مثنوی معنوی - "Mathnawi ye-Manawi" Mawlana Jalal-Din Muhammad al-Balkhi Rumi
index > bookworm > 『精神的マスナヴィー』1巻
「商人とオウム」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー
あるところに商人がいた。商人はオウムを飼っていた。可愛らしいオウムは、鳥かごに閉じ込められていた。
さて商人が、インドへ向けて旅の準備をしていた時のことである。彼は寛大で太っ腹な男だった。そこで彼は奉公人や女中達に言った、「何が欲しいか言ってみなさい、おみやげに持って帰って来てあげよう。もうすぐ出発だ、手短かに言ってみなさい」。奉公人も女中も、皆それぞれ口々に欲しいものの名を言ってねだった。商人は善良な男であったから、彼ら全員に望むものを持って帰ると約束した。
彼はオウムにも尋ねた、「さてさて、おまえのことを忘れたりはしないさ。おまえにも何か持って帰ってやろう。インド土産に、何を持ち帰って欲しいか言ってごらん」。オウムは言った、「もしもインドの地でオウムの群れを見かけたら、どうぞ彼らに、私の仲間に伝えて下さい、今の私の有り様を。
- 伝えて下さい、『天の定めか、かくかくしかじかのオウムが一羽、私の鳥かごに囚人のごとく閉じ込められておりますよ。あなた方のように、自由に飛ぶオウムの仲間を恋しがっております』と。『かのオウム、あなた方に敬意を表し、公正とは何かについて教えを乞いたいと言っております、正しく導かれるにはいかなる手段、いかなる方法があるのでしょうか』と。
『仲間達の許へ帰りたいという私の願いは捨て去られるべきでしょうか?あきらめて、友と切り離されたことに慣れるべきでしょうか?このまま一人ぼっちで寂しく死を迎えるべきでしょうか?』と。そしてこうも伝えて下さい、『友情にかけて。忘れないで下さい、ここに一羽の哀れなオウムがいることを。草原を吹き渡る朝の風の中で、時々は思い出して下さい、私のことを』と!」。
友に記憶されることの、何という幸せか。忘れ去られること無く、慕われ続けることの何という幸せか。ましてやそれが、愛し愛される者同士であればなおさらのこと、ライラとマジュヌーンのように。同時に、その逆に、あこがれる友があることもまた幸せなことだ - 互いが、互いを思い合う友同士であれば更に幸せなことではあるが。
私は私の血で満たされた杯、友に飲み干されるのを待っている。最愛の友よ、飲んでくれ、この杯を。一杯のぶどう酒を飲み干す時、私を思い出してくれ。忘れないでくれ、その杯を傾ける時、私を追悼してくれ。そしてほんの一滴、地にこぼしてくれ。泥と塵にまみれて、この地に倒れた私のために。
探しても探しても見つからぬ。あの約束もこの誓いも、一体どこへ流れてどこへ消えたのだろうか。砂糖菓子のように甘いあの唇でわしに告げたあの言葉は、一体どこへ消えたのだろうか。友よ!私というみじめな奴隷を置き去りにした理由を教えてくれ。私は何か悪いことをしたのだろうか。悪には悪で報いるというわけか、友よ。私を裁くのか、友よ。
それでも私は恋しい、恋しくて恋しくてたまらない。楽器の音よりも、奏でられる調べよりも、友の冷たい仕打ちの方が好ましい。互いに怒りをぶつけ合い、ののしり合うことの方が恋しい。なぜ私を置き去りにした?これが復讐だとしても、それでもわが命よりもなお恋しい。これは友が私に残した炎、私と友との親愛の名残り。消したりなどするものか。これ、この炎の放つ光にまさるものなどないのだから!これは哀悼の炎であり、同時に祝祭の炎なのだから!
- 友を失った私の悲しみは、友が私に残した形見だ。これほど甘いものもなく、これほど美しいものもない。私以外の誰が知るだろうか、友の真の姿を。友が去ってからというもの、私はこうして愚痴ってばかりだ。友は、私のことを信頼していたであろうか。私から去った時、少しは私を思いやってくれていたであろうか。傷が深くならないようにと、優しさゆえに去ったのだろうか。
私は夢中だった、友の驚くべき凶暴さと、驚くべき繊細さ、優しさの両方に夢中だった。まるで正反対だが、そのどちらもが素晴らしかった。そのどちらをも、私はあこがれた。今でもそうだ - 私がこうして、ナイチンゲールのように夜通し嘆きつつ語り始めたのもそのため。友に去られた悲しみの棘に追い立てられ、ふと気付くと、私はこの庭にたどり着いていた。
だがナイチンゲールになってはみたものの、これはまたずいぶんと不思議な、奇妙なやつになってしまったものだ。私というナイチンゲール、こやつは一体どうしたことか。口を開けば、薔薇も棘もおかまい無しについばんでは食べ散らかす。薔薇に恋して玄妙な声で鳴くというよりも、これでは火を吹く怪物ではないか。否、否。それもこれも、全ては友への愛のため。私の歌がまずいようでも、その中には、友への愛が潜んでいるのだと思っておくれ -
わが最愛の友は孤独を愛した。わが最愛の友は、私と二人で道をたどるよりも、一人でたどることを選んだのだった。
さて、今のは私の愚痴であった。だが愚痴の中に魂が潜むこともあるというもの。オウムをめぐる物語の魂もまた、これ、この中にこそ潜む。 - 鳥はどこへ行った?鳥の友、魂の友はどこへ行ったのか。かよわくはかなく、純粋無垢な小鳥。彼らが嘆けば、ソロモン王も鷹揚と構えてはおられまい。
彼ら(魂)が賛美でもなく呪詛でもなく、ただただ悲嘆にくれてうめき声をあげるとき、その声、その嘆きに七層の天界は激しく震える。悲嘆にくれる魂の許へ、神の使者がひっきりなしに訪れる、神よりの書状を携えて。「我が主よ!」と、たった一声でも魂が泣いて名を呼べば、「لبيك(ラッバイカ:われここにあり)」と、神は百の返事をしたためる。
無言で服従するよりも、泣いて訴えることの方が神の御目にはより好ましく映る。魂の反逆にこそ、神は価値を見出し愛で給う。このような反逆に比べれば、無言の服従など何の意味も価値も持たない。反逆すればするほど、涙を流せば流すほど魂は刻一刻と上昇する。上昇する先にあるのはただ唯一の御方のみ、その他多くの有象無象など目にも入らぬ。
御方は魂を宝冠で飾る、その他多くの有象無象の宝冠など、足許にも及ばぬ比類なき宝冠を。宝冠を飾られた者、その肉体は地上にあるが精神は「何処」という場所も無きところにある。「何処」という場所も無きところ、すなわち神秘道の旅人達の想像すらも超えたところに。「何処」という場所も無きところ、それは刻一刻と新たに創造されるところ。それは理解を拒み、理解に拒まれるところ。
「何処」という場所も無きところを、探せ、汝自身の内奥に探せ。気紛れに非ず、慰みに非ず、幻想やあやかしの類いに非ず - 否。場所も「場所も無きところ」も、御方の御心次第。ちょうど楽園を流れる四つの川が、楽園に住まう御方の御心次第であるように。
くどくどと説明したところで、分からぬ者には決して分からぬ。はっきりと言おう、気に入らなければ去るが良かろう - だが知っておけ、何が正しいか最も良くご存知なのはただ神のみ。間違っても、汝自身ではないことを知れ。
去る者が去った後に残る者は、さあ、インドへ渡った商人とオウムの話の続きに戻ろう - オウムの言葉を、彼女の仲間達に伝えることについて商人は気前良く約束した。そしてオウムを置いて、インドへと旅だっていった。
やがて商人はインドの地に辿り着き、気付けばさらにインドの最果ての地にいた。商人は、どこまでも広がる草原にオウムの群れを見た。彼は深く息を吸い込み心を鎮めた。それから、声を張り上げて彼らに挨拶し、彼らに決して害なす者ではないことを知らせ、彼らの信用を得ようと試み、それからオウムの言葉を伝えた。すると彼の言葉を聞いていたオウムのうち、一羽が激しく震え出した。それから地面に落下して、そのまま息絶えてしまった。
それを見て、商人はそしてオウムの言葉を伝えたことを悔やんだ。彼は言った、「なんということだ。はるばる遠くへ旅をして、私が仕出かしたことときたら、小さくかよわい生き物を死なせることだったなんて。このオウム、きっと私の飼っているオウムの縁につながる者であったのだろう。二つの体が一つの魂を分かち合うように、近しい者であったのだろう。
一体、私は何ということをしてしまったのか。何故伝言など預かり、何故それを伝えてしまったのか。これを善良などと呼ぶだろうか、正直などと呼ぶだろうか。哀れな生き物の命を奪った、ただの粗野でそこつな乱暴者ではないか」。舌なるもの、これは火打石でもあると同時に火そのものでもある。舌は絶え間なく火の粉をまき散らし、あちらこちらに火を点ける。今日はあちらで噂話の火を燃やし、明日はこちらで自慢話の火を燃やす。
火打石を無駄に使うな。石と鉄とを、むやみにこすり合わせるな。周囲は一面の綿畑だ、無知という名の暗闇にいるおまえは知るよしも無かろうが。否、否、無知だからこそ、おまえは綿畑の真ん中に火打石を持ち出して、平然と使ってのける。無知という名の暗闇で、乱暴者は目を見開こうともしない。闇に怯えていっそう目を固く閉じ、四方八方に虚栄そのものの言葉をまき散らす、「怯えてなどいるものか」と言わんばかりに。
まき散らされた言葉が、火となって綿畑に燃えうつる。綿畑は炎を吹き上げて燃え、やがては世界に飛び火して、一面を火の海にしてのける。世界を燃やし尽くそうと思えば、たったひとつの言葉で事足りる。言葉というもの、死んだ狐を獅子に変えてさえのける。
イエスの呼気に触れよ、イエスの言葉にまじわれ。イエスの言葉には、再生の力がそなわっている。原初の生命にも見出される、治癒の力がそなわっている。イエスに平安あれ。初めてふれるとき、イエスの言葉は深い傷となるだろう。だが次にふれるときには、傷をおおい包む石膏となるだろう。
肉体というヴェイルを取払い、精神そのものが語るなら、あらゆる言葉は救世主のそれと寸分もたがわぬものとなるだろう。精神そのものが語る言葉は、砂糖そのものの甘さを持つ。砂糖が菓子を欲するだろうか?砂糖は、それ自体が甘さそのもの。混ぜ物入りのあれだのこれだのを、欲するはずもないではないか。
子供というもの、未熟な者は甘いものを制限なく欲しがる。大人というもの、成熟した者は甘いものを知っている、その素晴らしさを知っている。その上で、自制することを知っている、物事の限度を知っている。自制を知る賢い者は、楽園にいたる上昇のはしごをのぼる者。菓子を際限なく欲しがる愚かな者は、下降のはしごをおりる者、一段降りるごとに楽園から遠ざかる者。
閑話休題:ファリードゥッディーン・アッタールのガザル(叙情詩)に寄せて
さて、聖者とはいかなる人を指すのか。我らが先達アッタール1 - 神よ、彼の魂をよみしたまえ - のガザルをひもといてみようか。このようなガザルがある -
自我に執着する者よ、地上にありて自らの生き血を飲む者よ
神秘道を行く者は毒を飲むが、彼が飲めば毒は薬となる
それと知りつつ毒を飲み干したところで、かすり傷ひとつ負うところ無き者、それが聖者というもの。禁欲の階梯にある者とは、すなわち未だおのれの欲に苦しむ者。おのれの欲を手放し、おのれの欲からも解放された者に禁欲は不要だ。真に健康なる精神、それは自由な精神である。
預言者は言った、「向こう見ずな探求者よ、心せよ!戦うな、たとえ誰に出会おうとも。それは友だ、敵ではなく」。ニムロードはおまえ自身の中にいる。ニムロードにおまえを明け渡すな、軽々しく炎に飛び込むな。炎に飛び込む前に、ニムロードを去りアブラハムの友となれ。
軽々しく海に飛び込むな。水泳の達人か、漁師か水夫でもない限り、何も好きこのんでわざわざ自分を突き落とす必要はない。自惚れの岸に、しっかりとしがみついておれ。 - だが達人が飛び込めば、海の底から真珠を持ち帰る。達人が触れれば、炎の中から薔薇を持ち帰る。失うことにより得る人々、達人とはそうした人々を指す。未だ目覚めぬ者が触れれば、大地は灰に変わる。だが達人が触れれば、大地は黄金に変わる。
達人とは、神に受け入れられた正しき人。その手は神の手ともなる。未だ目覚めぬ者の手は、悪魔の手ともなる。人々に向けられるとき、彼らの手は虐げ、貪り、欺く。未だ目覚めぬ者は、だがそれ以外の方法を知らないのだ。彼ら自身が悪魔の罠にあり、彼ら自身もまた悪魔の手によって虐げられ、貪られ、欺かれているからである。
達人の手が無知にふれれば、それは知に転じる。だが未だ目覚めぬ者の手が知にふれれば、それは無知に転じる。病が伝染するように、信仰なき者がまき散らすのは不信である。だが達人の手が不信にふれれば、やがて免疫が生じるように、それは宗教に転じる。
歩兵ならば騎馬兵に闘いを挑むな。首を取られたくはないだろう。歩兵はただ歩め、おのれ自身の足許に集中しておれ。
かつて呪われたファラオが支配した時代があった。ファラオの魔術師達は、モーセを敵とみて戦いを挑んだ。戦いを挑んだものの、それでいて彼らは知ってか知らずか、彼ら自身の言葉がモーセの優位を示していた。彼らは言った、「貴兄が先か、我らが先か、決めるのは貴兄だ。おのぞみとあれば、我らよりも先に、まず貴兄からその杖を振り下ろされよ」。2
「否」、モーセは答えた。「汝らが先だ。汝らの魔術を披露せよ。上でもなく下でもなく、中央に向って披露せよ、誰の目にも明らかになるように」。 - 彼らは、戦う前からモーセに主導権を引き渡していたのだ。これ、このほんの一さじほどの畏れが、やがて彼らを正しい道へと導いたのである。ほんの一さじほどの畏れが、彼らの手足(行為)がおかすあやまちから彼らを救い、彼らを魔術から浄めたのである。
魔術師達が魔術を捨て、正しい道に立ち戻り、あらためてモーセと向かい合ったとき、彼らはモーセの歩みの正さを知った。彼らは彼らの手足を、騒擾と争議を仕掛けた罪のつぐないとして差し出した。ほんの一さじの食物、ほんの一さじの言葉であっても、合法なのは、それを口にするのが達人であればこそ。未だ目覚めぬ者と、同じ一さじであるはずがない。軽々しくものを食べるな、ものを言うな。達人が舌なら、その他は耳だ。師と弟子が、同じであるはずがない。神が申された通りだ、「心静かに耳傾けよ、汝らへの恩寵となろうから」3と。
乳飲み子は、生まれ落ちるときには生まれることへの恐怖のあまり大声で泣き叫ぶ。だが生まれてしまえば、あとは全身を耳にして沈黙する。小さな唇をきゅっと閉じ、もの言うすべを学ぶ。もの言うすべを学ぶのに、もっとも必要とされるのは耳で聞くことであり、舌を動かすことではない。耳のように沈黙して学ぶ前から、無駄に舌を動かしたところで、それで「ものを言う」すべを知っている、と言えるだろうか?乳飲み子の口から出るそれは「音」に過ぎぬ。
生まれつき、耳の聞こえぬ乳飲み子もいる。耳持たぬ乳飲み子に、何の手当てもせずそのままにしておけば舌持たぬ子になる。「ものを聞く」ことなしに、どうして「ものを言う」すべを身につけられるだろうか。だがこれは、何も耳の聞こえぬ乳飲み子にのみ限ったことではない。手当てが必要なのは、実は誰であれ同じなのだ。「ものを言う」すべを身につけるには、「ものを聞く」ことが肝心であると知らねばならない。
「汝ら、館に入る時は正しい扉から正しく入れ」。4正しい扉から入らずに、垣根をこえて裏から入ろうと試みた者達の末路を見るが良い。「ものを聞く」こと無しに、「ものを言う」ことをあらしめることは不可能だ、何ひとつ欠けるところのない創造の御方をのぞいては。
全ては御方によって始まる。御方こそは主であり、追従すべき主を持たぬ。全ては御方によって支えられる。御方こそは主であり、支えを必要とせぬ。だが御方でもない我らが、真に「ものを言う」すべを身につけるためには、誰であれ師を持つなり、手本を持つなりする以外に学ぶ方法はない。
- さて、ここまでの話に異存はあるか。「ものを聞く」ことに異存はないか。無ければ、今すぐにデルヴィーシュの長衣をその身にまとえ。デルヴィーシュの長衣を身にまとい、喧噪を離れて沙漠を目指せ。ひとり沙漠に座れば、知らずしらず涙が溢れてくる。ひとり静かに、座して泣け。
アダムもまた、地上で静かに座して泣いた。そもそも、アダムは何故地上へ降ろされたのか?罪に対する罰としてではない。罰を猶予されるため、赦されるために地上へ降ろされたのだ。涙を流すということは、悔悛する者にとっては呼吸のようなもの。アダムが地上に降ろされたのも、涙を流し、嘆き、悲しみを味わうためであった。
アダムは楽園を追われ、七層の天よりも高い住み処から、地上の、履物よりも更に低い処(悔悟の階梯)へと降ろされたが、それも全て赦されるためには必要なことであった。誰であれアダムの末裔ならば、アダムの肋骨から生じた者ならば、赦しを必要としない者などいない。人々の受容と寛大を、一瞬たりとも求めずにおられる人などいるはずがない。
悲しみも、流される涙も絶やしてはならぬ。菓子はふたいろ用意せよ、「心の炎(悲嘆)」と「目の水(涙)」と。庭園も、太陽と雨雲のふたいろあればこそ緑はしげり花も咲く。「目の水」の味を知っているか?あなた方には、何ひとつ見えてはおらぬ。
物乞いのように、ひたすらパンばかりを追い求めるのは「目の水」を心の底から味わったことがないからだ。あなた方の財布がパンに費やされ、空っぽになってしまわないことには、数々の貴重な宝石を得ることはできない。下腹をパンでふくらませているうちは、財宝の入り込むすきがない。
魂が幼い乳飲み子である間は、悪魔と同じ乳を欲しがるのも道理。しかし成長したいならば、やがて天使の乳に馴染まねばならない。鬱々として気も晴れず、怒って当たり散らしたり、希望を見出せず悶々としているのは、悪魔の飲む乳と同じ乳を飲んでいるからだ。あなた方に光を与え、あなた方を完成へと導くのは悪魔の乳ではない。合法な報酬によって得た、合法な一さじこそが天使の乳だ。注いだ時、我らを照らすランプの灯火が消えるなら、注がれたのは油ではなくただの水だ。
合法な食事の一さじは、知恵と天啓の知識を生じさせる。合法な食事の一さじは、愛と優しさを生じさせる。非合法な食事の一さじは、無知と無関心を生じさせる。ねたみ心と狡猾さとが生じるならば、口にしたその一さじは非合法の一さじだ。小麦を蒔いたところで、どうして大麦が収穫できようか。ロバが、どうして立派な駿馬を産みおとすだろうか。
その一さじが種となり、思考という果実を結ぶ。その一さじが海となり、思考という真珠を与える。合法な食事の一さじを口に含めば、舌の上に神への想いを味わうだろう。神への想いを味わえば、あちら側の世界への希求が生じるだろう。
さて、商人は旅先で全ての取引を終え、心の底から安堵した様子で嬉しげに帰ってきた。奉公人達ひとりひとりの留守番をねぎらって褒美をわたし、また女中達ひとりひとりにもこまごまとしたみやげものを渡した。「私のおみやげはどこですか?」、オウムが尋ねた。「何もないのなら、せめておはなしだけでも聞かせてください。あちらの様子を教えてください」。
「いやいや」、商人は答えた。「それについては勘弁しておくれ、私は本当に後悔しているのだよ。思い出すだけでも、後悔のあまり自分の手指を噛みたくなる。それにしても、一体どうして私はあんな愚かなことをしたのか。伝言など、気楽に引き受けてしまうのではなかった。あんなむごいことになるだなんて、思いもしなかった。まったく、ひどく無益なことをしたものだ」。
「ああ、ご主人様、」オウムは言った。「いったい、どうして後悔などなさっているのですか、いったい、どうしてそんなに悲しそうにしているのですか?悲しみを通り越して、怒ってさえいらっしゃるようです」。「おまえの愁訴はちゃんと伝えたさ」、商人は答えた。
「おまえにそっくりの、オウム達の群れに出会ったよ。だから彼らに、おまえの願い通りにおまえの言葉をそっくりそのまま伝えたさ。群れの中に、おまえの言葉にすっかり感じ入ったらしい一羽がいたのだ。よほど悲しんだのか、心を痛めたのか、聞くなり空から落ちて死んだのだよ、震えながらね。
それで私はすっかり気落ちしているのさ。『何であんなことを言ってしまったのだろう』と、ずっと考えていた。しかし言ってしまった後で後悔したところでもう遅い。全く後悔など、何の役にも立ちはしないね」。
- 言葉とは、舌の弓から勢いよく放たれる矢のようなものだ。年若いわが友人達よ、弓から放たれた矢は、再び引き返すことはできない。水がひとたびあふれ出せば、水源でせきとめる以外には、流れをとめる手立てはない。水源を離れ、堰を切って流れ出した水は、あっと言うまに世界じゅうを駆けめぐって、ありとあらゆる場所へと流れこむ。
我らの行為は、常に不可視の力動がもたらす影響から逃れられない。行為は我らから生じても、行為がもたらす結果については、我ら自身ではどうすることもできぬ。行為そのものの責任は我らに帰される。だが行為がもたらす結果を創造したもうはただ神のみ。同位者を持たぬ、唯一の御方のみ。
ザイドが弓矢を放ったその先に、アムルがいたとしよう。ザイドの放った弓矢が、豹のごとくアムルをとらえたとしよう。それ以来、弓矢の傷が長く尾を引く痛みを生じさせたとしよう。痛みを創造するのは神だ、人ではなく。弓矢を放ったザイドが、アムルを傷つけたことへの畏れのあまりアムルよりも先に死んだとしたら? - しかしそれでも、傷の痛みを引き受けねばならぬのはアムルに他ならない。痛みは残り続ける、やがてアムルが年老いて死を迎えるまで。
弓矢の傷に苦しんで、その結果アムルがザイドよりも先に死んだとしたら? - 弓矢を放ったザイドは、アムルを死なせた殺人者と呼ばれるだろう。殺人者と呼ばれ、罰の痛みを引き受けるのはザイドに他ならない。だがこれら全ての痛みを創造するのは神だ、人ではなく。
きっかけをつくり、言葉をかわし、誘惑し、罠をしかけ、抱き合って一夜を共にする - 行為の責任は我ら自身に帰される、しかしこのような交わりが生起し得たのも、常に神のご意志の働きあってのことなのだ。
聖者達とは何者か?彼らは、神の力動そのものである。神のご意志の働くままに働く。彼らには、空を切って飛ぶ弓矢の行き先を変えることすらできてしまう。全ての結果は原因に根ざし、全ての原因は結果をもたらす。これを論ずるのが因果論というもの。だが聖者達が悔悟して嘆けば、主に与えられたその手は結果と原因を根源から断ち切る。
聖者達に因果論は通用しない。彼らが悔悟するとき、一切の扉が閉ざされる。再び扉を開くのは神の恩寵のみ。そして再び扉が開かれたとき、かつて語られた言葉は跡形もなく消え失せている。 - 言葉とは、まことにかくありたいもの。勢いにまかせて吐き出したり、吐き出された言葉を拾いあげて酷評したりなぞしていると、やがて言葉だけではなく、その中身まで焼け焦げてしまう。
かつて聞かされた言葉を我らの心から消し去り、再び思い起こすことのないようにするのは、御方にとっては雑作もないこと。 - 論者、識者の方々よ。ご立派なことだ、何が何でも自分の言葉が正しいと思っておられる様子。自分の言葉の正しさを証明しようと試みるなら、まずは詠まれよ、「われらは啓示のいずれかを消し、またいずれかを忘れさせる」。5「汝らは彼らを笑いものにし、そのためにわれを念ずることを忘れた」。6
これ、このように聖者達には、人の心に忘却を生じさせる御方の力動が働いている。御方は彼らを通じて、ある時は思い起こさせ、またある時は忘却せしめる。どのような者の心であれ、(神の)被創造物である限り、その力の及ばぬところはない。聖者が忘却の石を置き、精神の知覚が走る道を塞いだならば、どれほどの知識や伎倆を備えた者であっても、次に打つ手は何ひとつない。
村の領主は王のごとくふるまう。ああした者どもは、あなた方の肉体を土地に縛りつけて支配しようとする。だがあなた方の心までは縛れない。あなた方の心を占める王こそが真の王、あなた方の真の支配者だ。
一体、行為とは何であろうか。疑う余地もなく、行為とは思考の枝葉である。視覚は思考をとらえ、行為という反応を示す。その意味において、ヒトとは全くちっぽけなものだ。眼の中の瞳孔のように、せわしなく伸びたり縮んだりする。しかしこれについて、全てをあからさまに語りつくすほどの蛮勇をわしは持たぬ。
- 否、むしろ「隠せ」と、わしに命ずるものがある。「守り通せ」と、わしの内奥、わしの中心からわしに命ずるものがあるのだ。何を忘却し、何を記憶するか、全ては御方の御心次第。何を望み、何を祈るかも、また何が叶えられ、何が聞き届けられるかも御方の御心次第だ - 幾千、幾万もの祈りと願いが、善きものも悪きものもすべて唯一の御方の許へ届けられる。
御方は毎夜、全ての心を開け放ちたもう。昼のあいだは、あれやこれやの思案や想念で騒がしいこの心も、夜が訪れて眠りにつけば、御方により開け放たれてきれいさっぱり空っぽになる。わずらわしい心配も苦悩も、ともかくも一晩眠ってしまえば、夜に隔てられて確実に過去のものとなる。
過去のものとして眺めれば、心配事の多くは、何のことはない、自分の感情や気分が生じさせていたまぼろしであったと知るだろう。感情や気分に振りまわされるな。それはほんの一時だけ、雲が空を覆ったに過ぎぬ。空が晴れれば、技術も力量も持ち主の手に戻ってくる。閉ざされた扉を、開ける手立ても見えてくる。
復活の日とは、あなた方自身を映す鏡のようなものだ。あなた方のなした仕事が、あなた方の心映えが、ふるまいが、そっくりそのままあなた方の手に戻される。夜の眠りから目覚める朝も、これと同じだ。あなた方が眠りから目覚めるとき、あなた方の仕事、あなた方の性質が、寸分も違えることなく正しい所有者のところへ戻ってくる。
夜明けが訪れるまでのあいだ、あなた方の行為、あなた方の思考は、あなた方を離れて遠くを旅している。「かつていたところ」を、善悪の彼方を、森羅万象の根源を旅している。「かつていたところ」の、あちらからこちらへと旅している。そしてあなた方が目覚める頃に再び戻ってくる。伝書鳩のように「かつていたところ」から、あなた方にとっての新たな吉報をたずさえて。
さて、遠く離れたかの地の、仲間のオウムに起きた出来事を聞かされて、鳥かごのオウムは激しく身をふるわせて止まり木から落ち、それから冷たくなってしまった。オウムが落ちたのを見て商人は飛び上がり、被っていた帽子を掴んで床に叩き付けた。おそるおそる覗き込み、オウムが動かないのを見ると、商人は身もだえて上着を引き裂き、胸をかきむしった。
商人は言った、「甘い声で鳴くオウムよ、可愛らしい姿のおまえよ!これは一体どうしたことか、何故こんなことになったのか。ああ、ああ。私の親友、私の心よ。おまえの歌は私の喜びだったのに。おまえの声も姿も、甘い香草のようだったのに、私の、心のぶどう酒だったのに。誓って言うが、全ての鳥を統べるソロモン王だって、おまえのようなオウムが傍にいれば、それで十分満足しただろう。他の鳥まで支配しようなどと思いつきもしなかっただろう。ああ、ああ。
- しかし今になって思えば私ときたら、おまえを手に入れる時も値切りに値切って、相当安く買ったものだった。それですっかり満足してしまい、きちんと顔を見ようともしなかったし、ましてやおまえの心など、考えてやりもしなかった。
ええい、忌々しいこの舌め。おまえのせいで、どれほど私が痛めつけられたことか。どれほど大きなものを失ったことか。しかしそうは言っても、しゃべるのがおまえの仕事だ。おまえに文句を言おうにも、おまえがいなくては何ともならぬ。舌よ、おまえはまるで火のようでもあり、同時に積み上げられた干し草の山のようでもある。干し草の山もおまえなら、そこへ次々と火を投げ込むのもおまえだ。
いったい、いつまでこんなことが続くのか。いったい、どれほど多くの魂が、おまえの仕業のおかげで人知れずひっそりと隠れて涙を流したことか。それもこれも、おまえが焚きつけた火事のせいなのだぞ。舌よ、おまえは尽きせぬ財宝のようだ。それでいて、舌よ、同時におまえは癒す薬もない疫病のようだ。
舌よ、おまえは狩人のように口笛を鳴らして鳥達をだましておびき寄せる。それでいて、舌よ、同時におまえは恋人を見失った孤独をなぐさめもする。舌よ、おまえは無慈悲なやつだ。私という鳥をおびき寄せ、今この瞬間は禁漁の域で私をくつろがせる。だが次の瞬間には、舌よ、おまえは復讐の弓で私を狩ろうとする。
見ろ、見ろ!おまえのせいで、私のオウムは去ってしまった。何という不正、何という悪業!悪事という名の牧草地で、新芽をむしゃむしゃとはむような真似にはもう我慢がならない。ええい、舌め、答えろ!私につぐなえ。私にあやまれ。そうでなければ、私を喜ばせる何かを持って来い。ああ、とうとう真っ暗闇に取り囲まれてしまった - 私の夜明けを返してくれ!私の昼を返してくれ、私の光を返してくれ!
ああ、ああ。私のオウムよ。おまえが、そんなにも良く飛ぶ鳥とは知らなんだ。私の体のこちら側から、私の心のあちら側まで、そんなにも遠く深く飛ぶ鳥とは知らなんだ。あわれんでおくれ、無知な男が永遠にかなわぬ恋をしたのだ。詠んで聞かせておくれ、『われらは、人間を苦難の中に造った』。7
おまえの顔を見てさえいれば、何の災いもなかったものを。おまえの声を聞いてさえいれば、何の痛みもなかったものを。私は泣く、今は遠く引き離されてしまったおまえを想って泣く。私は泣く、かつて私のすぐ近くにいたおまえとの至福を想って泣く - 神の嫉妬に見舞われたのだ、私は。だが神に逆らうすべなどあるはずもない。心など、はかなくもろいものだ。神の愛を受けてなお、粉々に打ち砕かれずにいられようか。
そうだ、これは(神の)嫉妬だ。全てを超越し、同位の者を持たず、言葉などものともせず、解釈も説明もただの雑音にすぎぬ御方の、私は嫉妬に見舞われたのだ。ああ、ああ!私の涙よ、海となれ!あちら側の浜辺には、私のかわいい恋人がいる。私の涙よ、波となって恋人に届いてくれ!
私のオウムよ、賢い鳥よ。私の思案を良く読み取る通辞であった。私の心の、私自身すら気付かぬほどの奥深くまで読みとることにたけていた。オウムの言葉に、耳をかすべきであったのに。あれは最初から、全てを私に打ち明けていたのに。しかしこうなってしまったからには、私の上に降りかかった善いことも悪いことも、全て受け入れねばならぬのだろう」。
いったい、鳥はどこから来るのか。あの歌はどこから来るのか。
聖なる霊感に導かれて歌うのが鳥なるもの。
有と無とのはざまに導かれて歌うのが鳥なるもの。
心の奥の、さらにその奥深くに始源の鳥が隠れている。
空を飛ぶ鳥も鳥かごにいる鳥も、
眼に見える鳥という鳥は、全て心の奥に隠れる始源の鳥の反射だ。
心の奥に隠れる始源の鳥が、あなた方の喜びを司っている。
始源の鳥の喜びが、あなた方の喜びとなる。
時として、始源の鳥はあなた方を傷つける。
だが喜びのためならば、あなた方は傷つくことも厭わない。
それどころか、始源の鳥のふるまいをかばうことまでしてのける!
喜びの炎に魂が焼け焦げる、喜びの炎が魂に光を添える。
喜びの炎に精神が焼け焦げる、喜びの炎に肉体が焼け焦げる、
- 私は炎の中にいる、御方の愛が私を焼き焦がす。
火種を欲する者があるならば、
誰でも私の近くに寄れ、いくらでも持って帰れ。
捨ててしまいたい何かがあるならば、
誰でも私の近くに寄れ、どんなガラクタでも遠慮せず投げ込め、
跡形もなく焼きつくしてやろう。
そして喜びを欲する者があるならば、
誰でも遠慮せず炎の中に入れ、共に御方の愛の火種となろう、
難しいことなど何ひとつあるものか。
ああ、ああ。何ということだ、折角の満月の夜だというのに - 雲よ、霧よ、恥を知れ!満月がすっかり隠れてしまったではないか。月明かり無くして、どのように言葉を紡ぎだせというのか。暗闇に、心の炎はいよいよ激しく燃えさかるばかり。愛する者との別離の悲しみが、ライオンとなり血を求めて暴れている - そら、心の檻から放たれたぞ。
そやつときたら、しらふの時でさえすさまじく凶暴で荒れっぽいのだ - ましてや、今のようにぶどう酒の杯を重ねた後では尚さらのこと。怒り狂ったライオンを、言葉の網で捕まえることはできぬ。牧童が、たった一人で地平線の果てまで見えるほどの草原を見守ることなど出来るはずもなかろうが。放たれたライオンをながめつつ、醒めた頭の半分で、私は詩作について、韻について考えている。すると愛する者が言う、 - 「これ、この浮気者め」。
詩人よ。何をぼんやりと考え込んでおるのか。
汝の眼はわれを見るためにあり、
汝の心はわれを想うためにあるというのに。
悩むな、わが詩人よ。心やすらかに、気楽にしておれ。
われと共に在れ、われを見よ。
そうすれば汝の詩は全て、終わることのない至福の韻をふみ続けるだろう。
言葉ひとつが、これほどまでに汝を思い悩ませるとは。
いったい、そもそも汝は言葉を何と心得るのか。
言葉など葡萄園を取り囲む垣根のようなもの、
葡萄そのものでは断じて無いのだぞ。
言葉、音、そして論。
われはこれら三つを、混沌の中へ投げ込んでおいた。
故にこれら三つにわずらわされること無く、
またこれら三つを用いることもなしに、
われと汝とが語り合うことも出来るのだ。
混沌に耳をかたむけて何になる、
われに耳をかたむけよ、われに意識をかたむけよ。
われは汝の意識に向けて語ろう、
アダムにも明かさずにおいた秘密の『言葉』を。
われは汝の意識に向けて語ろう、
アブラハムにも明かさずにおいた秘密の『言葉』を。
愛と、愛の痛みを汝に知らせよう -
知りたくはないか、詩人よ。
愛も愛の痛みも、
天使の身であるガブリエルには知ることすらかなわぬのだぞ。
- 救世主イエスは多くを語ったが、「神」の一語については、小声でささやくこともしなかった。用心深いかのお人は、常に「ما(マ―:ペルシャ語で『私達』の意)」と表現した。しかし一体、「ما」とは何という語であろうか。音は同じでも、ペルシャ語のそれとアラビア語のそれとではまったく異なる。その語は肯定とも否定とも、正とも負ともなりうる。
私は正ではない。私は負だ、愛の裡にすっかり消滅した。実のところ真の個性というものは、個性を捨て去り消滅し切ったところにのみ見出せるものだ。「私」すなわち「私達」だ。それを知ってからというもの、私は私という個を糸にして、皆と共に全体という絨毯を織り続けている。
すべての王侯達が、彼ら以前に倒れた者達と同じ轍を踏んで倒れる。泥酔者達はしらふの者を嫌う。人は皆、同じひとつの杯から共に飲んで酔う者を好んで群れになる。鳥撃ちは、鳥を捕まえて彼らの上に自分の生計を立てる。鳥は鳥撃ちの犠牲ではあるが、逆に鳥撃ちの一生もまた、鳥に捧げられた犠牲だともいえる。
恋のやまいを患う者は、魂をとらえて離さぬ愛しい者のとりこだ。だが同時に、愛しい者の魂もまた、恋い慕う者にとっての獲物でもある。愛する者、愛される者というのは視点の相違により生ずるもの。相対的に見れば、愛する者が、同時に愛される者であってもおかしくはない。喉がかわいて、水を探し求めてさまよう者があるならば、水の方もまた、喉がかわいた者を探し求めている。
愛する者があるならば、慎み深く沈黙を守るのが無難というものだろう。愛する者がそなたの耳をつまんだなら、つまませておけ。全身を耳にして、それでもあわてずさわがず、落ちついておれ。感情の水はせき止めておけ、洪水のごとくあふれさせるような真似はするな。あふれさせれば、何もかもが文字通り水の泡となるぞ。洪水の後に残るのは、からっぽの廃墟と恥のみだ。
私ならばどうするか、とな。私ならば一向に構わぬ。たとえすべてが滅び去り、廃墟となったところで困ることなぞ何ひとつありはせぬもの。むしろ望むところだ - 荒れ果てた廃墟の下に埋もれた財宝にこそ、私は心惹かれる。神に溺れた者は救いなど欲しはしない。より深く溺れることを欲するのみだ。大海の波に身も心もまかせて、あちらからこちらへと漂うのみだ。
- 「海ノ底ト波ノ上デハ、ドチラノ方ガ楽シイカシラ?御方ノ、矢ト盾トデハ、ドチラノ方ガ素晴ラシイカシラ?」。ははは。わが心よ、もしもおまえが、未だに歓喜と悲哀とを別々の異なるものだと考えているようなら、それはおまえが、未だに邪悪なる何ものかのささやきに耳を貸している、ということだ。
愛を欲する、とおまえは言う。だが実のところ、おまえが欲しているのは愛ではなく砂糖の甘み、ご褒美のお菓子に過ぎぬ - 愛を欲するならば、愛がおまえに何を欲しているのかをまずは知れ。おまえは知らないのか、愛される者のうち最も愛される者(神)は、おまえが何ものをも「欲さない」ことをこそ欲しているのだ、ということを。
星々が満天に輝いている。御方があれらを夜空に配したもうたのは、ただあの月を際立たせるため。御方が望みたもうならば、世界など、一夜のうちに廃墟となっても不思議ではない。いったい、我らの生とは無償であろうか。命とは、魂とは、御方の助けもなしに、我らがあがなおうとしてあがなえるものだろうか。
愛とは、死の裡にのみ見出せるもの。愛する者とは、死の裡に生を得る者を指す。自分の生だの自分の心だの、自分の想いだの、全て、全て捨ててしまえ。でなければ、最愛の恋人の心になど、触れもせず届きもしないままで恋は終わるだろう。
恋しいおひとの心を得ようと、ありとあらゆる手練手管を私は講じた。だが何をしようと、何を贈ろうと無駄に終わった。恋しいおひとは、むしろ私を軽蔑したように冷たくあしらっただけだった。私は言った、「心も魂もあなたの虜、あなたもそれをご存知のくせに」。
恋しいおひとは言った、「放っておいておくれ、今すぐ立ち去っておくれ。このような子供だましのまじないなど、二度と見たくない」。言葉では愛と言いつつも、行為は愛とかけ離れていることを見破られたというわけだ。二元論者のおちいる罠、とはまさしくこれ。最愛の恋人の心を得ようというときに、自分の取り分を残しておこうなどと考えていたのでは、結局、得るところなど何ひとつ無い。
「これはまた、ずいぶんと安くにみつもられたこと。ひとたび、言い値で安く買いたたかれてしまえば、すぐに飽きられて更に安い値で売り払われることは火を見るよりも明らか。さあ、さあ。今すぐに立ち去っておくれ、そして忘れてしまっておくれ。真珠を、一切れのパンと引きかえにしようなどという子供の相手をしてはおられぬ」。
思えば、あれが私の初恋であった。それ以来このように愛に溺れて、溺れ切って深みにはまってみれば、最初の恋も最後の恋も、全て同じひとつの愛の裡に、もとから在ったものと分かる。 - いやいや、恋の全てを語るような真似はするまい。そんなことをしていては、心も舌もすりきれてしまう。
「唇」という語ひとつにしても、私にとっては海辺ほどにも広大な意味を持つもの。寄せては返す波のすべてを、語り尽くすことなど出来はせぬ。「否」という語ひとつにしても、私にとっては一大事だ。「لا(La:否)」と言ってしまえば、「الله(Allah:神)」と言わずには済まされぬ。8
日常、私が黙ってやり過ごすのは何も語ることが無いからではない。その逆だ。言いたいことは山のようにある、私の中にはありとあらゆる言葉が詰まっている。私がしかめっつらをしているのは、苦いものを食べたからではない。その逆だ。私は甘美を味わっているのだ。
こうしてさも気難しげに顔をしかめていれば、私の中に詰まった甘いものを隠し通せるだろう。私から掠めとろうなど、誰も思いつきはしないだろう。にこにこと愛想良く笑っていれば、それだけで誰もかれもが近寄って来る。だが誰も彼もが、聞くに値する耳を持っているというわけではない。聞く者を選ぶ物語というものが存在するのだ。
少し寄り道をしよう。これから語るのは、まさしくそうした物語のひとつだ。 - さて、さて、秘密を聞くにふさわしい耳が揃ったところで、語って聞かせよう、数ある秘密の中でも、間違いなく最上の部類に入る、とっておきの物語を。
閑話休題:サナーイーに関する註釈、預言者の伝承、神の嫉妬について
ハキーム9を読んでみるとしよう。それから、我らが預言者 - 神の平安がかのお方の上にありますように - の伝承を。
君の歩みを止めさせたものの正誤などどうでも良いが、
そのせいで、君が歩みを止めてしまうことこそが問題なのだ。君の歩みを止めさせたものの美醜などどうでも良いが、
そのせいで、君が愛する者から遠ざかることこそが問題なのだ。
(サナーイー)
わが友サアドは本当に嫉妬深い。
だがサアドよりも、私の方がもっと嫉妬深い。
だが私よりも、神の方がもっと嫉妬深い。
そして神は、その嫉妬深さゆえに不正を憎まれ、
顕われるものであれ隠されるものであれ、不正を禁じ給うたのである。
(預言者ムハンマドの伝承)
神は嫉妬深い御方。それゆえ全世界を見渡しても、嫉妬の無いところなどありはしない。御方の嫉妬は、全人類のそれを足したものをはるかにしのぐ。御方が精神なら、世界はその肉体のようなもの。善きにしろ悪しきにしろ、肉体は精神の影響を受けずにはおられない。
真理を見出した者のミフラーブ10は、変化を余儀無くされるもの。以前通りのミフラーブに戻ることなど出来はしない、それは真理に対する裏切りとなるからだ。道を歩む信仰者ならば、常に真理をミフラーブとするもの。新たな真理が見出されたときに、従前の慣習に執着して後戻りするのは恥ずべき行いである。
王のお気に入りとなり、王の手によって学者の礼服を下賜された者が、真に王のためになる助言など出来るはずがない。スルタンの寵愛を受け、スルタンと親密な仲になった者を、扉の外で待ち受けているのは侮辱と奸計であり栄誉ではない。王の手に触れ、王の手に接吻をする特権をさずけられた者が、固辞して手ではなく足に接吻しようとすれば、それは罪として咎められよう。
たとえ頭を垂れて足に接吻する行為そのものは、敬意と謙譲の意を表わすものだとしても、だ。王の意を退け、己の意を押し通したという点において、それは傲慢な過誤とみなされてしまう。王などというのは、誰よりも嫉妬深いものと決まっている。彼を取り巻く人々の顔の上に、ほんのわずかであってさえ、漂う自尊心の芳香を鋭敏に嗅ぎとる。
ヒトの嫉妬であってさえ、これほどまでに凄まじい。だがたとえるならば、ヒトの嫉妬は麦わら一本のようなもの、神の嫉妬は麦そのもの。全ての嫉妬の根源は神にある。ヒトの嫉妬は、神の嫉妬を根とする枝葉である。誰一人として無関係ではない。あなた方も私も、毎日のように悩まされているではないか。
前口上はこれくらいで切り上げてしまおう。そうだ、私は悩んでいる。ぶちまけてしまいたい不満がある。御方は美しく、崇拝してもし足りるということがない。とは言うものの、御方の何と気紛れなこと、何と残酷なこと。私は御方を求めて泣き叫ぶ。私が泣き叫べば泣き叫ぶほど、それはそのまま御方のご満悦となる。泣き叫ぶのは私一人ではない。聞こえないか、現世と来世、二つの世界が共に御方を求めて泣き叫んでいるのが。
御方との、合一を果たした陶酔の輪の中に居られる間は幸福だ。しかし酔いもいずれは醒める。そんなとき、御方のむごい仕打ちをどうして恨まずにおられようか。どうして呻かずにおられようか。どうして嘆かずにおられようか。悲しい、苦しい。まるで太陽が沈み、光を失った夜の空のようだ。
御方に冷たくあしらわれればあしらわれるほど、わが魂は御方を恋い慕う。御方の冷たささえもが、魂の甘露となる。ああ、御方がそれを禁じてさえいなければ、いっそこの心臓をえぐり出し捧げものとしてしまいたい。王の中の王よ。このまま、悲しみと苦しみの中でもがき続けていれば満足なのか。それでも構わぬ、それが御方の望みたもうことならば、御方の喜びたもうことならば。
わが両の眼の底に悲しみが積もる、積もった悲しみはやがて海となる。やがて海は真珠をはらんで、わが両の眼からこぼれ落ちる。何も知らぬ他人は、それを涙と呼ぶだろう。違う、これは御方の形見だ、御方のための真珠だ。魂の中の魂よ。魂を統べるわが王に、私はこうして恋の手紙を書いている。何も知らぬ他人は、それを愚痴と呼ぶだろう。違う、これは御方の形見だ、御方のための物語だ。
わが心が告げる、「これ以上深入りしてはいけない。恋は叶わず、傷つき苦しむばかりではないか」。弱り果てたわが心を、私は弱々しいながらも笑い飛ばそうと試みる。私は祈る、「公正のうち、最も公正な御方よ、善きものを授けたまえ」。私は御方を探し求める。御方はいつも通りの玉座におられ、そして扉は閉ざされたまま。閉ざされた扉の外で、私はただ呆然と立ちすくむ。
しかし「玉座」とは何か。「扉」とは、何であろうか。それらが真に意味するところは何なのか。私が今まで「玉座」と思っていたそれ、「扉」と理解していたそれは、真に「玉座」であり「扉」であったのか?ものごとの輪郭が失われてゆく。領域を分け隔てる境界線が消えてゆく。私とは何か、御方とは何か。「私」と「私達」の違いは何か、そもそもそれは真に異なるものだろうか?
魂の中の魂よ。魂を統べるわが王よ。「私達」と「私」から、ありとあらゆる隔てから自由な御方よ。私が「私」を捨ててしまわない限り、私が御方を「御方」と呼ぶ限り、「私」はいつまでも「扉」の外で、「玉座」の様子をあれやこれやと思い悩み続ける羽目に陥る。
恋人同士が結ばれるとき、その結び目こそは御方である。「ひとつになる」などと言うが、その「ひとつ」こそは御方である。「私」と「私達」を隔てたもうたのは、御方にとってはほんのたわむれ。我らにとっての崇拝の行為は、御方にとっては双六のようなもの、盤上の遊戯のようなもの。「私」と「私達」の隔てとは、やがて取りのぞかれるために用意されたもの。
魂の全てが、隔てを取りのぞいて自由になり、最後には、魂のうち最も愛される魂たる御方の裡に溶け沈む、これこそが最上の道。命じ給え、ただ一言「在れ!」11と。発せられる全ての言葉のうち真に芸術と呼べるのは、ただ御方の御言葉のみ。御方の御言葉はまさしく創造そのもの。
肉体を通じて御方との邂逅を求めれば、自ずと肉体の制約を受けることになる。かと言って、心ならば何の制約も受けないだろう、などと考えるのも早計に過ぎる。ことあるごとに泣いたり、笑ったり。心の方こそ、ひっきりなしにこの世のあれこれに揺れ動いているではないか。悲しみと喜び。このふたいろの感情、このふたいろの幻影に束縛されて生きる者の何と多いことか。確実なものなど、不変のものなど、この世には何ひとつありはしないのに。
愛とは緑したたる永遠の庭。そこにみのる果実は玄妙極まりない色彩をしている、それは悲嘆でもなければ歓喜でもない。愛はふたいろの感情を超える。永遠の庭、始まりを告げる春も訪れず、終わりを告げる秋も訪れない。愛よ、美しい上にも美しい御方よ。その御顔を見せておくれ。役人の眼は節穴に違いない、この美しい御顔という財に税を課さぬのだから。
その眼差しが、わが心に明かりを灯して魂を照らす。ほんの一瞬、ほんの一瞥をくれただけで、わが心臓を飛び上がらせ、私は息も出来なくなる。愛のためなら、私は私の血を流すことも厭わない。わしは言う、「愛よ、そなたに殺されるなら本望だ。そなたが殺すなら、それは合法だ」。
だがそんな口走りを聞いて、愛はたちまちわしの許から去ってゆく。愛には、嘆きの言葉は似つかわしくない。だが我らを嘆かせるのも、愛そのもの、愛の不在ではないか。愛は我らの心の上を蝶のようにひらひらと舞う、嘆きの鱗粉をまき散らしながら - 惜しげもなくあちらこちらに光を振りまいておきながら、何故この私を避けるのか。恋情を募らせ、焦燥にかられたこの私を見捨てるのか。
愛よ、わが恋人よ。甘い蜜の唇は、購おうとして購えるものではない。古ぼけてくすんだ世界に紛れ込んだ、生まれたばかりの鮮やかな魂よ。聞け、魂も心も失って、がらんどうの抜け殻となったわが肉体に響く泣き声を。薔薇の話はもう沢山だ、聞き飽きたぞ。薔薇が美しいのは分かりきったことではないか!語るならばナイチンゲールについて語れ、薔薇との別離を嘆くナイチンゲールをこそ語れ。
我らの感情は、悲嘆と歓喜に起因するものではない。我らの意識は、想像に起因するものではない。眼に見えないからといって、それが架空の産物であるなどということは断じてない。眼に見える領域とは異なる、もうひとつの領域は明らかに存在する。言うな、「私は信じない」などと。眼に見える領域の限界を知れ、それが神を知るということだ。
眼に見える領域に在るヒトの限界を知り、ヒトの判断の限界を知れ。悪行と善行の、ふたいろに分かつ思考の限界を知れ。知らぬものを、どうして超えることなど出来ようか。知らぬものを、どうして「信じない」などと言えようか。悪行と善行、悲嘆と歓喜。それらは全て生じせしめられたものであり、生じせしめるものではない。生じせしめられたものなど、やがては潰える。生じせしめる根源をこそ目指せ。
夜が明けようとしている。「ご加護を求める、わが黎明の主よ。その造りたもうた悪から、ふけゆく宵の悪から12」、 - そして一晩中私に付き合わされ、眠りそびれて寝ぼけ眼のフサームッディーンの恨みから。過ちを犯すのが我らなら、赦しを与えたもうのは御方。御方は万物の心と魂を、あまねく赦したもう。魂の中の魂よ、まるで珊瑚のように光り輝いている。
朝焼けの空は素晴らしい。数ある光のうち、朝の光は際立って輝きも格別だ。我らも朝の光の杯を遠慮なく酌み交わそう。御方に愛されたマンスール13の、ぶどう酒のご相伴に預かろう。御方の下される贈り物は、いつでも素晴らしくわが心をときめかせる。マンスール然り -
私は有頂天だ、こんなに上機嫌にしてくれるぶどう酒が他にあるだろうか。我らに比べれば、地上のぶどう酒など何ほどのものか。我らの酔いに比べれば、地上のぶどう酒の酔いなど何ほどのものか。我らの意識の飛距離に比べれば、旋回する天空など何ほどのものか。
いやいや、酔ってなどいない。酔っているのは我らではない。ぶどう酒の方こそ、我らに酔わされたのだ。天空の方こそ、我らに酔わされて廻っているのだ。我らは肉体に振り回されはしない、肉体に奉仕などしない。その逆だ、我らにこそ、肉体を奉仕させるのだ。我らが蜜蜂なら、肉体は蜜蝋を固めた蜂の巣だ。蜜を集めるのも、蜜蝋で巣を作るのも蜜蜂の為す仕事だ、蜂の巣の為す仕事ではない。
- 寄り道が長くなり過ぎた。そろそろ、商人とオウムの物語に戻るとしようか。あの善良な男に、何が起こったかを見るとしようか。かの商人は、燃えさかる炎のような悲しみのまっただ中にいる。苦悩に取り乱し、熱情に浮かされたような言葉の数々を、次から次へと狂ったように口走っている。
おぼれかけて息も出来ず、魂を苦悶に捉えられた者は、もがきながらも何かにつかまろうとする。それが藁であってさえ、手当たり次第につかまろうとする。正気を失うことは死にも等しい。死に怯え、恐怖にかられた者は手足をばたつかせて大暴れする。おぼれかけた者に手を差し出せば、助けるどころか、逆にもろとも危険に陥る場合の方が多い。
ところが我らが真の友(神)は、この種の動揺、この種の撹乱をこよなく愛したもう。我らが目を閉じて眠りこけているよりも、たとえ無駄と思われようが、あがき、もがき、助けを求めて叫ぶことの方を、より好ましいものとして慈しみたもう。王の中の王たる御方は、一瞬たりとも無為には過ごされない。たとえ御方が沈黙しているかのように見えても、その実、奇跡は絶え間なく起こり続けている。
「主は日々あらたなるみわざをなしたもう」。14慈悲深き御方の、この御言葉が意味するところもまさしくそれだ。忘れるな、奇跡は絶えず起こり続けている。あがくも良し、もがくも良し、だがあきらめるな。これと決めたら、一瞬たりともぼんやりとしてはおられぬ。投げ出さず、最後の息ひとつにまで誠心誠意の注意を払うことだ。
最後の息ひとつが、御方の御目にかなうことになるかも知れぬ。最後の息ひとつが、御方の贈り物を引き寄せることになるかも知れぬ。最後の息ひとつが、自分でも知らなかった新たな自分を連れてくることになるかも知れぬのだ。男女の別など、魂の王たる御方にとっては何の障壁にもなりはしない。誰であれ、魂の底から挑み続ける者の姿が、魂の王の御目、御耳に届かぬことなど決してありはしない。
- さて散々に涙を流した後で、商人は鳥かごの扉を開けてオウムをそっと手に乗せ外へと出した。鳥かごの外へ出されるやいなや、かわいらしいオウムはさっと羽ばたいて高く飛んだ。つい先ほど、商人の目の前で死んだとばかり思われたオウムは、光のような敏捷さで窓の外へ、高い木の枝に向って飛んだのだ。まるで東の空から昇る太陽の光のように素早く、確実に。
オウムの飛翔に、商人はただ驚くばかりだった。死なせてしまったとばかり思っていたのに、一体どうしたことか。次の瞬間、商人の脳裡にひらめくものがあった。何の知識も無いながら、商人は鳥の秘密を感知したのである。商人は鳥を見上げて言った、「オウムよ、いや、私の愛するナイチンゲールよ。ほんの少しだけ待ってはくれないか。私に、教えてはくれないか。
私はおまえが死んでしまったものと思い込んだ。だが本当のところ、おまえは私が話して聞かせたインドのオウムの真似をしてみせた、ということなのだろう?私を騙して、隙を見て飛び去っていこうという企てだった、ということなのだろう?」。
オウムは答えた、「あなたの仰る通りです。遠く離れたわが友人が、あなたにして見せたふるまいは、実のところ私に対する助言でありました。つまり、こういうことです、 - 『汝の声と、汝の主人への忠誠を捨てよ。汝の主人をして汝を鳥かごへ幽閉せしめたもの、それは汝の声と、汝の声を愛した汝の主人に他ならぬのだから』。
友人はあなたの目の前で死んだふりをして見せ、それを以て私への秘密の助言としたのです。友人の演技に込められた、私への伝言の意味はこうです - 『声を自在に操る歌い手よ、私と同じようにふるまえ、死ぬ前に死ね。いったん、自分を捨てるのだ。そうすれば善いものを授かるだろう』」。
あなた方が小麦なら、小鳥があなた方をつつき割る。
あなた方がつぼみなら、子供があなた方をつまんでひきちぎる。
小麦を隠して、罠とせよ。つぼみを隠して、屋根の雑草となれ。
何であれ、あなた方の美点を競り市に出せば、
邪悪な運命が襲いかかりあなた方の美点を奪い去ってしまうだろう。
何であれ、あなた方の美点を見せびらかせば、
怒りと妬み、悪だくみが、革袋からあふれる水のように、
あなた方の頭上へ勢いよく注がれるだろう。
- そして嫉妬に燃える敵どもが、
あなた方をばらばらに引き裂いてしまうだろう。
あなた方が友人と思っていた者でさえ、
あなた方から全てを奪い取ろうとするだろう。
春という季節は再生の季節、芽吹きの季節だ。
だが不注意に過ごす者はそれに気付かず、
種蒔きに適した時期と、適さない時期の違いを弁えない。
神への感謝を身の守りとせよ。
神の慈悲こそはまたとない逃げ処、
捧げた感謝が千倍にもなって我らの許へと降り注ぐ。
あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、
一体いくつの逃げ処を転々とし続けたのか。
ひとつでも、満足出来る居場所はあっただろうか。
神の慈悲を逃げ処と定めれば、
火も水も友となりこそすれ、敵にはならない。
ノアとモーゼを見るがいい、海は彼らの善き助け手となったではないか。
そして彼らの敵を、海はこの上なく無慈悲に滅ぼしたではないか。
アブラハムを見るがいい、火は彼の善き助け手となったではないか。
- そしてニムロードを見るがいい、
絶望のため息は黒々とした煙となって立ちこめ、
それでもなお燃え盛って彼の心臓を焦がし続けたではないか。
洗礼者ヨハネを見るがいい、
変貌の山は彼の善き助け手となったではないか。
彼を招いてその身を守り、岩のつぶてを次々と撃ち、
彼をつけ狙う敵を追い払ったではないか。
山は言ったではないか、 -
「ヨハネよ、こちらへ来い。私を逃げ処とせよ」と、
「おまえを狙う鋭い剣の切っ先から、私がおまえを守ろう」と。
商人とオウムは、一言、ふたことの言葉を交わした。商人がオウムの言葉をこれほど深く味わったのは、もしかするとこれが初めてであったかも知れない。その様子を見てとったオウムは、「さようなら」と別れの言葉を告げた。「さようなら、さようなら」、商人は応えた。
「もう行きなさい、神がいつでもおまえを守りますように!一度は死んだおまえに、神は新しい日々を授けて下さるだろう。たった今、おまえが私に新しい道を示してくれたのと同じように」。飛び立つオウムを見送りながら、商人はひとりごちた。「鳥かごから自由になったのはオウムだけではない。私もまた、古いものの考え方から自由になったのだ。
私も、あのオウムと同じ道を歩むとしよう。ものごとの、表面だけを見るのではなく、その奥の奥にある知恵をこそ見るように努めるとしよう - 知ってみれば、この道の何ときらきらと輝いていることか。オウムにものを教わるなどと、以前の私なら思いもよらなかっただろう。あんなに小さな鳥ですら、その魂はより善い道を求めるのだ。私の魂が、より善い道へと私を導きますように!」。
肉体は鳥かごのようなもの。魂は、鳥かごに閉じ込められた鳥のようなもの。口車にのせられて自ずから鳥かごに閉じ込められることもあれば、褒めそやされ、おだてられて鳥かごから離れられなくなることもある。うぬぼれをくすぐる言葉はすべて、魂にとってはちくりちくりと突き刺す棘のようなものだ。
ある者は言う、「あなたの親友は私ですよ」。またある者は言う、「いやいや、私こそはあなたの味方ですよ」。またある者は言う、「あなたほど美しく、気高く、情け深く寛大な人など、どこを探してもいませんよ」。負けじとばかりに、またある者は言う、「現世も来世も、あなたの望むままですよ。私も私の仲間達も、あなたのおかげで生き存えているようなものです」。
人々が自分と杯を交わしたがっているのを見れば、人々に求められ、欲されているのを見れば、自制心もゆるんで次第に傲慢になっていく。このようなことは今までにも何千、何万と繰り返されている。破滅へと向って流れる川の横に、悪魔が立っている。泳ぐことも出来ないのに、泳げるかのように思い込んだうぬぼれ者を、目ざとく見つけて溺れさせるのが彼の仕事だ。
世辞と欺瞞は現世のいたるところに出回っている。それは一口でつまめる甘い菓子のようなものだ。菓子はほどほどにしておけ。最初の一口は甘く感じても、後々になってのどがひりつく。腹にたまった菓子は、やがて炎になって内臓を焦がす。最初の一口は炎には見えない、だが後々になってのどの奥から煙が立ちのぼるようになる。
「私はそれほど騙されやすい人間ではないぞ」、と言う者がある。「世辞を言うのも、何かしら下心があってのことだ、そんなことは見抜けているさ。こいつがどんな見返りを欲しがっているのか、どれ、暇つぶしに見ていてやろう」。だが世辞を言う者の魂胆など問題ではない。自分の問題であることに気付けぬのが問題だ。他人の欲は見抜けても、自分の欲を見抜けぬことが問題だ。
誰かしらに、人前で批判や皮肉を言われれば、それから数日の間は悔しさに胸が焼け焦げるような思いを味わうだろう。批判の言葉をぶつけた者は、よほど相手に高い希望を抱いていたのだろう。批判されて口惜しいのは何故か。究極には、相手を失望させてしまったことを否も応もなく思い知らされるからだ。時が過ぎれば、やがて悔しさは薄れてくる。だが相手を失望させたという思いは、様々なかたちで後々まで影響を及ぼすだろう。
これが批判の言葉ではなく、逆に賞讃の言葉であっても、同じことが起こりうる。だが突き刺さるような苦い批判の言葉とは違い、すぐには理解できないだろう。なぜなら、賞讃の言葉は甘く耳に心地よいからだ。批判や非難の言葉は苦い。煎じ薬や練り固めた錠剤と同じで、飲みくだすのは容易ではない。ようやく飲みくだしても、口にも喉にも嫌な味と匂いがいつまでも残り続ける。
しかしハルワのように甘い菓子なら、ほんの一瞬で食べ終えてしまえる。実に簡単、実に安楽。世辞もこれと同じだ。ほんの一瞬だけの楽しみ。その楽しみは、後々まで続くものではない。楽しみが続かないからといって、だが何ひとつ残らない、ということではない。わずかづつでも、気付かぬうちにそれは沈殿してゆくのだ。
知ると知らざるとに関わらず、全ての事象は連関している。全ての事象には、その対極が存在している。砂糖を食べ続けていれば、甘い楽しみが過ぎ去った後でもその影響は残る。やがて甘みは出口を求めて、吹き出物を生じさせる。捧げられたありあまるほどの賞讃をファラオは楽しんだ。やがてその賞讃が、ファラオを滅ぼすことになったのだ。
全てを手に入れようなどと思うな、穏やかにふるまい、謙虚さを保て。選ばねばならぬものならば、可能な限り奴隷であれ、君主ではなく。選ばねばならぬものならば、可能な限り打たれる球であれ、打ち付ける棒ではなく。たとえ今は持てる者であっても、いつ何どき持たざる者になるかは誰にも分からないのだぞ。
全てを失い、何ひとつ持たざる者になったとき、仲間と思っていた人々もきびすを返して立ち去って行く。持てる者に群がり、機嫌を伺い、世辞を使って欺くことで現世を渡ろうという人々はごまんといる。そうした人々というのは、相手が持たざる者と見れば、あべこべに罵りの言葉を投げつける。持たざる者が彼らの扉の前に立ち、ほんのわずかな慈悲を乞うても、彼らは言う、「死人が墓場を抜け出して、こんなところで何をしている。墓場に帰れ、ここにはおまえの居場所などないぞ」。
- そうそう、まだ髭も生え揃わぬ、骨も固まらぬ年頃の少年を、神の創りたもうた美の極地、などとほめそやし、崇めるようにもてなし、臥所に引き込む連中がいる。それで神秘主義者を名乗るのだから唾棄すべき輩どもだ。
少年達もやがては成長し、一人前に顎髭をたくわえる年頃になる。するとどうだ、あれほどちやほやと可愛がっていたくせに、手のひらを返す。彼らの後を追い回すのをぴたりとやめて道端へ放り出す。外道中の外道め、下衆め。あのような連中、美など理解できているはずがない。悪魔の所業でも何でもない、あれらはヒトだ。そしてあれが、あの連中の本性なのだ。
悪魔ですら、あの連中を避けるだろう。悪魔の仕事は善人を悪と不正に引きずり込むことだ。だがあの連中、居ながらにして悪魔よりも十分に悪い。人間が人間である限り、悪魔は常につきまとうもの。ほんの一口、飲んでみないか、と、親しげに彼の杯を差し出してくる。だがろくでなしがろくでなしを好むとは限らない。悪業が骨の髄まで染み付いている者のところなど、悪魔でも走って逃げ出すだろう。
かつて衣の裾にまとわりついていた者が一人、また一人と去って行く。批判する者も、賞讃する者も居なくなる。去って行く者達を悪い、と言ってももう遅い。後に残るのは、去って行った者達よりもなお悪い自分だけだ。
*1 ファリードゥッディーン・アッタール ニシャプール出身の神秘主義詩人。1221没。自ら詩作しただけではなく、神秘主義詩人達の伝記を著すなどもしている。
*2 コーラン20章65節。 「彼らは言った、『モーセよ、おまえが投げるか、それとも、われわれが先に投げようか』」
*3 コーラン7章204節。 「コーランが朗読されているときは、沈黙して耳をかたむけよ。そうすれば、きっとお慈悲がいただけるであろう。」
*4 コーラン2章189節。 「新月について汝に尋ねる人がいれば、答えてやれ、『それは、人々のため、また巡礼の時節の目やすである』。ほんとうの敬虔とは、裏口から家に帰ることではない。ほんとうの敬虔とは、神を畏れる者のことである。入口から家に帰り、神を畏れよ。おそらくおまえたちは栄えるであろう。」
*5 コーラン2章106節。 「もしわれらがいずれかの啓示の文句を抹消したり、あるいはわざと忘れさせたりする場合は、それよりもよいものか、またはそれと同等のものを授けるようにしている。神は全能におわすことをおまえたちは知らないのか。」
*6 コーラン23章110節。 「おまえたちは彼らを笑いものにし、そのためにわしを念ずるのを忘れた。おまえたちは彼らを嘲笑<ちょうしょう>していた。」
*7 コーラン90章4〜5節。 「われらは、人間を苦難の中に造った。彼は、だれ一人おのれを左右するようなことはないと思っているのだろうか。」
*8 「لا(La:否)」に始まり、「الله(Allah:神)」で終わるイスラム教徒の信仰告白の文言「la ilaha illa Allah」を指している。
*9 ハキーム・サナーイー ガズナ出身の神秘主義詩人。1131没。ガズナは現在のアフガニスタン。ルーミーは、サナーイーと前述のアッタールという二人の詩人について「アッタールはわが魂、サナーイーはその両目だ。私(の詩作)は、この二人に学ぶところが大きい」とも述べている。
*10 「ミフラーブ」とはモスクの礼拝堂内部の、聖地メッカに面する壁に設けられるアーチ型の壁龕<へきがん>。イスラム教徒は礼拝の際にミフラーブの設けられた壁、すなわちメッカの方角に顔を向ける。
*11 コーラン16章40節。 「われらがなにごとかを欲するならば、ただこれに、『あれ』と言いさえすればよい。そうすれば、そのとおりになる。」この後に、蜜蜂をモチーフにした譬え話が出て来る。コーラン16章が「蜜蜂の章」と呼ばれていることからの連想。
*12 コーラン113章。 「言え、『私は黎明の王にお加護を求める。その造りたもうた悪から、ふけゆく宵の悪から、結び目に吹きかける老婆の悪から、妬<ねた>む者が妬むときの悪からのがれて』」
*13 マンスール・ハッラージュ ペルシャの神秘主義詩人。922没。「われは真実なり」「わが衣の下には神のみが存在する」といった言葉を口にしたことから危険人物とみなされ、バグダードの牢獄に幽閉されたのち当時の支配者であったアッバース朝政府によって異端者もしくは冒涜者として処刑された。ルーミーは、ハッラージュを「愛の殉教者」と評した。
*14 コーラン55章29節。 「天地にあるものはすべて主に願い求める。主は日々あらたなるみわざをなしたもう。」
「商人とオウム」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー