らの声が聞こえるだろう。
彼らは、いつでも私達に語りかけている、その声は決して途絶えることがない。
鮮やかな緑色のその舌で、ほっそりと長いその手指で。
彼らは秘密の数々を惜しげもなく私達に伝える、大地の誠心を、地球の本心を。
水面を泳ぐ鴨の群れ。
勢いよく水の中に潜ったかと思えば、再び水面へと戻ってくる。
反射して光る水の飛沫。
鴨が去れば、水辺はたちまち華やかな孔雀に彩られる。
やがて冬が巡ってくる。
さっきまで居たはずの孔雀はもう居ない。
動くものがあると思えば、あれは喪に服したカラスの群れ。
冬の間中、御方は「それ」を氷と雪もて封じたもう。
氷と雪に封じられた「それ」は、カラスの姿を身にまとっている -
やがて再びの春が訪れ、孔雀の姿を身にまとうその日まで。
御方は冬もて全てに死をもたらしたもう。
御方は春もて全てに生をもたらしたもう。
信じぬ人々は言う、
「冬も春も、放っておけばひとりでに巡り続けるもの」と。
「季節の移り変わりに、何の理由がいるものか」
「慈しみ深い主のみわざとやらに、説明を求める必要などありはしない」
- だが信じぬ人々が何を言おうとも、
御方を友とする人々の心の庭には、冬と言わず春と言わず、
甘い芳香を漂わせる花々がいつでも咲き乱れている。
信じぬ人々が何を言おうとも、
薔薇の香りは世界という世界をめぐりめぐる。
香りの届けられるところ、
不信と疑念の重いヴェイルが引き裂かれ内側から真理があらわになる。
信じぬ人々が薔薇の香りに出会っても、
彼らが見せる反応は甲虫のそれと大差がない。
真理を告げるドラムが鳴り響こうとも、
ささやか過ぎる彼らの知覚では捉えることも出来ない。
理解出来ないものを、「理解出来ない」、と、
知ることこそが理解への一歩だというのに。
彼らは理解することそれ自体には専念せずに、
あたかも理解しているかのように装うことに専念する。
次から次へと、「理解している」という名の衣裳を偽造する。
そんなことだから、そら、一たび稲妻が空を切り裂けば、
驚いて目をつむり縮こまる以外に他はない。
とどろく雷音に、衣裳はたちまち剥がれ落ちる。
彼らは、稲妻の光を見ずに目を閉じる。
それこそが、「理解する」ということへの彼らの態度なのだ。
彼らの目は真理を避け、恐怖に支配を明け渡す。
こうした人々にとっては真理を求めるなど二の次で、
どこかに安全な逃げ場はないかとそればかりを求める。
- さて、預言者は墓地から戻ると「シッディーカ」6の許へ行った。そして木々の緑を見ながら思ったこと、心に浮かんだことなどを彼女に打ち明けた。ところがシッディーカは彼をひとめ見るなり、驚いた様子で彼に駆け寄り、その手で彼の頬を撫でた。それから彼のターバンを、額を、髪を撫で、彼の腕、胸元、襟の中にまで手を入れて探った。
「待て、ちょっと待て」、預言者は言った。「何をそんなに慌てているのやら。一体、何を探しているの?」。彼女は言った、「私は今日、雲が雨を降らせているのを見たのよ。だからあなたも、あなたの着ているものも、雨に濡れてお戻りになるだろうと思っていたのに。あなたときたら、ちっとも濡れていないんですもの。私の方こそお尋ねしたいわ、これは一体どういうことかしら!」。
「それはそれは」、預言者は言った。「ところで、ぐるぐる巻きになって君の頭の上に乗っかっているそれ。それは一体何だろうね」。彼女は言った、「ああ、これ?あなたの肩掛けよ。あなたがお留守の間、私の髪を覆うのにちょっとお借りしていたの」。彼は言った、「それだよ、かわいい娘さん -
君の心は、本当に澄んでいるのだね。それで神は特別に、君の澄んだ目に、秘密の雨を見せたもうたのだね。私の心とは裏腹に、今日の空はよく晴れていた。だから君が見たという雨は、あの空、あの雲が降らせた雨じゃない。 - 分かるかい?あの空、あの雲とは違う別の空、別の雲、別の雨というものがあるのだよ」。
ハキーム7が、このような言葉を遺している。
この世の空よりもなお高いところに、魂の空が広がっている。
意志の向かうその先に、低地があり高地があり、
さらにその先には高くそびえ立つ山々が、果てしない海原がある。
目には見えないあちらの世界に、こちらとは別の雲があり、こちらとは別の雨が降る。
こちらとは別の水があり、こちらとは別の空には、こちらとは別の太陽が巡っている。
その光景を目にすることが出来るのは、選び抜かれた御方の友のみ。
御方の友以外の人々は、見るどころか知る由もない。
何故ならば、「彼らはあらたな創造のことなど信用していないのだ8」。
幾通りかの雨がある。
滋養に満ちた恵みの雨もあれば、もたらすものはただ衰微のみという雨もある。
春に降る雨は素晴らしい、庭に多くの恩恵をもたらしてくれる。
だが秋に降る雨は、流行り病のように庭を苦しめ喘がせる。
秋に降る雨に庭は患い、その顔は色を失ってみるみる青ざめていく。
春に降る雨がそっと大事に見守り、庭を慈しみ育て上げるのとはまるで裏腹に。
雨だけではない。風も、太陽も、同じように変化する。
様々に変化するごとに、こちらにも様々な変化が生じる。
日々、私達はどのような変化を目にしているだろうか?
ひとつひとつ、見つけ出して数え上げてみるだけでも随分と賢くなれる。
目には見えないあちらの世界にも、
様々な変化があり、様々な相違があるのはこちらの世界と同様だ。
利益もあれば損失もある。
害になるものもあれば、害にならぬものもある。
ハキームのような、聖者と呼ばれる人々の呼気というものは、
あちらの世界における春の訪れにも通じるものが含まれている。
こちらの世界にいる私達の、心と魂の庭に緑を育む。
彼らの呼気、彼らの言葉は、春に降る雨が木々を育むのと同じ働きをする。
そのような呼気、そのような言葉に、巡り会うことができるというのはとても幸福なことだ。
まるで沙漠の砂のように、立ち枯れて乾ききった木々ばかりが並ぶ庭もある。
吹きすさぶ風に、その生命を吸い上げられてしまったのだろうか?
いやいや、風のせいではない、風を責めるにはあたらない。
風には風の役割がある、風はそれを果たしただけだ。
吹きすさぶのが風の役目、こちらからあちらへと去って行っただけのこと。
だが風に吹かれた後で手入れをするのも、手入れを怠り荒れるがままにするのも、
庭の持ち主の選択ひとつ、魂についての考えひとつにかかっているのである。
閑話休題:預言者の伝承『春にありて来るべき冬に備えよ』に寄せて
「春の肌寒い日の過ごし方」について、預言者はこのように語ったと伝えられている -
「我が友人達よ。肌寒いからといって、春だというのにそうそう衣を厚く重ねて縮こまるものではない。春の嵐の、なんと嬉しいものだろう。春の風が私達の魂に、どれほどの恩恵を運んでくれるのか考えてもごらん。木々を見てごらん。彼らにとっての春の雨と同じくらい、春の風は私達にとって喜ばしいものだ。
けれど秋の冷たい風からは、身を守った方が良い。同じ寒さではあっても、それがもたらすものは春と秋とでは全く違う。秋の寒さは、庭を枯らし木々を死なせてしまう」。
- 伝承者達は、これらの言葉を一字一句違えることなく私達に伝える。そして、言葉を伝えたというただそれだけで、自らの役目を果たしたとばかりにすっかり満足しきってしまう。伝承は素晴らしい、だが伝承主義者は考えものだ。彼らは往々にして、言葉に拘泥するばかりで魂について考えようともしないし、また知ろうともしない。彼らは山をただ見ているだけで、山の内側にある鉱脈を探そうとはしない。
神の風景にあっては、「秋」とは、自我と自我に備わる利己的な欲望を指している。これに反して「春」とは、理性と、上昇する魂の意志を指している。春の本質は永遠の芽吹き、永遠の生命にある。山の内側に鉱脈が隠されているように、あなた方の内側にも鉱脈が、賢い知性のかけらが隠されている。こちらの世界にあって私やあなた方がすべきことは、完成された知性の持ち主を探すことだ。完成された知性を通して、一片のかけらであったあなた方の知性も完成する。完成された全的な知性は、あなた方の御し難い自我の首に嵌められた首輪となるだろう。
- これがかの伝承の精髄、かの伝承の解釈である。春の風とはすなわち神の吐息、聖なる呼気そのもの。春の冷たい風は、一枚の葉である私達ひとりひとりをそよがせる。そよぐ毎に私達ひとりひとりが、新たないのちを吹き込まれている。
聖者達の言葉を、耳を塞がずにじっくりと聞いてみることだ。彼らの言葉は、時として優しく、また時として激しくもある。いずれにせよ、私やあなた方の信仰を助けるものであることには違いがない。彼らの言葉が暖かければ、その暖かさを楽しめば良い。冷たければ、その冷たさを楽しめば良い。そのようにして魂が、暖かさ、冷たさに慣れ親しむうちに、体もまた、暑さ、寒さに慣れ親しむようになる。地獄の炎に焙られてさえ、平静を保てるようになるだろう。
御方の送り届ける「暑さ」も「寒さ」も、実際のところはそのどちらもが「春」なのだ。生命にとっては、どちらもが新たな季節、新たな創造の訪れであり、どちらもが御方を根源とし、どちらもが知性と誠心、友愛の糧となることには違いがない。
魂の庭は常に御方と共に在る。その木々が御方によって育まれる限り、心の海は次から次へと、尽きることのない真珠で満たされることだろう。賢い人は魂の庭の、ほんの一枚の葉の揺らぎをも見逃さぬことだろう。そしてほんの一枚でも葉が枯れて落ちれば、賢い人の心の海は、千の悲しみで満たされることだろう。
閑話休題:アーイシャとムスタファの語らい(続)
- 預言者の答えを聞いて、シッディーカは言った。「愛する人よ、選りすぐりの花のような人よ。お話を続けて下さい。今日、私が見た雨について詳しく教えて下さい。あれは慈悲の雨だったのかしら、悲しみを洗い流す雨だったのかしら。それとも、神罰の雨だったのかしら、お怒りに触れてしまったのかしら。あれは春に降る喜びの雨だったの?それとも、秋に降る悲しみの雨だったの?」。「今日、君が見た雨は」、預言者は言った -
「あれは悲しみの炎を鎮めるための雨。アダムの末裔達に運命付けられた悲しみを、和らげるために降らしたもう雨 - たとえそれが運命といえども、この悲しみの炎の中に、人はいつまでも留まり続けてはいられない。そんなことをしていては、もっと多くの悲しみ、もっと多くの痛みが引き起こされてしまうだろう。そうなればこちらの世界も、あっと言う間に荒れ果てて寂れてしまう - それで雨が降るのだよ。悲しみの炎の中に留まり続けて、火の粉をまき散らすことのないように、自分勝手に振る舞うことのないように」。
ああ、愛する友人達よ!神が私達に与えたもうたこの忘却、忘却こそはこちらの世界を支える柱。こちらの世界にあっては、真の知性とは、すなわち柱を穿つ苦悩の種だ。魂の言葉など、災厄をもたらす呪いの言葉と取られても致し方なかろう。真の知性は、こちらではなくあちらの世界に属する柱。優れていれば優れているほど、こちらの世界は霞に覆われて遠ざかってゆく。
知恵は陽の光のように暖める。貪欲は氷のように冷たい。知性とは新鮮な水のようなもの。ひたして潤せば、こちらの世界など塵や埃のように洗い流されてしまう。あちらの世界からほんの少しばかり知の水がしたたり落ちれば、こちらの世界の貪欲も嫉妬も、大声で吠えたり喚いたりすることも無くなろう。雨となって降り注げば、美徳と悪徳とを分かつ隔たりさえもきれいさっぱり洗い流されることだろう。
この種の話は尽きることがない。だが散歩もそろそろこれくらいで切り上げ時のようだ。 - そろそろ、竪琴を奏でるあの男、吟遊詩人の話に戻るとしよう。
かの吟遊詩人、彼が歌えば世界は恍惚に満ちた。その声を耳にした者は、次から次へと浮かんでは消える摩訶不思議な夢を見た。彼の歌を聞けば、心はたちまち小鳥となって翼をはためかせた。誰であれ平静で居られはしなかった。
- 月日は規則正しく流れてゆく。もちろん、吟遊詩人の上にも。やがて彼は年老いた。人々を熱狂させたあの鷹はどこへ行ってしまったのか?今はとぼとぼと泥の中を歩き回り、くちばしを引きずって羽虫を喰うヒヨがいるだけ。彼の背中は酒壺の注ぎ口のように曲がった。長く伸びた眉が、尻がいをつなぐ紐のように垂れ下がって両目を覆い隠した。清涼そのものであった彼の声、聞く者の魂を魅了したあの声もしわがれ、誰にとっても価値の無い代物と成り果てた。
かつて彼の歌には、金星すらも嫉妬したものだった。だが今や、それは年老いたロバのいななきでしかなかった - しかし実のところ、美しかったものが醜くなるというのは今に始まったことでもなければ、彼に限ったことでもなかった。高いところにある屋根も、いずれ時が経てば崩れ落ちて敷物同然に低くなるもの。
終末に鳴り響くラッパの轟音。これを浴びせられれば、世界の全てが破裂せんばかりになる。ただひとつ、聖者達の、胸の奥から響く声を除いては。彼らの魂は瞬時にして私達の心を酔わせる。目には見えぬあちらの世界から届けられる声によってのみ、こちらの世界の私達は「在る」のだ。
年老いた吟遊詩人は日増しにおとろえ、日々の糧にも事欠くようになった。たった一切れのパンを得るためにさえ、金を借りずには済まされなくなった。彼は言った。「神よ、あなたは私に、長いながい人生をお与えになった。だがそのうちの殆どの時間が、ただただ私を猶予するためだったとは、今の今まで気づかなんだ。私のような下郎に、もったいないほど数多くの祝福を下さっていたことに、今の今まで気づかなんだ。
七十年もの長い間、私は罪にまみれて過ごした。それなのに、あなたは一度たりとも私の手から、あなたの恩寵を取り上げようとはなされなかった。だがそれももうじき終わる。さあ、これで私も無一物の身となった。今日こそは、あなたの御許へ私を召し上げたまえ。どうぞ私をお連れください。あなたのために竪琴を奏でましょう、私はあなたのものだ」。
そうして彼は竪琴を脇に抱え、神を求めてさまよった末に、引き寄せられたかのようにメディナの墓地へと入っていった。墓地の中で、ひとりぼっちの彼は泣き出した。「神よ!」、彼は言った、「竪琴の糸を張り替える金もない。神が絹糸を買うだけの施しを下されたらなあ。こんな音色のままで奏でるのも恥ずかしいことだが、これが今の私には精一杯だ。神よ、お慈悲をもってお見逃しくだされ」。
彼は長いこと竪琴を奏で続けた。そして、それから泣いた。どのくらいそうしていただろうか?いつしか彼は竪琴を枕に、墓石にもたれかかって眠りについた。眠りは、吟遊詩人を遠くへと連れて運んでいった。小鳥は、彼の魂は鳥かごから逃れた。竪琴も、竪琴の持ち主も、魂につられて駆け去っていった。肉体と現世のもたらす苦痛から、純然たる精神の世界へ、広大なる魂の領域へと解き放たれたのだった。
彼の魂は、かつての歌を取り戻して軽やかに歌った。そして言った、「いついつまでも、ずっとここに、ここだけに住まうことが出来たなら!どこまでも果てしなく続くこの平原、咲きこぼれる神秘の色した花々の寝床。この庭、この春に私の魂はすっかり酔わされてしまった。
ここでは『上』も『下』もない。ゆったりと、ただたゆたって旅をするのみだ。甘い菓子を食べたければ、ただ『食べたい』と思うだけ。口を開けたり、歯で噛んだりする必要もない。頭に詰まっていた記憶も思考も、すっかりどこかへ消え去った。あれこれと思いわずらう必要もない。天空の住人達と、遊びたわむれて過ごすとしよう。
目を閉じれば、そこに広がるのは完全無欠の世界だ。摘み取ろうと思うが早いが、あっと言う間に抱えきれないほどの薔薇と香草の花束が私の手の中にある」。彼の魂はまるで水鳥のように、真っ逆さまに蜜の海へと飛び込んだ。蜜は神がヨブに与えた泉のようにあふれた。「これぞ涼しい洗い場と飲み水9」。彼は飲み、洗い流した。つま先から頭のてっぺんまで、染み付いていた苦悩はきれいさっぱりと洗い流され、彼はまるで日の出の太陽が放つ光のように純粋無垢そのものとなった。
- たとえわがマスナヴィーの書が空ほどの大きさであったとしても、これ、この神秘の半分すらも満足に説明することなど出来はしないだろう。この空は高く広く、地は大きく豊かだ。だがそれでいて、私の心は締め付けられたようになる - この空では足りぬ。この地では足りぬ。目を閉じれば広がるあの宇宙、精神が見せるあの宇宙とは比べものにならぬ。私は再び目を開き、自分がいるこの空、この地を見る。私の心は、ばらばらに引き裂かれたようになる。
吟遊詩人が見た風景は、いつであったか、私自身が夢で見た風景だ。果てしなく広がるあの宇宙を、私も飛んだ、誰はばかることなく翼を大きく広げて。ああ、あちらの世界と、あちらの世界への入り口は一体どこにあるのか。それさえはっきりと皆の目に分かってしまえば、誰ひとりとして、一瞬たりともこちらの世界に残りたいなどとは思わないだろう -
そこへ天の命令が下される。「否。吟遊詩人よ、貪ってはならない。汝の足に刺さった棘はすでに洗い流されて抜け落ちた。汝の傷はもはや癒えた。これ以上の逗留は無用だ、今すぐにここから立ち去るが良い」。それを聞いて吟遊詩人の魂は、無言で御方の慈悲と恩寵の衣の裾にしがみついた。そしてそのまま、離れようとはしなかった。
必死の形相でしがみつく吟遊詩人を見て、神はウマルに使いを送りたもうた。眠りという名のその使いが、ウマルの許へ届けられると、ウマルはたちまち目覚めたままではいられなくなってしまった。「これは一体どうしたことか」、驚いてウマルは言った。「こんなことは初めてだ。何やら、これは見えざる世界よりの使者である様子。であれば、何かしらの意味と目的があってのことには違いない」。
抗いきれず、彼は横たわって頭を枕に乗せた。乗せるやいなや、彼は深い眠りの穴に落ちて夢を見た。夢の中で、彼ははっきりと神の声を聞いた。その声を何と形容するべきか。それは「音」そのものの音。咆哮と号泣、ありとあらゆる声の起源、原初の声。真実、声と呼べるものはただこれのみ。これ以外は、単なる振動と残響に過ぎないとさえ思わるほど。
このような声ならば、テュルクの人もクルドの人も、ペルシアの人もアラブの人も、誰であろうとも、耳または口を頼ることなしにたやすく理解するだろう。異なる語を操るテュルクとペルシア、タジクの人が同時に理解する声とは、一体どのようなものだろうか?それは木々や石にも理解出来る声だ。刻一刻、今この瞬間にも、御方の召喚の呼び声が届けられている - 「われはおまえたちの主ではないか10」。
召喚に応えて本質と事象が生起するのを、知ると知らざるとに関わらず、私達は常に見ている。たとえその場に何ひとつ存在せず、応えるものも無かったとしても、不存在が「ここにおります、わが主よ」と応えて存在へと転ずるだろう。 - 私は、先ほど「木々や石も理解する」と言った。これについて、少しばかり語るとしよう。「嘆きの柱」の物語だ。
預言者の、小さな礼拝堂を支える一本の柱があった。やがて時が経つにつれ、礼拝堂を訪れる人々の数も増え、預言者の御顔が見えないと不平を言う者もちらほら出始めた。それで人々は、預言者のための説教壇を作ることにした。説教壇が出来上がり、さて礼拝堂に備えつけようという段になって、一本の柱がどうしても邪魔になることが分かった。
そこで人々は、その柱を取り除くことにした。取り除かれた柱は悲しげにうめいた。預言者からの別離を嘆いて、まるで生きているかのようにうめき声をあげたのだった。預言者は言った、「柱よ、嘆かないでおくれ。汝は何を欲するのか?」。
柱は言った、「預言者よ、ご覧下さい。私の魂が、あなたとのお別れの悲しみのために血を流しているのを。長いこと、私はあなたの礼拝堂を、いや、あなたを支える柱として誇り高く立っておりました。それなのに、今のあなたは私を追い払おうとなさる。私の居場所を取り上げて、説教壇に与えようとなさる」。
「ああ、柱よ。どうしたら良いだろう?」、預言者は言った。「なつめやしの木になるというのはどうだろうか?東からも西からも、大勢の人達が果実を求めて、おまえに会いに来るだろう。それとも、御方に願ってあちらの世界の糸杉になるというのはどうだろうか?そうすれば、おまえは枯れることもなく、未来永劫みずみずしいままで居られるだろう」。
「何だって構いやしないのです」、柱は言った。「どちらでも構いやしないのです。私は欲しいのは、永遠に終わることのない何かです」。柱は立派に言ってみせたのだ、「たかが柱と侮るなかれ」と。
たかが柱と侮るなかれ。小さな礼拝堂の、古びた柱であってさえも希求するところはかくも気高い。私達の目指すところが、この柱の志よりも低いものであってはならぬ。 - 柱の言葉を聞いて、預言者は黙して大地に穴を掘った。そして柱を埋葬した。彼の小さな礼拝堂を支えたこの柱、彼を支えたこの柱が、やがて訪れる終末の日に、預言者や人々と共に復活の瞬間を迎えるように、と。
神のお呼び出しを受けたなら、現世との関わりは後回しになる。これはあなた方もよく知っているはず。そもそも私達は皆がみな、神のお呼び出しあってこそこうしてここにいるのだから。やるべき仕事、果たすべき役割は神からじかに受け取るもの。それらを通じて現世に入場し、やがてそれらを終えたとき、それらを遺して現世から退場してゆく。
だが中には、このような知識、このような秘密の贈り物を受け取り損ねている者もある。目に見えぬ領域について思い巡らせることのない者は、決して信じはしないだろう、柱とて嘆き悲しむこともあるのだ、などとは。
あるいは彼らは、内心では嘲笑しつつ口先では「信じますとも!」と言うだろう。かくてあなた方は、偽善者とそうでない者とを見分けることなど出来ないだろう。全てをご存知である御方が、「在れ!」とお命じにならぬ限り、私の講義に彼らが耳を傾けることなど起こりはせぬ、私の講義など何の役にも立ちはせぬ。
見るがいい、大声で喚き散らすばかりの説教師と、その追従者達の群れを。互いの顔色を覗いて探り合い伺い合い、互いに順応することにのみ没頭する者が、千人も万人もひしめき合っている。そこへたった一人が、新しい思考、新しい知識を持ち込んでみたところで、千人、万人の盲従者達の心は、ただ困惑と疑念に染まるばかりだろう。
彼らには、何ごとかを証明する伎倆などありはしない。彼らは論理に依て思考することをしない。彼らが依て立つところ、彼らの支えというものは、彼ら自身が生み出した虚偽、彼ら自身の妄想に他ならない。
まことに疑念とは、追放されたる者すなわち悪魔の為せる仕事に他ならぬ。真理を見ない者達をつまづかせようと、それぞれの心に一粒づつ、疑念の種を植え付ける。真理を見ない者が、いかに理論を組み立てる真似事をしようが、そのようなものはただの空論、風が吹けばあっと言う間に崩れ去る。
空論の羽を何枚集めようが、出来上がるのは空論の翼に過ぎぬ。そのようなもの、真理を見ずに妄想ばかりを眺めて暮らすあの者共にくれてやれ。そんな翼では飛べるはずもないのだから。そして飛べない翼など、何の役にも立たないのだから。
軍に勝利をもたらす騎士がいる。さて、これが宗教であったならばどうか。宗教における騎士とは、どのような人物を指すだろうか。精神的世界について一見識を持つ者、霊的な視野を備えた者がそれだ。不可視の領域を見渡すことの叶わぬ者達であっても、不可視の領域を鋭く見渡すことが出来る者がいれば、その保護の許に彼らの道を見出し、彼らの道を歩むことが出来るだろう。
だが誰一人として不可視の領域を見渡そうともせず、精神的世界に注意を払わぬ王ばかりが支配するようであれば、精神的世界における道だけではなく、物質的世界における道をもすっかり見失うことだろう。霊的な事柄、精神的世界、不可視の領域。こうしたことから目を背け、注意を払わずにいる者達の目には、実際のところ何も見えてなどいない。何も見えていない者達に、耕して種を蒔き、育て上げ、刈取って市場へ持って行き、取引をして利益を得るということが出来ようか。
あなた方がこれぞ論理的思考、と思うところのそれ、これぞ正しい理論、と思うところのそれ。御方の慈悲と恩寵があればこそ、それはあなた方を支える杖ともなる。それ無しには、乾いた枝がそうであるように、杖はたちまちぽきりと折れてしまうだろう。
あなた方の手にあるそれは何か?あなた方が合理的と呼ぶところのそれ、原因と結果をつなぐ推論、あるいは証明。あるいは存在の理由。ふむ。それで、一体どこからどのようにして、あなた方はそれを手に入れたというのか?元を辿ればそれらは何もかも、全てを見通される御方、全てをご存知の御方、ただおひとつの御方から下されたのではなかったか?
そしてそもそも、それは全てあなた方への恩寵として下されたものであったのに。だがあなた方は、それらを道を歩むための導きの杖としてではなく、武器として手に握る。互いを痛めつけ、傷つけ合い、あまつさえそれを与えたもうた御方に向けて振り回しさえもする。ならばいっそ捨ててしまえ。いっそ粉々に打ち砕いてしまえ、恩寵を恩寵とも思わぬようならば!
御方があなた方に恩寵をもたらしたもうたのは、ひとえにあなた方を御方の傍へと導かんがため。それなのに、少しでも導かれようという者はいないのか。少しでも努めようという者はいないのか。見るべきものを見ぬ人々よ。一体、あなた方は何をしているのか?よく見るがいい。周囲ではない、あなた自身をよく見るがいい。神、と言っても分からぬようであれば、せめて神とあなた方との間に遣わされた預言者達の言葉に、ほんの少しでも耳を傾けてみよ。
預言者達を、神の、御方の衣の裾と思え。衣の裾に、しがみついて離れるな。全てを与えたもう御方を想え。御方に背いたがゆえに、アダムの身に降り掛かった苦しみを想え。モーセと、アハマド(ムハンマド)に起こった奇跡を想え。杖が蛇となり、柱が知恵となった奇跡の意味を想え。杖からは畏怖が生じ、柱からは悲嘆が生じた。聞こえないか、彼らが打ち鳴らす太鼓の音が。聞こえないか、一日に五回、繰り返し彼らが打ち鳴らす太鼓の音が。
私は音を舌でも聞く。これ、この味。宗教は味わうべきものだ。この味覚無しに、精神界の真実を知ることなど出来はしない。この味覚無しに、あの奇跡、この奇跡について語ることほど理知から遠いことはない。この味覚無しに、奇跡にどれほどの意味があろうか。精神の味覚、これを用いてひとたびしっかりと味わうことで知性は理解する。理解すれば、それ以上の証拠も議論も、奇跡も無用となる。
この方法、人跡未踏のこの道。この道を行こうなどとは、説明を尽くしたところで常人には理解し難いことだろう。だがこれを「心で」知る者、「心で」受け入れる者が皆無かと言えば、決してそうではない。祝福された人々にとり、それはたやすいことだ。
海を恐れて、船出を拒む魔物やけだものの類いを見よ。彼らはアダムを恐怖する。羨望と憎悪を胸いっぱいに抱えて、住み慣れているというだけの理由で、はるか遠くの小島にしがみつく。賢い者なら、果たして真に不合理なのがどちらであるかを知るだろう。
預言者達の奇跡を恐怖して、彼らは砂の下に潜り頭を隠す。それで彼らは、草の緑を知ることもない。地面にこすりつけるように、ただただ頭を下げる。そのように振る舞いさえすれば、ムスリムらしく装えるだろうと考えている。外面ばかりを気にする者達。評判ばかりを気にする者達。あなた方には、彼ら偽善者を見抜けはしないだろう。何しろ彼らは、欺くことにかけては人一倍の努力を怠りはしないのだから。
まるで贋金作りのよう。熱心に銀を磨いて偽りの金色した塗料を塗りたくり、表面にはそれらしく王の名を刻み込んで仕上げする。表向きには、彼らの言葉は神の不変を語り、神の一性を語っているかのように聞こえるだろう。だが彼らの言葉は、小麦に紛れ込んだ毒麦のように、内側からパンを台無しにしてしまう。
哲学者達は臓腑を持たぬ。あれらは空っぽだ。胃の腑を持たぬ。腹の底が抜けている、語という語を、しっかりと噛み砕いて消化することも出来ぬ。それでは勇気も、度胸もわき起こるはずがない。だから真の宗教を目の前にして、それについて語る言葉のひとつも持ち合わせていない。ただ沈黙する他にはない。一言でも口にすれば、彼らを支える合理がたちまち不合理に陥ると知っているのだ。
手も足も、精神の働きなしに勝手に動いたりはしない。彼らの精神が何を言おうが、彼らが何と言い訳をしようが、それらはただ彼らの命ずるままに動いているに過ぎぬ。彼らが疑念を抱けば抱くほど、彼らの舌が、手が、足が、彼らに代わって証言する。彼らが隠そうとすればするほど、彼らの舌が、手が、足が、彼らに代わって雄弁に語る。
奇跡とは何か。奇跡が起こると、何が起こるのか。ここでひとつ、アブー・ジャフルの眼前で起きた奇跡について語っておくとしよう。アブー・ジャフルは、長年の預言者の敵であった。そのアブー・ジャフルが、預言者の許へやって来た。その手には、ひと掴みの砂利が握られていた。
「アハマド(ムハンマド)よ」、彼は言った、「言え、これは何か。早く答えてみろ。おまえが本当に預言者ならば答えられるはずだ。わしの握りこぶしの中に隠されているものなぞお見通しだろう。隠された天国の秘密ですら、ご存知のはずなのだからな」。
「一体、どうすればあなたのお気に召すだろうか?」、預言者は言った。「あなたが隠しているそれについて、私が答えればあなたは納得するのだろうか、それとも隠しているそれが、直接答えた方が良いだろうか」。
アブー・ジャフルは言った。「それはもちろん、二番目の方がすごいに決まっている」。「その通り」、預言者は言った。「だがそのようなこととは別に、神はあなたが思うよりもはるかに偉大であられる」。預言者がそう言うなり、閉じられたアブー・ジャフルのこぶしの中で、砂利が口々に信仰の告白を唱え始めた - 「神ハ無シ」。「唯一ノ御方ヲ除イテ神ハ無シ」。それはまるで連ねた真珠のように鳴った、「あはまどハ御方ノ使徒ナリ」。
それを聞いたアブー・ジャフルは、腹立ち紛れに掴んでいた砂利を力まかせに床に叩き付けた。そして訪れた時よりも、更に怒りに満ち満ちて立ち去って行った。
しまった、この辺で道を引き返そう。早く吟遊詩人のところへ戻らねば。必死になって口をつぐみ、こちらの長話に付き合いつつ出番を待っておったようだが、そろそろ限界だ。顔色も青ざめぐったりとしている。これはいけない。急いで物語の仕上げに取りかかろう。どこまで話しただろうか?そう、御方の声がウマルに届いたところまでであった -
「ウマルよ、ウマルよ。われらのしもべを一人、貧窮から救ってやってはくれまいか。われらにとり、あれは大切なしもべだ。あれの言葉も意図も、われらは長いことこよなく愛でた。それなのに、現世にあって生きながら墓場の他に身を寄せるところも無いとは。あれは貴重な者、価値ある者。尊敬されるべき者が、自らを貶めるようなことがあってはならぬ。ウマルよ、急げ。
万人の公庫を用いよ。七百ディナルもあれば事足りる。その金を持って、墓場にいるあの者の許へ行け。そしてこう伝えよ、『あなたは神に選ばれた者。あなたは神から我らへの贈り物。あなたが我らに与えたものに比べれば、代価としてはほど遠いが、どうかこれを受け取って下さい。この金を納めて下さい。あなたの竪琴の、絹糸を購って下さい。そして再び、我らの許へ戻って下さい』、と」。
ウマルは畏怖の念を抱いてそれを聞いた。そして声が止むなり飛び起き、命じられた通りに行なおうと、急いで身支度を整えた。声が伝える通りに、金を入れた袋を脇に抱えて、ウマルは墓場へと急いだ。そして「大切なしもべ」と呼ばれた人物を探して、墓石のあちらからこちらを見てまわった。
長い時間をかけて、彼は墓場を巡りめぐったが、それらしい人物は見当たらない。そこには、ただ貧しくみすぼらしい老人が一人いるだけだった。ウマルはひとりごちた。「まさかこの老人ではあるまい」。それからもう一巡、彼は墓場の中を歩いた。だんだんと疲れてきた。しかしそれでも、そこにはあの老人以外に誰もいなかった。
彼は考えた。「神は確かに『大切なしもべ』と申された。『貴重な者、価値ある者、尊敬されるべき者』とも。だがここにいるのは、老いて尾羽打ち枯らした吟遊詩人だ。まさか彼が、神に選ばれたしもべだということなのだろうか?そんな馬鹿な!考えられぬ。信じられぬ。しかしここには、確かに彼しかいないのだ。御方よ、これは一体どういうことか。あなたの謎かけには、いつもいつも驚かされるばかりだ!」。
砂漠で狩りをするライオンのように、もう一度、もう一度、と、彼は墓場の中をうろついて探した。そしてとうとう、墓場には彼と、あの老人以外には誰もいないことを認めざるをえなくなった。彼は言った、「明るく照り映えるろうそくも、暗闇の中にあってこそ。惑いの中にあってこそ、心の眼を以て見極めねば」。彼はそっと老人の傍へと近づいた。そしておそるおそる、彼の隣に座った。
静かに、注意深くふるまうつもりが、ウマルはついつい大きなくしゃみをひとつ飛ばしてしまった。墓石にもたれかかって眠っていた老人が、驚いて眼を覚ました。老人はウマルの姿を見て、更に驚いて息をのんだ。今すぐにここから立ち去らねば。そうは思うのだが、恐怖のあまり体はふるえるばかりで思う通りにならぬ。「ああ、神様!どうかあなたのご加護を!」彼は心の中で祈った。「立派な身なりの屈強なお役人が、私を引っ立てにやって来ました。どうか憐れんでください、この年老いた吟遊詩人を、どうかどうかお助け下さい、神よ!」。
ウマルには、もちろん吟遊詩人の心の祈りなど聞こえはしない。だが彼は、老人の表情に狼狽を見た。それから、その顔に深く刻まれた羞恥と、畏怖とを見た。またその顔色が、ひどく悪いことも見てとれた。ウマルは言った。「大丈夫ですから、どうか落ち着いて下さい。恐がらせてしまったのなら謝ります。逃げないで下さい、私は神に命じられて、吉報を届けるためにあなたの許へ来たのです。
あなたについての褒め言葉を、神から聞かされましたよ。それはもう、沢山の褒め言葉を。こうして正面からあなたを見て、このウマルにもやっと合点がいきました。素晴らしきお方よ、私の隣に座っていて下さい、どうか離れないで下さい。言ったでしょう、神に命じられてここへ来たのだと。あなたに伝えなくてはならないことがあるのです。どうか耳を貸して下さい。
神からお預かりした伝言です。今のあなたの尽きない苦悩を、果てない不幸を取り除かなくてはならぬ、との仰せです。そのために、ここに少しばかりの金を用意しました。これで竪琴の絹糸を買い、それが済んだら再びここへ戻るように、と」。年老いた吟遊詩人はこれを聞くと、体の震えはますます激しく、止まらなくなってしまった。震えを押さえようと、彼は自分自身を抱きしめようとしたものの、震えるその手は、身につけていた衣をたちまち引き裂いてしまった。
彼は号泣した。「神よ!比類なき御方よ!」、今や吟遊詩人は、羞恥と悲哀のあまり溶けて流れ出さんばかりだった。「この期に及んで、地上の王の施しを受けよと仰るか。これ以上の辱めがあろうか」。彼はそれから長いこと泣いていた。涙も枯れ果てた頃に、悲しみの全ても枯れ果てた。彼は立ち上がり、やおら竪琴を振り上げると、勢いよく地面に投げつけた。竪琴はばらばらに砕けて飛び散った。
彼は言った。「竪琴よ。おまえは長い間、私と神を隔てる垂れ幕であった。王のすまう頂上へと至る山道で、おまえは山賊のように私を生け捕った。以来七十年、おまえは私の血をすすり飲み続けた。私の顔がこのようにどす黒いのもそのため。落ちぶれて恥多いこの顔を、完璧なる御方の前にさらさねばならなくなったのだ」。
御方よ、お慈悲を!お守り下さい、あなたを信ずる者を!
罪深いままに一生を終えるこの身に、どうかご加護を!
神よ、あなたは私に生を与えたもうた。
しかし生など、あなた無しには何の価値もない - 私の一生とは何だったのか?
息を吸っては吐き、吐いては吸ううちに過ぎた日々。
ある時は高く、またある時は低く、音階から音階へと流され移りゆく日々。
旋律と拍子に気を取られ、どこまででも追いかけた日々。
自分自身の心については、ウルク(イラク)よりもはるか彼方に置き去りにして -
ああ、水のように軽やかに流れてゆくあの響き、あれは短調のジラフガンド。
あれは私の心臓に植え付けられた一粒の種、
私の心臓から全てを吸い上げて、私は死体も同然のようになった。
ああ、二十と四の音の連なりからなる旋律の数々に、
私はのめり込んで離れなかった。
カラヴァンは、日々を積んで私の目の前を過ぎ去って行った。
神よ、私をお守り下さい。
助けて下さい、私があなたから目を逸らさぬように。
つなぎ止めていて下さい、私が、あなた以外の何ものにも頼らないように。
公正も正義も、あなたにのみ求めます。
私を、私自身の手に委ねないで下さい。
私は私を、あなたの御手にのみ委ねたいのです。
私自身よりも、はるかに私に近く、
私自身よりも、はるかに私を知るあなたに。
この『私』ですら、一瞬また一瞬ごとに、
あなたの許から送り届けられて初めてこうしてここに在るもの。
こうして落ちぶれているこの『私』もまた、
あなたの許から送り届けられてここに在る -
ならばあなた以外の助けは望まぬ、あなた以外の財も望まぬ。
誰かが自分のための金貨を数えている時に、
視線を逸らす者などあるだろうか?
視線は、金貨を数える者の手元に注がれるだろう、
それを受け取る自分ではなく。
「ちょっと待って下さい」、ウマルが口を挟んだ。「どうやらあなたの視線は、未だご自分に注がれているようだ。今のあなたの嘆きは、あなたの自意識の為せる業ではないだろうか? - 御方へと至る道において真っ先に求められるのは、まさしくその自意識を捨て去ることなのですよ。
あなたは真面目な方だ。だが真面目さも、行き過ぎれば罪の上にもうひとつの罪を重ねることになってしまう。何故ならそのような真面目さは、過去を思い詰めることから生じるものだから。以前に何が起きたのか、記憶を掘り起こし固執することから生じるものだから」。
過去や未来というものは、非常にやっかいなしろものです。
ひとたび、それらについて考え始めると、
たちまち神と私達を隔てる幕となってしまう -
過去と未来を、二つながらに火にくべて燃やしてしまわねば。
ご覧なさい、あなたときたらまるで葦の固い節のよう、
すっかり身動きが取れなくなっている。
過去だの未来だの、思い詰めても詮無いことに自分を縛りつけているせいだ。
葦笛をご覧なさい、節を取り除いて作られているでしょう?
固い節は、旋律の秘密を分かち合うのにふさわしくない。
葦笛を奏でる者の、唇と触れ合うのにふさわしくない。
神を探し求めようというまさにその時、
人はしばしば『神を探し求めよう』というおのれの自意識に、
がんじがらめに絡めとられてしまう。
だがそのような状態で旅に出たところで、一体何のための旅だろうか。
旅から帰って来た時に、旅に出る前と同じであっては、一体何のための旅だろうか。
自意識を捨ててしまいなさい。
あなたは、すでに知識の半分まではお持ちなのだ。
あなたの祈りは美しい、だが知識を与えたもうた御方に悔悟するのに、
知識をお持ちのあなたがそのようであっては、
知識を持たぬ者、悔悟せぬ者よりも罪深い。
赦しを与えられてなお過去に囚われ、
くどくどと嘆き続けるのは金輪際およしなさい。
今、目の前に与えられた赦しに全身全霊ですがりつきなさい、
ご自分の過去にすがりつくのではなく -
あなたの悔悟は聞き届けられたのだ。
塩辛い涙に別れを告げる時が来たのだ。
さあ、もう泣かないで下さい - 今、ここ、この瞬間に、
あなたの耳に響いているはずの旋律を聞き逃さないためにも。
ファルーク12は、奥義を解き明かして聞かせた。それは神の光を反射する鏡のよう、暗い夜の闇に眠り続けていた老人の、魂を目覚めさせるのには十分な明かりだった。吟遊詩人はもはや、それ以上泣き続けることはしなかった。かと言って、笑い転げるというのでもない。魂が目覚めるとは、そういう事だった。
古い殻を脱ぎ捨てて、彼はすっかり新しく生まれ変わったかのようだ。地から天へ、そして再び地へ戻ってきた吟遊詩人の、混乱の時が終わったのである。探して、探して、探し求めた果ての更にその先に、ついに辿り着いたのだ -
探求の果てには、一体何があるのだろう?それを語る言葉を私は持たない。あなた方の中に、もしもそれを語れる者があるなら、誰でも構わぬ、遠慮は無用だ、ここへ座って、さあ、私の替わりに語ってくれ!
全ての感覚と言語を超越した、更にその先の感覚と言語とはどのようなものだろうか。かの吟遊詩人はそれを味わった。それに没入した。ひとつに統べる御方の美に、今こそ恍惚となって溺れ切った。真に溺れ切った人というのは、救いを求めることすらしない。彼を捉える海以外に、知られたいとも望まない。と、言うよりも、彼と海とを分かつものすら既にない。今や彼は、海そのものになったのである。
一人ひとりの知性などたかが知れている。全てを知ることなど不可能だ。だがそれでも、欲するところを訴え続けることには意味がある。繰り返し、繰り返し、何度でも問い続けることだ。繰り返し、繰り返し、何度でも願い乞い続けることだ。そうしているうちに、やがて知の海の方から、こちらに迎えの波を差し向けてくるだろう。
- さあ、吟遊詩人の物語はここまで。この先、彼が何を見て何を聞き、そして何を味わったのかは、あちら側に隠して幕引きとしよう。紡ぎ出された言葉の数々も、幕が引かれれば再び散り散りになって消える。こうして立ち上がり、衣の裾をさっと払えば、これこの通り。食事の後の、パン屑のよう。払い落とされなかったパンの半分、語られなかった物語の続きは、私達の口の中、というわけだ。
勿体ぶるな、全てを語れ、とな?いやいや。楽しみや喜びを手に入れたいのなら、ただ待っているだけでは駄目だ。賭場に出向いて、身銭を切らずに儲けようなどというのは駄目だ。かの吟遊詩人のように、一度は全てを失うくらいのことはせねばならぬ。霊的な森に分け入るのなら、鷹になって獲物を追い求めねばならぬ。餌をくれ、とねだる雛には到底無理だ。けちけちと小銭を賭けるな、己の魂を賭けろ。そしてひとたび賭けたなら、ためらわずに賽を投げろ!
そろそろ、夜も明けて太陽が昇る。あなた方も私も、太陽のようにありたいものだ。空っぽになってはまた満ちる。刻一刻と、たゆまずに昇り続ける。
存在を照らす太陽よ。我らが魂を照らしてくれ。古ぼけたこの世界に、新しい生を与えてくれ。
我らが魂よ、我らが精神よ。不可視の領域より出よ。古ぼけたこの世界を、水のように流れて清めてくれ。
*1 コーラン55章33・34節。
*2 コーラン33章72節。
*3 「ルクマ」は「一口<ひとくち>」の意。ルクマーンは賢者として高名な人物の名。「アラブのイソップ」とも呼ばれ、『精神的マスナヴィー』にもしばしば登場する。
*4 フマイラとは預言者ムハンマドが妻アーイシャにつけたあだ名、愛称。「赤い髪」というほどの意味。
*5 ビラール ビラール・ビン=ラバーフ・アル=ハバシーとは最初期にイスラムに改宗した預言者の友人の一人。アビシニア生まれの解放黒人奴隷。その美声を預言者ムハンマドに愛され、礼拝の呼びかけをする者(ムアッジン)をつとめた。
*6 シッディーカとは預言者ムハンマドが妻アーイシャにつけたあだ名、愛称。「誠実な女性」という意味。(アーイシャの父のあだ名も「シッディーク」で、こちらは誠実な男性という意味。)
*7 ハキーム サナーイーを指す。サナーイーについては「商人とオウム」註を参照。
*8 コーラン50章15節。
*9 コーラン38章42節。
*10 コーラン7章172節。
*11 コーラン36章82節。
*12 ファルーク 「善悪、正誤を区別する者」の意。ウマルに贈られた称号、呼び名。
「吟遊詩人の物語」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー