مثنوی معنوی - "Mathnawi ye-Manawi" Mawlana Jalal-Din Muhammad al-Balkhi Rumi
index > bookworm > 『精神的マスナヴィー』1巻
「獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー
多くのけもの達が住まう谷があった。申し分無く心地よい谷だった。ただ一つ、ライオンがしばしば略奪のために谷を訪れるという点を除いては。ライオンは物陰や茂みに潜んで待ち伏せし、気付かずに通り過ぎるけもの達を襲っては連れ去った。そのせいで、緑に満ちた優雅な谷は、けもの達にとって不快な谷になりつつあった。
そこでけもの達は計画を立てた。彼らはライオンの許へやって来て言った - 「あなたが満足出来るだけの食事はこちらでご用意いたします。ですが私達が用意する分以上の餌食を求めるのはやめて下さい、私達を狩るような真似はしないで下さい。あなたのせいでせっかくのおいしい草も、近頃では苦く感じます」。
「良かろう」、ライオンは答えた。「だがおまえ達が正直かどうかを確かめなくてはならん、嘘つきばかりの世の中だからな。人間どもを見るがいい。やれザイドが騙した、やれバクルに騙されただのと絶えず大騒ぎしている。陰謀や悪意にはうんざりだ、蛇に噛まれたり蠍に刺されたりするのは御免だ。
だが陰謀や、それと分かる悪意よりもなお悪いのは、こっそり隠れて隙を狙う無自覚の欲望だ。預言者の言葉を知っているか? - 『信仰者は同じ過ちを二度繰り返さない』。おれの耳はこれを聞き、おれの心と魂はこれを固く守っている」。
けもの達は口を揃えて言った。「多くの知識をお持ちなのですね、賢者様。あまり警戒なさらないで下さい。第一、どれほど用心したところで、神が一声お命じになれば全てが水の泡。疑り深くなってみても、良い事なんて何もありません。心配や悩みを増やすよりも、試しに、全てを神にお任せしてみちゃあいかがです?神を信じた方が良い事だってありますよ。
「それにしても、運命とまともに向き合おうだなんて。気性が荒いというか激しいというか。まあともかく、運命に喧嘩を売るような真似はなさらない方が身のためですよ。万が一、運命が喧嘩を買って出たら、あなた、どうなると思いますか。神の思し召しによって、どちらか一方が死ぬに違いありません。黎明の主のご加護(コーラン113章1節)を求めたところで、死んでしまえばおしまいですよ」。
「うむ」、ライオンは言った。「神を信ずることこそが真の導き、それは確かにその通りだ。だが同時に、目的地へ辿りつくための手段として、預言者のسنة(スンナ:法則)がある。預言者は大きな声で仰った、『神を信じ、神に祈れ。だが同時に、汝の駱駝を繋いでおけ』とな。
そして、聞け、預言者はこうも仰った、『稼ぐ者、働く者を神は愛し給う』とな。 - この言葉は重要だ。神を信じるということは、頭を使わんで良いということではないぞ。手段や方法に無頓着であっても構わない、ということでは決してないぞ」。
けもの達の仲間はライオンに答えて言った - 「稼ごうと努力すること自体、そもそも欠けてるものを埋めようという行為じゃありませんか。どれだけ知恵を働かせようが、足りない頭ではそれ相応の結果しかついてきやしません。小鳥が、くちばしに見合った分しかついばむことが出来ないようにね。そもそも、我々をか弱くお創りになったのは神様ですよ。
『働け』と仰るのなら、神様を信じることほど大切な仕事はありませんよ。『努力しろ』と仰るのなら、神様の定めた運命に従って、全てを委ねることほど優れた努力もありません。大体、努力と言ってみたところで、結局はこっちの悩みの落とし穴から抜け出して、あっちの悩みの落とし穴に落っこちるぐらいが関の山。蛇を見つけて慌てて引き返した途端に、竜と鉢合わせするようなものです。
人間どもをご覧なさい。次から次へと、色々なものを考案したり発明したりして得意げになっているけれど、結局はどれもこれも自分を嵌める罠になっているではありませんか。生命を賭けた大仕事のつもりが、生き血を搾り取って生命を破壊する道具にしかなっちゃいない。あれでは、自分で自分の首を絞めているようなものだ。
敵をお屋敷に残したまんまで、扉に鍵をかけようと言うんですから馬鹿馬鹿しいや。ファラオの物語をご存知でしょう?あれなんぞは良い教訓です。執念深いあの男(ファラオ)は、何十万人もの赤ん坊の首を刎ねました。ところが探し求めていたたった一人の敵(モーセ)は、何となんと、自分のお屋敷に住んでいたというわけです。
いくら用心に用心を重ねたところで、私達に見えるものなんてたかが知れています。あなたご自身の考えなんていうものは何の役にも立ちはしません。物事を見るなら、自分自身の眼ではなく友(神)の眼をもって見るようにしなくては。御方の眼こそは私達のためにあるもの - 何て素晴らしい恩恵でしょう!御方の眼を通して物事を見れば、欲しいもの全てを見つけることだって出来るのですから!」。
けもの達は続けて言った - 「子供の頃を思い出してみましょうよ。走ることも出来ないし、何が何だか分かっちゃいません。どこでどうすれば良いのかも分かっちゃいませんが、お父さんの首にしがみついていればともかく万事安泰、それが子供というものです。
それがどうです!大人になって手も足も自在に動かせるようになって、あれだのこれだのに手を出すようになると、たちまち厄介な事や面倒な事、とんでもない不幸に巻き込まれるようになってしまいます。手足よりも先に創られたのが魂というもの。人間の魂だって、手足が生えるその前は、それはもうとびっきり清浄で純粋なものでしたよ。
それなのに、神様に『汝ら、降りて地上へ行け(コーラン2章36、38節)』と命じられた途端に、怒りや欲望に手を染めるようになってしまいました。私達は主の子供みたいなものです、乳を欲しがって無く赤子みたいなものです。預言者だって仰ってるじゃないですか、『人と神とは家族である』と。
御方は、そのお慈悲をもってすれば、天から雨を降らせることもお出来になるのですよ。私達にパンを与えることだって、雑作もなくお出来になるでしょうよ」。
「うむ」、ライオンは言った。 - 「だが汝らが今言ったことと同時に、我らを統べる主は、我らの足許にひとつの梯子を置き給うた。一歩づつ、一段づつでも、梯子づたいに頂上へ目指せとの主の思し召しだ。この梯子を目にしながら『誰かが替わりに登るだろう』と放ったらかして、愚にもつかぬ戯れに興じている。そういう汝らのような者共を宿命論者というのだ。
汝らの脚はどこにある。脚を与えられていながら、それを使わぬ理由があるか。汝らの手はどこにある。手を与えられていながら、それを使わぬ理由があるか。無言の主人が下僕の手に鍬を持たせたなら、主人の舌から言葉が転がり落ちずとも、下僕の為すべき仕事は知らされたも同然ではないか。
汝の手を鍬と思え。御方から、暗黙のうちに命じられている御しるしと思え。無言の言葉を思索する能力、思想を紡ぐ能力も同様だ。汝が御方の御しるしを心の裡に受け入れるならば、その後は御方の意志をまっとうすることに一生を捧げて過ごすようにもなるだろう。
隠された奥義を理解するために、御方は多くの御しるしを示して下さる。おまえの背負う重荷を取り除き、替わりに権限を明け渡して下さる。重荷を背負うのは苦しくはないか?御方は取り除いて下さるぞ。御方の命令は届いたか?受け入れよ、そうすればおまえを受け入れて下さるぞ。
御方の命令を受け入れたならば、おまえは御方の代理者となろう。おまえが求めてやまぬ御方との合一もまた、おまえの求める通りになろう。自由意志とは、御方の恩恵に感謝する努力の術に他ならぬ。自由に振る舞う力を与えられたことに感謝すればするほど、おまえの力も増すだろう。 - この神聖なる贈り物を、おまえの手から取り上げてしまうのが宿命論だ。
おまえの語る宿命論は、旅の途上で眠りこける事にも等しい。眠っている場合か!眠るな、眠りこけて御方へと至る門を見ずにいたのでは、後で泣くのはおまえなのだぞ。用心せよ、用心せよ!眠るな、不注意極まりない宿命論者どもめ。おまえがもたれて眠るその木の枝に、恩恵の果実がたわわに実っているとも知らずに。
見ろ、風が大木の枝を揺らして果実を落とすぞ。果実はおまえの喉と心を潤し、おまえの旅を助ける糧にもなるだろう。宿命論者という輩は、追いはぎ共のただ中で眠りこけるも同然のことをやらかす。旅立ちの時を逃した鳥が、どうして目指す土地に辿り着けるだろうか?
御方の御しるしをそれと知りながら鼻であしらう時、おまえは自分の振る舞いをいかにも男らしいと考えている。だが更に深く考えるならば分かるはずだ、それは浮気女の振る舞いであると。おまえのちっぽけな理解など捨ててしまえ!何の役にも立たぬ。 - 知っているか?おまえのちっぽけな理解こそが、おまえの頭をおまえ自身から切り離すことを。
おまえ自身から切り離されてしまえば、頭と尻尾に何ほどの違いがあろうか。忘恩は不正と不義を連れて来る。そして忘恩の者を火獄の底へ連れて行く。神を信じるのならば、おまえの役目を果たせ。神を信じるのならば、おまえの為すべき仕事を通して信ぜよ。 - 種を蒔け、全能の御方に祈るのはそれからだ」。
そこで(けもの達)全員は、口々にライオンに対する恨みがましい非難の声をあげた。「そら、そら!あなたが蒔いたその種、強欲な者達が蒔いた意地の悪い種、それこそが問題の発端なのですよ。数えようにも数えきれないほどの男達、女達がさんざん種を蒔き散らしてきました。それが良いことだと仰るのなら、彼らが収穫を得るどころか、自らの運命まで刈取られる羽目に陥ったのは一体どうしたことでしょう?
世界の開闢以来、いつの世においても、竜の顎のように口をぱっくりと開ける貪欲な人々がありました。自由意志っていうのは、賢い人々の思いつきから生じた策略みたいなものですよ。そんな大それた権力でもって、一体何をなさろうと言うんです?山を根こそぎひっくり返そうとでも?。
彼らの策略については、壮麗なる御方も語っておられますよ。彼らの狡猾さについて、御方はこう仰ってます - 『山の頂上をも変えるかも知れない(コーラン14章46節)』とね。『だがそれも、すでに来世において定められた範囲でのみの変化に過ぎない。彼らの陰謀も悪行も、定められた物事を何ひとつ変えることは出来ない』、ってね。
百獣の王よ、仕事などというものは限りなく無に等しいものです。あなたを蝕む悪い知恵を捨てておしまいなさい。努力などというものは限りなく無に等しいものです、百獣の王よ。夢想は今すぐ捨てておしまいなさい!」。
閑話休題:アズラエル、ソロモン王、ソロモン王に助けを乞うた者
ある日の昼前のこと。高貴な身なりをした自由民らしき男がやって来て、ソロモン王の法廷へ駆け込んだ。彼の顔色は苦悶のために血の色も薄く、唇は青ざめていた。そこでソロモン王は彼に話しかけた。「よろしい。何があったのだ?」。男は答えた。「今しがた、死の天使アズラエルに出逢いました。彼は怒りと憎しみに満ちた目で私を睨みました」。
「こちらへ」、ソロモン王は言った。「それで、貴殿の望まれることは?何でも言ってみるが良い!」。「ああ、我が命の守護者よ」、彼は答えた。「どうか風に命じて下さい、私をインドまで運ぶように。王よ、貴方のしもべを助けると思って、どうか願いを聞いて下さい。インドまで離れてしまえば、私も死を逃れて生き存えることが出来ましょう」。
人間は欠乏に耐えられぬ。人間は不足に耐えられぬ。それゆえに、不足からの逃亡を試みる。そしてそれゆえに、見よ、貪欲と、過剰な期待とに一口で丸呑みにされる。欠乏への不安とは、すなわちこの男の抱える恐怖のようなものだ。はるか遠く、インドへ赴いてまでも死から逃れようとする - これを貪欲と呼ばずして何と呼ぼうか。
ソロモン王は風を呼び出した。そしてこの男と共に水上を越え、インドの最も奥深くへ連れ去るように命じた。
明くる日の同じ時刻に、ソロモンは彼の法廷で死の天使アズラエルと会っていた。ソロモンはアズラエルに言った。「昨日、あるムスリムと貴殿の話をしたのだ。貴殿は彼を怒りもて睨みつけたと聞いた。何故だ?彼がおとなしく家で貴殿を待たずに、逃亡を企てると知ってのことか?」。
アズラエルは答えた。「私が彼を怒りもて睨みつけた、だと?まさか。確かに昨日、彼と通りですれ違いざまに目が合った。怒ってなどいない、ただ驚いただけだ。何故なら、私は神にこう命じられていたからだ - 『汝、今日はインドの奥深くへ行きあの男の魂を得よ』と。
それで私は不思議に思ったのだ。『はて、この男、何故にインドではなく此処にいるのか?百の翼があったとて、今日中にインドに辿り着きはすまいだろうに』とな」。
世界で起こる出来事の全てはかくの如しだ。 - 目を開け、目を開いて良く見るがいい!
一体、何から逃げようというのか?我ら自身から?何たる不合理!
一体、何から逃げようというのか?神という存在から?何たる茶番!
「うむ」、けもの達の言葉にライオンは答えた。「だが同時に、預言者達と真の信者達の努力についてはどう考えるのか? - 神にこそ称賛あれ!御方は彼らの努力を無には為さらなかった。彼らを苦しめた試練も迫害も、また昼の暑さも夜の寒さも、全ては御方の許から届けられたもの。
だが彼らは全てを乗り越えた。彼らは優れた人々だった。善い人が行なえば、全てが善だ。彼らこそは、天上の鳥をその罠に捕えた人々。彼らの不足は、それによって全て満たされたのだ。努力せよ、努力せよ!預言者達と聖者達の方法に学び、彼らの通った道を往け!」。
- さて、努力とは何か。それは運命に歯向かうことと同義ではなく、運命と闘うことを指すのでもない。見よ、運命それ自身が、努力を銀の盆に乗せて我らの眼前にうやうやしく掲げるのを。信仰もて誠実に道を歩むのみだ。この道において損を被ることなど一切ない。もしも損を被った人がいるのなら、その時こそは私を異教徒と罵るがいい。
おまえの頭は壊れてなどいないのに、包帯を巻き付ける必要がどこにある?ほんの少しだけで良い、善き事に励め。それが一番の治療だ。一生は短い。ほんの少し善き事に励むだけで、永遠に笑顔を絶やさずにいられよう。
悪しき者とは、現世を得ようとありとあらゆる手段を尽くす者。善き者とは、来世を得ようとありとあらゆる手段を尽くす者。現世を得ようと企てたところで、何の価値があろうか。だが現世を捨てようと企てるならば、それはまさしく(神の)鼓吹によるものだ。
正しい企てとは、すなわち自分を閉じ込める監獄に穴を掘って逃げ出すことだ。愚かな企てとは、その穴を塞いで監獄を完璧なものとすることだ。監獄とはすなわち現世であり、我らはその独房にばらばらに閉じ込められた囚人だ。穴を掘れ、おまえ自身を独房から、ひいては監獄から解放するために!
現世とは何か?それは神を忘却せしめる世界のことだ。品物は溢れ、貨幣が行き交い、何もかもが秤にかけられ値札をつけられる、何もかもが売り買いされる世界だ - 女までもが。
否、富を所有することの全てを否定しているのではない。信仰を伴わぬ富の所有を否定しているのだ。かつて預言者はこう語られた、「正しき人の手にある富の、なんと素晴らしいことか!」と。富と所有への欲望を心の中から投げ捨てたが故に、ソロモン王は彼自身を、他の何ものでもなくただ「貧しき者」とのみ名乗ったのだ。
舟の中に入り込めば、水は舟を沈めてしまう。だが舟の下にある限り、水は舟をどこまででも運ぶ。蓋をされた瓶を荒れ狂う波間に投げ入れても、瓶が風で満たされている限り(空っぽである限り)、水面より下に沈むことはない。心もこれと同じだ。不足を嘆く嵐が吹き荒れようとも、空の瓶ならばひたすら安らかに、ただ世界の水面を浮くのみだ。
たとえ現世の全てが彼の有する王国であろうとも、彼の心の眼を通して見るならば、王国など何ほどの価値もない。ならばおまえもソロモン王に倣い、心という瓶の口に蓋をして封印を施せ。心という瓶を、神の吐息で満たせ。
- いずれにせよ、努力は現に存在する、病と薬が同時に存在するように。疑り深く努力を否定する者でさえ、努力を否定すべく躍起になって「努力」しているではないか。
このようにして、ライオンは多くの証明をしてみせた。そのため、論破された宿命論者達はすっかり問答に疲れ切ってしまった。狐と鹿、兎とジャッカルは宿命論の教義を取り下げ、議論から退いた。たけり狂うライオンと、彼らは契約を交わした。取引においてライオンが損失を被らぬよう、日々の糧が滞ることなくライオンの許へ送り届けられるよう、また定められた糧よりも多くを求めぬよう。
それから毎日というもの、けもの達の間でくじ引きが行なわれた。くじ引きに負けた者は豹よりも速くライオンの許へと走り去り、二度と戻ることはなかった。やがて(死の)杯を飲み干す番が兎の許へ廻って来た時、兎は身もだえて泣き叫んだ - 「何故だ、何故だ!一体いつまで我々は、このような暴虐に耐えねばならないのか!」。
けものの仲間達は口々に言った。「今さら何を言い出すのだ。今日の今日まで、命を犠牲にして我々はこの契約を忠実に誠実に守り続けてきたのだ。我々の名を汚すよう真似は許さんぞ、この反逆者め!さあ行け、ライオンが機嫌を損ねる前に。行け、行け!速く、速く!」。
「ああ、友よ、友よ、」兎は言った。「少し時間をくれないか。私の知恵をもってすれば、あなた方は災難から逃れられるかも知れない。私の知恵をもってあなた方の命を救えば、それはあなた方の子孫への置き土産ともなるだろう」。 - ありとあらゆる災難と、それに続く解放の場面において、全ての預言者達もまた、このように人々に語りかけたものだ。
預言者達は物事を俯瞰する。天を通じて、危機からの出口を見出す。だが(彼の仲間達は)恐怖に怯え勇気を失い、瞳孔も縮み上がって何も見えなくなっている。人間は自分自身について非力で、無力な、瞳孔のようにちっぽけな存在だと思い込んでいる - 瞳孔の、偉大な働きもその価値も、本当のところは全く理解していないにも関わらず。
けものの仲間達は言った。「おまえ、一体いつから驢馬(愚か者)になったのだ?我々の言う通りにするんだ!兎なら、兎らしくしていろ!何を思いついたのか知らないが、そんなことは自慢にもならないぞ。
偉そうに、目上の者にその態度は何だ。おまえの思いつきなど、誰かが以前にも思いついたことと同じに決まっている。おまえが自惚れているのか、はたまたこれも運命か。いずれにせよ、おまえなど利口ぶった演説をするのに相応しい身分ではないぞ」。
彼(兎)は言った。「違う、違う。友よ、聞いてくれ。神が私に知恵を閃かせたのだ。『弱きものほど賢きもの、弱きものほど学ぶもの』と」。神は、それぞれに相応しい賢さと知恵を与えたもう御方。ライオンや、野生の驢馬に教え給う知恵と、蜜蜂に教え給う知恵は明らかに違う種類のものだ。
蜜蜂の住処を見よ。彼らは汁気たっぷりの甘い菓子を蓄えている。それは蜜蜂のみがなし得ることだ - 神が(蜜に関する)知識の扉を、彼らに開け放ちたもうたのだ。それと同じような知恵は、蚕にも備わっている。象を見ろ、蚕を踏みつぶせるほどの巨体ではあっても、象には蚕のように絹を紡ぐ知恵など一欠片も備わってはいない。
アダムは泥土によって創られ、神によって知識を学んだ。(彼の)出自は卑しくとも、その知識が放つ光は無上の天界をも貫くだろう。彼(アダム)は天使達の自尊心を粉々に打ち砕いた。中でも高慢な「あの者」の、神に関する無知を暴いた - 「あの者」とは、すなわち若い仔牛(アダム)の鼻輪とされた者(=イブリース)。神により、幾千の年月に渡って禁欲の苦行を強いられる者。
「あの者」は、宗教に関する知識の乳を飲むことも叶わず、そびえ立つ神の城の周囲を散策することも赦されてはいない。唯物論を支持する者にとって、肉体の感覚とは鼻輪のようなものだ。鼻輪に引き摺られて遠ざかり、崇高な知識の乳を受取ることも叶わない。
心臓の奥深く、中心に据えられたひと滴の宝石を見よ。それは御方がかつて海にも、空にも与えなかった秘宝の中の秘宝だ。それでいて、何故いつまでも外面に囚われ続けるのか?偶像を崇拝してやまぬ者よ。現実を直視することを避けるおまえの魂は、一体いつになればまやかしを離れるのか?もしも外見を形作る物質のみが人間の全てであったなら、アハマド(ムハンマド)とアブー・ジャフルの間に何の相違も無かっただろう。
アダムは壁に描かれた絵画のようなものだ。絵画は美しい、だが何かが欠けている - 欠けているのは何だ?精神だ、それ無しには如何に燦然と輝こうとも空っぽの絵画に過ぎぬ - 行け、宿るべき精神を探せ!探せ、またとない貴重な宝石を!
「洞窟で眠る若者達を思え(コーラン18章10節)」。彼らと共にあった犬を思え。神がかの犬を愛でられ、その御手を額に置き給うた時、世界中のライオン達は犬の前にその頭を低く垂れたのだ。外見で判断することの何という愚かしさか。神は若者達と共にあった犬の心をこそ愛で給うた。神の愛をもってすれば、獣であってさえも光の海へ通ずる。
書記達はおまえの外面になど興味を持たない。彼らの筆は、おまえが真に「学んだ」か、そして「正しい」かを記録する。「学んだ」か、そして「正しい」か。精神的な事柄の本質はこれに尽きる。そして本質とは、「あそこにある」だの「ここにある」だの、前だ、いや後ろだ、などとやっていれば見つかるような「モノ」などでは断じてない。
精神を照らす太陽の光は、「どこ」という場所を持たぬ方角から差し込んで来る。その太陽は、我らが見ているあの「空」に包含しきれるものでは断じてないのだ。
これは話し始めるとキリというものが無い。ええい、集中!無駄話はこの位にして、兎の話に耳を傾けてみよう。おまえの頭の横にくっついているそれ、その耳。そんな役に立たないものは売っぱらってしまえ。替わりにもうひとつ、別の耳を買って来い。肉の耳は愚かだ。この物語を真に「聞く」のは、肉の耳ではとても無理だ。
さあさあ、兎が仕掛けた狐のごとき策略を見てみよう。一体何を用いて、兎はライオンに一杯喰わせようというのだろうか。 - 知識だ。知識こそはソロモンの王国へと通じる鍵。世界は肉体であり、知識はその精神である。世界という器を、知識という水が満たしている。
知識ある者の前に、獅子も豹も鼠のように怖れて震える。 大河をわがものとする鰐が驚愕し青ざめる。妖精も悪魔も、知識ある者を見れば怯えて、 それぞれの隠れ処へと逃げ去り扉に鍵をかけて隠れる - 人間には隠れた敵があるというのはそのためだ、用心深い者ほど賢く学ぶのもそのためだ。
未だ明かされぬ知識には、善いものもあれば悪いものもある。それらの全てが絶え間なく、心めがけて力まかせにぶつかってくる。川へ赴いて、沐浴のために水に入る。おまえの足裏を、何かがちくりと刺す。棘が水底に隠れて眼に見えなかったとしても、足裏に伝わる痛みが棘の存在をおまえに知らせる。これと同じだ。
天使の霊感と悪魔の誘惑とが、 - ひとつではない、無数のそれらが - ありとあらゆる方角から、ありとあらゆる存在を通じて押し寄せてくる。気長に、だが怠ることなく感覚の全てを研ぎ澄ませて待て。捨て去るべきものを捨て去り、選び取るべきものを選び取れる、 もうひとつの感覚が育つのを、用心深く待て。(そうすれば)困難は取り除かれ、やがて聞くべき価値のある言葉と、拒絶すべき言葉の違いを知ることも容易になるだろう。
さて、さて、兎を取り巻く他のけもの達は言った。「ふん、小賢しい奴め。それなら、おまえの考えというやつを聞かせてもらおうじゃないか。分かっているのか?相手はライオンだぞ、我々は途方もなく大きな問題を抱えているのだぞ。さあ、さあ、おまえの計画を語ってもらおうじゃないか」。
助言はありがたく聞いておくもの、それは認識を矯正し理解を助けるもの。心は、常に(他の)心によって助けられるというもの。預言者は言っている、「お互いに助け合え、お互いに知恵を出し合え。そのようにして、最も信頼に足る言葉を探し出すが良い」と。
兎は答えた。「今ここで、全ての秘密を明かすことは出来ません。サイコロをご覧なさい。数ですら時には偶数、また時には奇数となって自らの秘密を守るじゃありませんか。ばか正直に、何でも喋れば良いというものでもありません。たとえ汚れを落とすためだとしても、息を吹きかければ鏡はたちまち曇って何も見えなくなる」。
出自、財産、それから宗教。この三つに関しては、何も言わずに唇を閉じて黙っているのが最も良い。この三つに関して語るには、あまりにも敵が多過ぎる。彼らは常に、誰かが口を開いて(この三つについて)何か言い出すのを、今か今かと待ち構えている。ほんの少数の者にだけ、こっそりと打ち明けたつもりでも無駄なことだ。次の瞬間には、秘密に別れを告げることになろう。
秘密は一人で守るもの。二人以上が秘密を知れば、たちまち海の向こう側まで知れ渡ることになる。二、三羽の鳥をひとつ処にくくり付けてみると良い。おとなしく、罠にはまってじっとしているように見えるだろう。だが実際には、ただそのように見せかけているだけだ。油断させておいて、どのように罠から逃れるのかをこっそり算段している。
預言者に学べ。彼の振る舞いにはこれと良く似ている。物事を話し合う時はあたかも何も知らぬかのように人々に尋ね、決して真意を悟らせる事は無かった。話す時は、言葉ひとつにも二重、三重の比喩と暗喩を用いた。潜んでいるかも知れぬ敵に、全てを知られることの無いようにと考えてのことだったのだ。そのようにして、彼(預言者)は敵からすらも答えを引き出したのだった - 知ろうとするところを、誰にも悟られることも無しに。
兎はしばらくの間、あちらこちらをぐずぐずしていた。それから、遅れに遅れてようやくライオンの許へ辿り着いた。ライオンは、その仲間達と奪い合って餌食を引き裂いていた。兎がなかなか姿を見せなかったせいで、ライオンは怒り狂っていた。餌食どころか大地に深々と爪を立てて咆哮した。
「だから言ったのだ」、ライオンは叫んだ。「下劣な連中の約束など下劣に決まっている - 下賎で惰弱な連中が約束を果たすことなど無いのだ。奴らの甘言に、俺はまんまと騙された。奴らの次は、『時』が俺を騙そうとしている。だが『時』め、俺を甘く見るなよ。どれほどの間、この俺を騙し仰せると思うのか?」。
こうなると、せっかくのたてがみさえ何の役にも立たなかった。立派な顎髭以外には、見るべきものも無い哀れな王子。我を忘れた愚か者は、その愚かさゆえに自らの後ろにあるものも前にあるものも見ようとはしない - そしてそれゆえに、『時』に取り残され置き去りにされるのだ。
物事の、上っ面だけを見る者にとって、道は平坦に見えるだろう。だが落とし穴がその下に隠されている - 名とは空っぽの器だ。名という器を覗いても、見つかるのは意味の欠落のみ。
言葉や名とは、まるで落とし穴のようなもの。甘い言葉、耳さわりのよい言葉とは砂のようなもの、我らの生命の水をたちまち吸い取ってしまう。生命の水を噴き上げてほとばしらせる砂は貴重だ - 探せ、滅多には見つからぬその砂を、茫々たる砂漠に埋もれた一粒を。
叡智を探して追い求める者は、やがて自身が叡智の泉となる。あれこれ、躍起になって知識をかき集めてそれに固執することもなければ、それまでの方法に執着することもない。まさしく自由闊達の境地だ。知識の碑を守護する者は、守護される知識の碑そのものとなる。かの者の理解は、神の聖なる知識によって濃度をいや増す。
物事を理解させるのは知性と理性の力による。知性と理性に導かれて理解が増せば、やがて知性と理性は師の座を譲る。以降それらは弟子となり、瞬く間に使い物にならなくなる。かつてガブリエルがそうしたように、それらは言うだろう、 - 「アハマド(ムハンマド)よ、もうこれ以上は無理だ、私は燃え尽きてしまう。ここから先は私を置いて一人で進むがいい、私にはこれが限界だ、おお、魂の王よ!」。
知性も理性も働かせようとはしない者がある。不注意極まりない者ども、感謝せず忍耐せず、また自制とも無縁の者ども。運命がもたらす必然の踵の後を、ただついて行く以外に何ひとつ知らず、また知ろうともしない。運命を、必然を、言い訳に利用する者どもめが!
あれらは恨みがましく訴える、「そうせざるを得なかった」「そうならざるを得なかった」と。仮病だ。だが仮病も、続けていればいつしか真の病となってあれらを墓場へと連れて行く。預言者は言った、「冗談でも病を偽るな。仮病はやがて真の病となって蝕む。たとえ冗談でも病を偽れば、吹き消される灯火のように生命の火も消える」と。
運命の名で呼ばれる「それ」の、真の意味とは何か?それは治療だ。骨が折れれば継ぎ合わせ、血の脈が断たれれば縫い合わせることだ。この道において、おまえは何をしているのか?歩き出してもいないおまえの足の、どこが折れていると言うのか?幾重にも包帯を巻き付けて、誰を騙すつもりなのか - おまえ以外の、誰が騙されると思うのか!
- だがこの道において真に励む者、励んだ末に折れた足を抱えて苦しむ者があるのも事実だ。忘れるな、傷つく者の傍らには、必ずالبراق(ブラーク:天馬)がやって来る。ブラークは傷つき苦しむ者を背に乗せ、痛んだ足の替わりになって運ぶだろう。その者こそは(真の)宗教の担い手。信仰を運ぶ者は、終に信仰に運ばれる者になる。(神の)命ずるところを受け入れたがゆえに、受け入れられる者へと変容したのだ。
それまでは、王の命ずるところをただ受け入れるだけの者だった。それ以降は、王の命ずるところを人々に伝える者となる。それまでは、星々の伝えるところにただ支配されるだけの者だった。それ以降は、星々を統治する者となる。これに困惑しているようでは、コーランを真に理解していないも同然だ。疑うのか、「時は満ち、月は裂けた(コーラン54章1節)」との御言葉を。
舌先に信仰を語りつつ、心の底では悪しき欲望を新たにする者よ。おまえの信仰を新たにせよ。舌先で語る「信仰」になど、何の価値も無いと知れ。自分勝手な欲望を生かし続ける限り、信仰が新しく生まれ変わるはずもない。自分勝手な欲望が、自分自身に対して門を閉ざしてしまうからだ。
聖なる書物の、無垢なる御言葉を汚すな。おまえの欲望に歪められた解釈に何の価値があろうか。書物を解釈する前に、まずは自らの魂を解釈するが良い。きままな欲望に沿ってコーランを解釈する者よ。書物の崇高な意味を引きずり降ろして歪めるのは、おまえ自身の欲望に他ならないことを知れ。
蠅が一匹、驢馬の小便溜まりに浮いた藁にとまっている。頭をもたげて、船長気取りだ。「これは海だ、そしてこれは船に違いない」。彼は言う、「俺は長いこと、考えに考えてこの解釈に辿り着いのだ - 見ろ、見ろ、これが海だ、そしてこれが船だ!そして俺が船長だ!ああ、俺ときたら何て賢いのだろう、立派な船長だぞ!」。
そうして、彼は藁の「船」を、意気揚々と小便の「海」へ漕ぎ出して行く。彼の眼には、果てしなく広がる光景が映っている。驢馬の小便が作るちっぽけな水たまりが、彼にとっては世界の全てだ。真に視るべき世界、視るべき展望など一体どこにあるのか。視力の届く限界が、語りうる言葉の限界となる。視野の広さが、そのまま「海」の広さとなる。
誤った解釈をまき散らす者とは、まさしくこの蠅のようなもの。あれらの想像力など驢馬の小便に過ぎぬ。あれらの思案など、藁ほどの役にも立たぬ。自らの持論への執着を捨て、自らの視野の狭隘さに気付く時。その時こそ、運命の輪は廻り蠅も火の鳥に変容するだろう。
精神と、それが宿る姿とが一致するとは限らない。誰であれ、聖なる啓示の真に意味するところを知る者こそ、蠅の領域を脱した者だ。我らが主人公、ライオンに反逆しようと試みるこの兎を見よ。彼の精神と、彼の姿を見比べてみよ。彼の勇敢さと彼の背丈は、果たして一致するだろうか?
ライオンは憤激し、怒りに任せて叫んだ - 「敵どもの話に耳を貸したばかりに、俺の眼は曇って真実を見抜けなかった。宿命論者どもの仕掛けた罠に、俺は嵌められたのだ。玩具のような木の剣が、俺の体に傷をつけたのだ。これ以上、あいつらの無駄話には付き合うものか。あいつらは欺くためには何だって言うのだ。悪魔のような奴らめ、悪鬼のような奴らめ。
「我が心臓よ、ためらうことなく奴らを微塵に引き裂いてしまえ!奴らの皮を剥いでやれ!上っ面の皮一枚の他には、何ひとつ持ち合わせぬ連中なのだから!」。 - 皮膚とは何か?見かけ倒しの言葉だ。それは水面をさざめく波紋のようなものだ。現れては消え去り、決して長続きすることがない。
知れ、言葉とは皮膚(殻)のようなもの、そして意味とは殻に包まれた核のようなもの。言葉は器であり、意味は器に宿る魂だ。外側にある殻を見ただけでは、核の疵を見抜くことは出来ない。また優れた核を見抜くことも出来ない。核の良し悪しは、殻によって隠される秘密だ。
風という名の筆を用いて、水という名の紙に記したところで、記された言葉はあっと言う間に跡形もなく消え去るだろう。水に記せば波紋がさざめく。だが現れては消えるのが波というもの。波に不変を求めるな、失望の末に自らの手指を噛むことになるだろうから。人の心の水面を吹く風がある、虚栄と欲望という風が。風という名の筆を捨て、水面を鎮めよ。それで初めて、御方(神)の御言葉が届くだろう。
創造主の御言葉ほど、甘く愛おしいものはない。決して消え去ることもなく、永遠に不変の御言葉は他にない。王も彼らの帝国も、また彼らのためのخطبة(フトバ:説法)も、時と共に過ぎ去っていく。地上にあって変化しないものなど何ひとつない、預言者達のخطبةと、彼らの歩んだ道を除いては。
地上の王の華麗さは、彼らの虚飾、虚栄によるもの。あれらは自らの欲望に従っているに過ぎない。預言者達は飾りを必要としない。聖なる御方、全てを統べる御方が彼らを輝かせ給うからだ。ディルハム貨幣に刻まれた王の名を見よ。代替わりするたびに削られ、新たな王の名が刻まれることの繰り返しだ。
だがアハマド(ムハンマド)の名は、一度刻まれれば永遠に消えることはない。アハマド(ムハンマド)の名ひとつで、全ての預言者達の名を数えたも同然。ちょうど一から十までを数えるのに、十が九までの全ての数字を含むのと同じように。
兎が随分と遅れたのは、計画した罠について念入りに準備していたためだった。長い長い時間の後で、彼はようやくライオンの許へとやって来た。後はほんの二言、三言、ライオンの耳にささやくだけで事足りるだろう - 黙想せよ、根源の海を。心の奥深く、意識の底から通じる海を。世界の全てはここに生じ、ここに育まれる理性と良心から成っている -
この海の、何と広大なことか!限りなく甘いこの海の水面に、見よ、我らの姿がくるくると目まぐるしく流れて行く - まるで水面に浮かぶ小さな杯のように。満たされぬままであれば、空っぽの杯はいつまでも海の上に浮かび続ける。だがやがて満たされれば、杯は水中へと沈んで行く。
真理は常に海面の下に隠される。我らの眼に見えるものは、海面の上に生起する現象としての世界のみだ。我らの姿も形も、隠された真理の海がもたらす波や飛沫に過ぎぬ。
姿も形も、それらは(根源へと)近づくための手段として用意されたもの。(根源の)海が、(現象の)飛沫をはるか遠くまで投げかけてくるのはそのためだ。理性と良識を与え給うた御方から、心が離れれば離れるほどに。弓の射手から、放たれた矢が遠ざかれば遠ざかるほどに - 海は波立ち飛沫を散らす。
愚か者はこれに気付かない。彼らの乗る馬の価値について考えた事も無ければ、馬に乗っていることすら忘れ去って平然としている。だがそれでいて、馬を手放そうとはしないのだ。執拗に、頑固に馬を走らせ続ける - もっと速く!もっと遠く!
ご立派なことだ。馬は騎手よりもはるかに優れて賢い。馬は風のように疾駆する、騎手が馬を失ったかと勘違いするほどに。一かけらの冷静さも持ち合わせない愚かな騎手は、悲嘆にくれてあちこちを駆け回る。扉という扉を叩いて、馬の在り処を尋ね回る。
「私の馬を盗んだのは誰だ?私の馬は何処だ?」。ご立派な騎士殿。おまえが当然のように跨がるそれ、おまえの腿の下にあって、おまえを運ぶそれは一体何だというのか。「これか?これは馬だ、見れば分かるだろう。それはそれとして、だが私の探してる馬はどこだ?」。小賢しい騎士殿、まだ気付かないのか。
他所を探して何になる。おまえの馬なら、おまえ自身の許に在るに決まっているではないか!だがあまりにも近く、またあまりにも当然のように在るがゆえに、人は自らの魂をあっけなく見失う。胃袋は満たされていながら、乾いた唇が「もっと、もっと」と欲しがるように。
光無くして、どうして色を見分けられようか?赤と緑と褐色の、三色の違いを暗闇で見分けられようか?だが色に囚われ、一たび心が色に占められてしまえば、それらの色はヴェイルとなって光を遮り、光について想うことからも遮られるだろう。
やがて夜が訪れ、色の違いが暗闇に隠される。だが眼を閉じれば瞼の裏には、色の違いが光に照らされたように浮かび上がる。外側から照らす光抜きには、視覚は色を捉えることは出来ない。だが想像上であってさえ、光抜きに色を捉えることは出来ないのだ。
外側から照らす光とは、太陽と、太陽を反射する惑星達によるものだ。内側から照らす光とは、聖なる御方が放つ光の反射だ。そして内側から照らす光抜きには、外側から照らす光を感知することも出来ない。視覚によって捉える光は、心に宿る光在って初めて感知されるのだ。
夜には光が失われる。光無き闇の中では、色の違いも存在しない。光の存在は、光の対極にある闇によって明らかにされる。色を知るには、まず光を知らねばならぬ。そしてそれが真実であると知るには、光の正反対である闇を知らねばならぬのだ。
神が痛みと悲しみを創り給うたのは、その対極にある幸福を明らかにするため、幸福について知らしめるため。このように、隠されたるものはその対極にあるものによって明らかにされる。だが神は対極を持たない。神はただ神ご自身のみにより隠される。
視覚はまず光を感知し、次いで色を感知する。色の相違は、互いの対極により感知される。ギリシア人とエチオピア人の相違を感知せしめるのは、互いの存在に依っているのである。光は、闇あってこそ光として感知されるのである。対極にあるものが顕される過程で、隠されるものもまた知らされるのである。
だが神は絶対の一であり、その対極を持たぬ。神の光も然り。神の光を知らしめるのはただ神の光そのもの。神の光の対極に位置し得るものなど、何ひとつ存在しない。これが「視覚が神を捉えることは無い(コーラン6章103節)」の意味するところである。いかに哀願しようとも、神を視ることは叶わない。だがこれは同時に、「だが神は視覚をも捉える(コーラン6章103節)」の意味するところでもある。 - かつてシナイの山で、モーセの身に起きたことを思え。
知っているか、形あるものの全てを生み出すのは魂であることを。声も言葉も音無き思考も、まるでジャングルから飛び出すライオンのようだ。思考が全てに先ずる。この言葉もこの声も、思考が生じさせるもの。 - 思考の海が何処にあるのか、我らには知る由も無かろう、だが美しく澄んだ言葉の波に出会えば、それを生じさせる海もまた明光風靡であることが知れるだろう。
知恵と知識の海を、思考の波が寄せては返す。やがて海は思考の波に、言葉と声という形を与える。寄せては返す波また波。寄せて生まれた言葉もあれば、返して再び死ぬ言葉もある。生まれたばかりの言葉が、あるいは息絶えた言葉が、ご覧、波間に浮かんでは消えてゆく。形無きところから形有るところへと生じ、再び還る、形無きところへと。本当に、ああ、我らの還りつくところは『それ』である - 「我らは還る、御方の許へと(コーラン2章156節)」。
ありとあらゆる瞬間が、死と再生の繰り返しだ。ムスタファ(ムハンマド)が断言した通りだ、この世界は永遠ではない。我らも我らの思考も、御方が宙へ向って放たれた矢だ。どうして宙に留まっていられようか。どうして御方の手許へ戻らずにいられようか。
我らがひとつ息をするごとに、刻一刻と世界は新たに創造される。我らはそれを知りもせず、物事の表面だけを見て「いつもと同じく変わらぬ」世界にいると思い込む。生命もまた刻一刻と新たに創造される。まるで水流のようだ、一瞬たりとも同じ姿ではない。肉体もそうだ、これも一瞬、また一瞬と繰り返される創造の連続だ。
創造の瞬間は、肉眼で捉えることは出来ない。 - その手に松明を持て、そして火を点して廻転させてみると良い。うまく松明を廻転させると、分かるだろう、肉眼には一本に繋がる炎の輪のように見える。これと同じことだ。神の創造の御業の、あまりの素早さゆえに時間は空間のようにさえ感じられる。だが時間とは一瞬ごとの積み重ね。空間のように伸縮するものではない。
だが世の学者達というものは、とかく肉眼で捉えられる以上のことは探求しようとはしないものだ。重ねれば天上に届くかというほどの書物を読破した男、このフサームッディーンですら驚いて尋ねる始末だ、 - 「そのような神秘、一体どちらの書物より学ばれたのですか」、などと。
- さて、さて。長話の間にも、ライオンはもはや怒りの度合いも頂点に達し、憤激のあまり狂う寸前。そこへはるか遠くから、兎がやって来た。こちらへ向って、飛び跳ね、駆けて来る。意気消沈しているかと思いきや、堂々としたものだ。むしろ怒っているようにも見える。ひどく不機嫌そうな、ふてくされたような態度。あんな兎を見たことがない。
兎は、可能な限り大胆に振る舞おうと決めていた。怯えた素振りを見せたら負けだ、少しでも疑われたら負けだ。やがて兎がライオンの足許に辿り着くと、ライオンは叫んだ、「ふざけるな、この悪党め!おれは雄牛のあばらを叩き割ったこともある、象の耳を引き裂いたこともある。そのおれの命令を、おまえのような腰抜けの兎が守らないとはどういう了見だ!
おまえの耳は飾りか?この間抜けめ、どうしてくれようか!」。ライオンの咆哮の、凄まじいことときたら!「お慈悲を、お慈悲を!」、兎は言った。「これには理由があるのです。私の話を聞いて下さい、王様、王様、どうかお慈悲を!」。
「理由だと?」、ライオンは言った。「馬鹿めが!散々待たせておきながら、何を言うか、それが王に対する態度か!時ならぬ時を告げる鳥の首など、刎ねる以外に何が出来る。愚か者の言い訳など、耳を貸す必要は無いわ!罪人の弁解など、犯した罪よりなお悪い。無知な者の言い草など、知識を殺す毒のようなものだ!
兎よ、おまえを許すわけにはいかん。おれとおまえは同じではない。おれの耳は、おまえの耳と違って愚か者の戯れ言を聞くためにあるのではない!」。
「王様」、兎は言った。「今日ばかりは、価値なき者に価値があると思ってお聞き下さい、虐げられた者にどうかお慈悲を!中でもとりわけ私めは、いと高き王様であるあなたへの供物として届けられた者でございます。あなたへ捧げられたこの私を、あなたが拾わずに誰が拾うと仰るのですか?
海をご覧なさい。全ての川という川に水を分け与え、同時にその頭と顔を空へと向けて、ほんの一滴の雨さえも決して取りこぼしません。だからこそ海は、どれほど川に分け与えようとも決して減ることがありません。増えもせず、かといって減ることもない。それもこれも、海が寛大だからです」。
「黙れ、黙れ」、ライオンは言った。「寛大さも時と場合による。衣装は背丈に見合った長さに裾を切るのが道理というもの」。「お聞き下さい」、兎は叫んだ、「私の背丈が、王様のお慈悲にそぐわないならばその時は、王様の竜のごときお怒りの前に喜んで私の首を差し出しましょう。朝食を済ませてすぐに、私は我が友と一緒にねぐらを後にして、王様の許へと走り出していたのです。
ええ、ええ、そうですとも、我が仲間達は、私の他にもう一匹の兎を王様のために差し向けていたのでした。ところが道の途中で、見知らぬ一頭のライオンが、あなたの卑しき奴隷である私達を襲ったのでございます。ええ、ええ、そうですとも、あなたの取り分として差し出された二匹の兎を、両方とも横取りしようとしたのです。
私は言いました、『やめろ、やめろ。我らは王の中の王に差し出された供物なのだ。おまえのような格下の者の出る幕ではないぞ』。するとやつは言いました、『王の中の王だと!貴様、おれを誰だと思っているのだ。恥を知れ、俺の前でそんな寝言は許さんぞ!おれの前を素通りなぞさせるものか。おまえも、おまえの友も、おまえ達の王とやらも、全員まとめてこのおれが引き裂いてやる!』
そこで私は言いました、『それなら、なおさら王様に会いに行かなくちゃ。行かせて下さい、王様にあんたの言葉をそっくりそのまま伝えてやらなくちゃ』。やつは言いました、『おまえの言葉の形代として、おまえの友をここへ置いて行け。もしもおまえが戻らなければ、おまえの友もおまえも、おれの法に則ってひどい罰を与えるぞ』。
私は懇願したんです、でも無駄でした。やつは私の友の首ねっこをひっつかまえて、私を追い払ったんです。私の友ときたら、そりゃあもう見事なもので - 見た目だって、毛並みだって私の三倍は素晴らしくって、まるまると太ってふくよかで。
しかしともかくそういうわけで、あのライオンがのさばっている以上この道はもう使えません。私達と王様の契約だって、守ろうにもこの先どうなることやら。あのライオンがいる間は、これから先は契約通り獲物が届かないものと思って下さい。ああ、こんなことをお伝えしなくちゃだなんて本当につらいなあ。真実って苦いものですね。
もしも今まで通り獲物をお望みなら、この道を何とかして頂かなくっちゃ何ともなりません。どうかあいつを追い払って下さい。全く、王様の獲物を横取りするだなんて。何という不敬の輩でしょうね!」。
「神の名において」、ライオンは言った。「おまえの話が真実ならば。そいつは何処だ?!さあ、案内しろ。おまえが俺の前を行け。そいつが一頭であろうが、百頭であろうが、見つけ次第に俺の法に則って罰を与えてやる!だがおまえが嘘をついていたならば、おまえに罰を与えてやる!」。
そこで兎は、先頭に立って案内した。ライオンを、用意しておいた罠の方へと連れて行った。兎は、掘っておいた坑を指し示した。ライオンの息の根を止めようと、兎は深い、深い坑を作っておいたのだった。兎とライオンは、二匹連れ立って坑の縁近くまでやって来た。兎が用意したその坑は藁で覆われ、その下にはなみなみと深い水が隠されていた。
水が流れれば、藁はあちらからこちらへと運ばれる。だが藁は山を動かせるだろうか? - しかしそれこそが、兎の成し遂げようとしている事だった。兎が仕掛けた賢い罠は、ライオンの首にかけられた縄の輪となった。実に素晴らしい。兎がライオンを狩ろうというのだから、全く大したものだ。
モーセを想え。モーセは、たった一人でファラオに戦いを挑んだ。海のごときナイルの川が、彼の軍となり兵となって加勢した。ニムロードを想え。ニムロードに、たった一匹で勇ましく切りつけたのは、片方の羽を失った虻であった。
敵を見誤るな。見よ、敵の言葉に耳を傾けたものの行く末を。見よ、嫉妬深い者を友とした者の行く末を、与えられたその報いを。追従者ハーマーンの言葉に耳を傾けたファラオの最期に学べ。裏切者シャイターンの言葉に耳を傾けたニムロードの最期に学べ。
敵は親しげに語りかける。その言葉は、いかにも思慮深く聞こえる。実に、実に都合の良い言葉ばかりを与えて耳をくすぐる。それが彼らのやり方だ。麦粒を餌に、罠を仕掛ける。彼らが飴を与えたならば、それは毒だと思え。彼らが慰めを与えたならば、それは鞭だと思え。
運命の車輪がひとたび廻り出せば、うわべ以外の何も眼に入らないことが起こり得る。敵と友との、見分けもつかなくなる。そして、そのような憂き目を見ない限り、人は真には謙虚にならない。だがそうした事が一度でもあれば、人は真に悔悟する。悲嘆を知って初めて真に祈り、請い、やがて感謝の意味を知り、斎戒の意味を知る。大いに嘆き、大いに悲しみ、大いに涙を流せ。 - 「隠されたる物事について最も良くご存知の御方よ。我らを押しつぶし給うな。取り除き給え、悲嘆の重石を」。
ライオンを創造し給うた御方よ。守り給え、我らが諍いに没頭するあまり、我を失うことのないように。鬱蒼と茂る心の奥から、ライオンが飛び出すことのないように。甘い水の正体を、炎の覆いで隠し給うな。焼けつく炎の正体を、水の覆いで隠し給うな。御方よ、逆鱗の葡萄酒に我らの脳髄を浸し給うな。ありもせぬ幻影に、姿かたちを与え給うな、惑わし給うな。
- これ、この酩酊とは何か?それは眼を覆い視界を奪い、分別を奪う。پشم(パシュム:羊毛)とیشم(ヤシュム:碧玉)の見分けもつかなくなる。これ、この酩酊とは何か?それは感覚に蓋をする。魚竜と白檀とを混同せしめ、水場へと至る正しい道を踏み外させる。
砂漠を進軍するソロモン王の従者達が天幕を建て終えると
鳥達は舞い降りて王にお辞儀をした
それから、口々に王を誉め讃えた
鳥達は、王が彼らの言葉を解することを承知していたし
王もまた彼ら一羽一羽と親しく言葉を交わした
それで鳥達は、われもわれもと争って王の傍へと急いだ
一たび天幕の中へと踏み入れば
どの鳥もぴたりとさえずることをやめた
そして無言の会話をソロモン王と交わした
むしろ無言である方が
自身の兄弟とのそれよりもずっと深い絆を結べるから
言葉を同じくすれば
互いに親しみをわかせて一体感を強くする
言葉を異にすれば
互いを不信の檻に閉じ込める
言葉が、囚人を繋ぐ鎖となる - だが、ああ!
ご覧、ヒンドゥとトゥルクの人々を
実際には、彼らの大多数が言葉を同じくする兄弟だ
そして一方 - ご覧、このトゥルクの人々を
分かち合うのは民族の名のみ
実際には異邦人同士に過ぎぬ
舌の語る言葉による理解や
舌の語る言葉による意思の疎通など
真の理解とは全く別ものと心得ねばならぬ
言葉を同じくひとつにするよりも
心をこそ同じくひとつにすることにこそ
より高い価値があると心得ねばならぬ
話し言葉も、書き言葉も、共通する仕草や習慣も奪われて
それで初めて心の奥底から何千、何万もの
真の通訳者が起ち現れるのだ
- さて鳥達は、一羽一羽がそれぞれに秘密の
とっておきの技や知識を隠し持っていた
一羽づつ、順々にソロモン王の前に出ては
次々に披露してみせた
王の歓心を得ようと鳥達はそれぞれ自らを誇示したが
それは自惚れのためでもなければ自慢するためでもなく
ただ王の親愛を勝ち得たいという一心からだった
捕虜がその境遇から脱しようと欲するなら
自らの才能の価値を君主に示さねば
奴隷として買い上げられることすらままならぬ
だが君主に買い上げられることに嫌気を感じれば
彼は何とかして捕虜のままでいようとするだろう
病を偽り、聞こえぬふりもし、歩けぬふりまでするだろう -
やがてヤツガシラの順番がまわってきた
彼は彼の技、彼の知識を王に披露した
「王様」、彼は言った -
私にはたった一つの才しかありません
それもかなりお粗末なものです
ですので、手短かにお話させてもらいます
悪しからずご承知下さいな
「構わぬ」、ソロモン王は言った -
好きなように話せ
おまえの才について聞かせてみよ
私が、高いたかあいてっぺんを飛んでいた時のことです
私はてっぺんからじっと見下ろしました
うんと注意深く見下ろしました
そしたら深い大地の底に
水が湧き出ているのが見えたんです
うんと注意深く見てましたから
水の場所もその深さも良く知ってます
水がどんな色をしているか
どこから湧き出てどこへ流れて行くのか
どの土を渡って、どの岩を伝うのかも
そんなわけですから、ソロモン様、王様
どうか私めをおそばに置いて下さい
王様の軍勢が天幕を建てる場所を決めるのに
このヤツガシラめのたったひとつの賢さを
どうかどうかお役立て下さい。
- そこでソロモン王は言った
善きものよ、我が軍に加われ
水の乏しい砂漠では
おまえの才ほどに価値のあるものは無い
これを聞いたカラスは嫉妬に胸を焦がし
ソロモン王の前へ進みこう言った -
「ヤツガシラは嘘をついています、悪いやつです」
こんなやつが王様の前で話をするだなんて
とんでもないことです
とりわけ、嘘をついたり
いんちきな自慢話をするだなんて
本当にたちが悪いことだ
もしもこいつが本当に注意深く物事を見ているのなら
大地に仕掛けられたちょっとした罠だって
見逃すはずがないじゃありませんか
罠に引っかかるはずがないじゃありませんか
否応なしに鳥かごに
閉じ込められたりするはずがないじゃありませんか
「ふうむ」、これを聞いてソロモン王は言った -
ヤツガシラよ、これはどういう訳だ
最初から、私に一杯喰わせようと謀っていたのか
ほんの一口、酸いアイランを啜っただけでは酔うはずもない
喋り出した途端に高く舞い上がって自慢したくなり
私に嘘をついた、ということか
「ああ、王様、王様」、ヤツガシラは答えた -
どうか私を貶めようとする敵の言葉に惑わされないで下さい
私など、ご覧の通り何ひとつ持たぬ物乞いの身
私が本当に嘘つきなら
私の首など喜んであなた様に差し上げましょう
どうぞちょん切ってしまって下さい
何なりとお好きなようになすって下さい
そりゃあカラスは多くの知恵を持ってます
私などとは違い百も千も学問を修めてます
けれどそいつは神様に背くために学問したのです
神様の定めた運命を信じないكاف(カーフィル:不信の者)なのです
最初のكの一文字だけだとそいつは言い張るでしょう
けれどたった一文字でも隠し持ってりゃ
全身が股ぐらを覆う下履きみたいなものです
嫌な臭いをぷんぷんさせて
ところ構わず欲情して
空のてっぺんのそのまたてっぺんからだって
全部の罠を見通すことぐらい私にだって出来ますよ
運命が私の視界を遮りさえしなければね
神様のお決めになった運命に出逢ってしまえば
知恵も学問も文字通りぐっすり眠りこけてしまいます
お月様は真っ黒になるし
お天道様だって光ることをやめてしまいます
運命には『なぜ』も『どうして』もありません
不思議なことなんか何ひとつありませんさ
だって運命ってそういうものなんですから
誰かさんが運命を否定したところで
それもまた不思議なことでも何でもありませんさ -
信じない者が信じない者であること自体
それもまた運命が定めた通りなんですから!
人類の父アダム、主である神から万物の名について教えを授けられた者。彼はありとあらゆる学問に通じ、ありとあらゆる知識を有していた。万物の名を通して、万物に関する知識が彼には備わっていた。それらがどのような本質を持つのか、またどのような流転を辿り、どのように終末を迎えるのかも - それぞれに関する彼の定義は、揺るぐことなく正確だった。
「それは『活発』である」と彼が定義付けたならば、それが『怠惰』に転じるということは無かった。誰が信じる者として終末を迎えるのか、彼は最初の一目でそれと知ったし、また誰が信じない者として終末を迎えるのかも、彼の眼には明らかだった。
学べ、「全ての名を知る者(アダム)」が学んだように。「全てのものの名を教えた(コーラン2章31節)」ことの、最も深い意味について学べ。我らにとり、名とは姿かたちや外見について指し示す記号に過ぎない。だが創造主である御方にとって、あらゆる名とは姿かたちが内包する実在そのものを意味している。
モーセにとり彼が手にした「それ」は、彼の眼には「杖」であった。だが創造主である御方にとり「それ」は「竜」であった。ウマルは、そもそも「偶像崇拝者」としてその名を知られていた。だが最期には、同じ彼の名が「信じる者」として知られることになった。
我らの知る「名」とは、つまりは「種」のようなものだ。種の中には、眼には見えなくとも花も果実もある。今、私の隣で私の話を聞くそなたについても、神の御目は最初からお見通しであったことだろう。ここでいう「種」は、これという姿もかたちも伴わぬ。だが在るところには確かに在るのだ。外側に顕われるものよりもはるかに多いとは言わないが、決して少ないものでもない。
それらは神の領域に在る - 簡単に言うなら、我らの真の「名」は、常に神と共に在る、ということだ。終末を迎えて初めて、我らの真の「名」が明かされる、ということだ。御方は、人それぞれにその終末に相応しい名を授け給う。どこに居て、どのように呼ばれていようとも、今のその名は全て借り着のようなもの。それがそのまま、その人の本質であるとは限らない。
アダムに学べ。姿かたちを問うのではなく、その内奥を、最奥を問うこと、知識と確証は常に魂によってのみ得ること。純粋な御光りによって眼をひらかれたアダムにとって、「物事を見る」とはそういうことだ。物事を、そのようにして見るアダムに、天使達は神の御光を感知した。それで彼らは、揃ってアダムに敬意を表し、跪いて礼拝の姿勢をとったのだった。
アダムに祝福あれ。称賛しても、し足りるということがない。復活の日が訪れるまで休みなく称賛したとしても、それでもし足りるということがないだろう。 - しかしこれほどまでに賢いアダムも、神の定めた運命を見分けることは出来なかった。禁については承知していたが、あくまでも知識としてのそれに過ぎなかった。
そもそも禁とは何か、法を越えるとはどういうことか。何故それが禁じられているのか、その目的は何か、そして解釈の余地はあるのか。彼が持てる知識のみを恃みとしたとき、彼の心は逸れた。禁じられた果実の他には、何ひとつ眼に入らなくなった。彼の裡の自然が、彼を惑いの道へと急がせたのだ。
まるで庭師と泥棒のようだ。庭師(アダム)が足に刺さった棘に気を取られている間に、泥棒(シャイターン)が好機とばかり一切合切を奪って素早く逃げ去った。惑いから覚めてすぐに、アダムは再び正しい道へと戻った。だが気付けば、彼の収穫物はすでに盗まれた後だった。
彼は泣いた、「神よ、私たちは自らを損ねてしまいました(コーラン7章23節)」。心から悲しみ、ため息混じりにそう言った、「闇の暗さと深さに、道を見失ってしまいました」。神の定めた運命は、雲のように太陽を覆って光を遮る。ライオンも竜も、怯えた鼠同然になる。仕掛けられた罠を見抜けなかったとしても、無知な奴だとヤツガシラを責めることなど誰に出来ようか。
定められた運命の前にあっては誰もが等しく無知だ。しかしそれでもなお、正しくあろうと励む者の何と幸いなことか。持てるものを持たざる者のために投げうち、自らについては天に委ねて祈りの裡に過ごす者の、何と幸いなことか!
夜のように漆黒の闇で覆い尽くすのも運命なら、手を取って昼の光の方向へ案内し、完成へと導くのもまた運命である。人生において、幾度となく試練を投げかけるのも運命なら、生を与えるのもまた運命である。試練を克服する術を与え、そののちに安寧を与えて癒すのもまた運命なのだ。
人は試練に出逢い、それでようやく運命について思い出す。だが運命の方は、一瞬たりとも人を忘れない。試練を与えるのも運命なら、楽園に一人ひとりのための天幕を用意するのもまた運命。それもこれも、御方の慈愛によるものと知ってしまえば怖れることなど何ひとつない。ひとつ、またひとつと乗り越えるたびに、心という王国の安寧はより揺るぎないものとなる。
- また脱線してしまった。話は尽きない、だがもう夜も更けた。さて、兎とライオンの物語に戻るとしよう。
ライオンが井戸に近づくと、それまで先頭に立っていた兎が歩みを止めてライオンの背後へと後ずさった。それを見とがめてライオンは言った。「こら、逃げるな。どこへ行く?何を後戻りしているのか。こっちへ来い、怖じ気づいている場合か!」。
兎は言った。「すっかり力が抜けてしまって足が動きません、まるで手足を失ってしまったかのようです。魂は震え、心は乱れてこれ以上動けません。私が今どんな気分でいるか考えてみて下さい!私の顔色を見て下さいよ、まさか金色に光ってなぞいないでしょう?血の気が失せているのが分かりませんか?」。
外側に顕われる様々な印について、神はそれらを「価値ある知識の源」と名付けたもう。それで求道者達の眼は、常に印に向って開かれる。どんな些細なことも見逃すまいとする。色と香りは重要だ、あれらは鐘のように鳴り響いて知らせる。馬のいななきを聞けば、馬がそこに居ることが知れるように。そう、音というのも重要だ、あれとこれとの違いを知らせる。
扉がきしむ音と、けたたましい驢馬の鳴き声は明らかに違う。あるいは人と人もまたそれぞれに違う。人、と言えば預言者はかつてこう言った、「その人の語る言葉が、その人自身を語る」。顔の色は、心の中の様子を知らせる。 - 冷たくするな、私を憐れんでくれ。私への愛を、おまえの心の片隅に植えておくれ。赤々と光る顔の色は、満ち足りた感謝の音色を響かせる。青白く沈んだ顔の色は、愛の拒絶と欠乏の音色を伝える。
私は出逢ってしまった事がある。私の手も足も奪い去り、顔の色を失わせ、外側にあるものも内側にあるものも全てをなぎ倒しありとあらゆる全てが打ち砕かれ、木々という木々は跡形も無く根こそぎ引き抜かれ、人間も動物も、植物も鉱物も、全てが色を失い動きを止めて - そうしたものに、私は出逢ってしまった。
私など、ほんのちっぽけな一部分を垣間見ただけに過ぎぬのだろう。あれの、運命の全体を見渡すなど - 世界の全てが青ざめて音無き悲鳴をあげ、信じ難い臭いを漂わせて -
過ぎ去ってしまえば、世界は再び息を吹き返して感謝に満ちあふれる。むき出しのまま朽ち果てたはずの庭も、今となっては何事も無かったかのように鮮やかな緑の衣で着飾っている。あちら側の世界では真っ逆さまに沈む太陽が、こちら側の世界では真っ赤な火炎を燃え立たせて昇る。
巡る季節の伴奏と共に星々は天に輝く。季節がひとつ過ぎ去る毎に、星もひとつ、またひとつと燃え尽きて立ち去る。それから月。月は何ものにも代え難く、美しさにおいて何ものにも優る。日々やせ細っていく時には、幻かと思うほどだ。そしてこの大地。静寂に包まれ微動だにしない。だが封じ込められた振動が一たび解き放たれれば、熱病のような狂騒を投ずる。
砂の一粒、また一粒が語り継ぐ悲しみの物語を聴け。かつては山であったものが、大地の振動に砕かれて小さな欠片となり散らばったのだ。魂の友たるこの風、生きるに不可欠なこの大気も、運命の輪の廻転如何によってはたちまち汚れて悪臭を放つ。魂の姉妹たるこの水、生きるに不可欠なこの甘い水も、流れずに淀めば黄色く濁って苦い毒となる。
燃え上がる炎を見よ、立派な口髭を蓄えている。炎ご自慢の口髭の名は「風」だ - ふっ、と一息吹き上げれば、「お呼びでしょうか?」 - たちまちにして死が馳せ参じる。海を見よ、海を渡る気流を見よ。一瞬にして変化し、激しくうねって逆巻く有り様を目にすれば、言葉にせずとも感知出来るだろう、海の下で、雲の上で、目に見えぬところで何かが起きているという事を。
天の歯車は常に廻転し続ける。これまでも、そしてこれからも - 飽くことなく探して、探して、なおも追い求め続ける子供のように。最初は最も低く、次いで中程へ、ついには天頂へ - 天頂を飾る星々の軍勢を見よ、あれは吉兆の星か、それとも凶兆の星か?
- これらの断片が連なって全体がある。そなたもまた断片のひとつ、全体のうちの一部分だ。断片の、ひとつひとつは実に単純だ。だが全体が悲しみと痛みに苦しむ時、その一部分が平常でおられようか?朽ち果てる前の大木の、一葉が生き生きとしておられようか?逆も然りだ。特に断片のひとつひとつ、すなわち水、土、火、そして風が、単純とはいえ互いに正反対の性質なのだから、これは何とも複雑だ。
全体の、ほんの一部分であるそなた自身にも、これらの相反する性質が同居している。羊が、狼を怖れることに何の不思議があろうか。もしも羊と狼が親しげに語り合ったり、互いに挨拶を交わし合ったりするようなら、その時は遠慮なく驚け。生命とは、互いに相反する断片が奏でる驚くべき調和である。死とは、それらの相反する断片同士の間に繰り広げられた争いの結果だ。
ライオンと驢馬に、共通点など見出せるだろうか?これほどまでに遠く相反する種が、等しく全体の一部分としてそこに在ること、これが神の恩寵でなくして何であろうか。等しく全体の一部分として生まれ、等しく全体の一部分として死んでゆく。これ以上に、驚くべきことが他にあるだろうか。
- 「ともかく本当に無理です、これ以上は動けません」、兎は言った。「私ゃ弱いのです、分かって下さい、恐ろしくって動けません」。ライオンは言った、「うるさい、余計な言い訳などするな。気分が悪い原因は何だ?もっとましな理由を言ってみろ、逃げようとするな」。
「だって、ライオンが」、兎は言った。「ライオンがその坑の中に隠れているんですよ。その坑が奴らの砦、奴らの要塞なのです。だから誰にも手出し出来ないのです」。
賢い者は誰であれ、あるいは洞穴、あるいは洞窟、またあるいは井戸の奥深くに暮らすことを選び取るだろう。誰にも邪魔されることのない秘密の隠れ処。霊的な歓喜は、常に孤独の裡にのみ得られるものと知っているからだ。井戸の暗闇は、現世の暗闇よりもはるかに好ましい。現世の背中を後追いしてみたところで、現世は決して満足をもたらしはしない。
「来い」、ライオンは言った。「そんな奴らはぶちのめしてやる。だがその前に、ライオンが今この坑にいるのかどうか、まずはおまえが確かめろ」。兎は答えた。「とんでもない!そんなこと怖くって出来ませんよ、むしろどこかに自分が隠れられる坑が無いものか、そっちの方が気になってるくらいです。
とてもじゃないけど無理ですよ、せめてあなたも私と一緒に見に来て下さらなくっちゃ。どうか一緒に歩いて下さい。私だけじゃ怖くて怖くて目も開けられません、坑の中を覗くだなんて出来っこありません」。そこでライオンは兎の傍へやって来た。ライオンの体躯に隠れるようにして、兎はしぶしぶといった具合で坑の方へと歩き始めた。
坑の中を覗いてみると、浮いた藁の隙間に、一頭のライオンと、一匹の兎がこちらを見ているのが見えた - それは水面に反射した、彼ら自身の姿だったのだが。ライオンは、水面に彼自身の姿を見た。水面は、一頭の傲慢そうなライオンと、そのとなりにまるまると太った兎を映してみせた。奴こそは自分の取り分を奪った敵。そう思うが早いがライオンは兎をその場に残して敵に飛びかかり坑へ - 自分の墓穴へまっさかさまに飛び込んだ。
彼が落ちたその墓穴は、彼自身が掘ったも同然だった、彼自身の行いが、巡り巡って彼自身の頭上めがけて落ちてきた。昔から、全ての賢者達が繰り返し伝えていることが起きたのだった。すなわち、悪者どもの行いはいずれ悪者どもに降り掛かるのだ、と。行いが悪ければ悪いほど、悪者の落ちる穴は深くなるのだ、と。虐げる者には、それ相応の正義が下されるのだ、と。
己を利するために不正を為す者よ。他者を陥れるために掘ったつもりの穴が、自分を捉える罠となるのが見えないか。罠を張り巡らせる蜘蛛のつもりでも、していることは己を縛るまゆを紡ぐ蚕のそれ。穴を掘るなら、ほどほどにしておけ。あまり深く掘りすぎると、後で泣くのは自分自身だ。
力無き者を侮るな。か弱き者に友軍など無い、などとは決して思うな。コーランにもある通りだ、読め、「神の助けが来たる時(コーラン110章1節)」から始まる物語を。読め、象の物語(コーラン105章)を。見よ、象の群れを。逃げ惑う敵をなおも蹴散らしたその直後に、懲罰をくちばしにくわえた鳥達の群れが襲いかかるのを。
何ひとつ持たない弱き者が、地上において慈悲を乞い願う時、聞こえないか、天上の天使達が激しく打ち鳴らして轟音を響かせ、弱き者に加勢するのを。 - ああ、何故聞こえないか、何故耳を塞いでいられるのか!弱き者を噛んでその血を啜れば、噛んだ者はやがて歯痛に苦しむことになる。 - だがどうする?そのような目に遭わない限り、分からない者には分からないのだろうか?
坑の水面に彼自身を見たライオンは、たちまち激しい怒りをおぼえ、その瞬間から自分と敵との見分けもつかなくなった。水面に映る自分の姿を敵と思い込んだライオンが、自分自身に対して剣を抜いたのも当然の成り行きだった。
友よ、不正を為す者の多くはこれと同じ振る舞いをする。自らの性質を認めようとせず、自らの悪を他者になすりつけて他者を責める。彼らから学ぶべきは実にこれだ、我が友よ。彼らが見せつける不正も偽善も、その横暴も、我ら自身を映す鏡のようなものと思え。
為された不正は、いずれ為した者自身を打ちのめす。罵りの言葉は、やがて罵った者自身に返ってくる。自分の非を認めぬ限り、自分の悪を認めぬ限り、自分を憎み自分を嫌悪し続けることになってしまう。そうとは知らず、自分の魂を自分の手によって貶めることになる。
自分の裡にある悪に目を背けることは、悪に立ち向かわず悪を野放しにすることだ。自分に属する悪を、自分で制せずして誰が制ずるのか。害されるのは自分自身だ、自分の影に飛びかかったライオンを見るがいい。自分の裡なるもの、自分の性質の奥底までよくよく見てみることだ。そうすれば、実に堕落とは己自身の裡に在るものと知れるだろう。暗い坑の底で出逢うのは敵ではない、他ならぬ自分自身だ。
ライオンもまた、深い坑の底で自分自身に出逢うだろう。かつて彼以外の他者が出逢ったことのある、彼以外の他者ならばよく知っているもうひとつの彼自身の像だ。食べなければ飢えて乾く。だが弱き者から、食べるに欠かせぬ歯までもを引き抜いて奪う者は誰であれ、自分から目をそらし続ける者だ、この物語のライオンのように。
「叔父の顔にまがまがしい印を見た」と、ある者が私に讒言する。私は言ってやる、 - 「そなたは叔父どのを見ているのではない」。そなた自身が叔父どのの顔に映し出されているのを見たまでだ。自分の姿から目をそらすな!
誠実な者同士が相対すれば、お互いを映し出す鏡のようにもなろう。これは預言者が言っていたことでもある。青い硝子を通して世界を見れば、世界は青ざめて見えるだろう。だがよほどの無知でも無い限り、世界の青さがどこから来るのか理解できるだろう。世界が鬱勃と堕落して見えるのなら、それはそなた自身より生じるものと知れ。批判するなら、まずは他ならぬ自分を批判せよ。罵りたいなら、まずは他ならぬ自分を罵れ。
自らを「信じる者」と称する者が、神の御光を通して物事を見ずに一体何をどう見るというのか。それでは不可視の領域が、いつまで経っても「信じる者」に明かされないのも当然ではないか。神の炎、神の怒りのみを通して物事を見る者に、一体どうして善悪の違いなど判断出来ようか?一体どうして、悪を善に転ずることなど出来ようか?
炎を、炎で制することなど出来ない。一滴、ほんの一滴づつでも良い、水を運んで炎を鎮めよ。そのようにして、炎を光に転じるのだ。水を運べ、炎を嘆く者よ!
神よ、清い水を支配する御方よ。われらに水を与え給え、世界が燃え尽きる前に。炎を鎮めるに足るほどの清い水を与え給え、炎を光に転じさせ給え。全ての海、全ての水は御方の命ずるところのもの。全ての水、全ての炎を支配する御方。御方に命ぜられれば、炎はたちまち清く甘い水に転ずる。御方に命ぜられれば、水はたちまち焼き尽くす炎に転ずる。
我らが望むところを叶え給うのも御方なら、主よ、我らに善きことを望ませ給え。悪を為させ給うな、我らに悪を避けさせ給え。悪からの救いこそは、主よりの最も善き贈り物。主よ、これほどまでに我らは探し求めている。探して、探して、探し求めている。問いの答えを与え給え、宝の在り処へと至る地図を与え給え。
災厄から解き放たれたことを確かめた兎は、大喜びでその場を離れて荒れ地を渡り、谷へと、仲間達の待つ方へと急いだ。ライオンは水底へと沈み、二度と浮かんでは来なかった。惨めな末路を辿ったライオンを見て、彼は浮かれて飛び跳ね、嬉しげに草原を駆け抜けた。
死の罠から逃げおおせたことを、兎は両手を打ち鳴らして喜んだ。生まれ変わったように新鮮な大気を感じつつ踊った、木の枝に芽吹いたばかりの若葉のように。空にむかって伸びる枝も、その葉も、重たい大地の楔からはほど遠く自由だ。頭を上げて高みを目指し、空を渡る風の友となる。
木の芽が、固い枝の表皮を裂いて姿を現し若葉となる。どの葉も、枝の最も高いところを目指す。われこそは、と争って木のてっぺんへと駆け上がっていく。固い殻を破って発芽する、さまざまな木々や果実の種子。新芽は、それぞれがそれぞれの歌を歌う。神を仰いで、口々に異なる感謝の歌を歌うのだ。「恵み豊かな御方は、われら草木に滋養を与え給う、『芽を出し、育ち、しっかりとした幹でまっすぐに立ち上がるように(コーラン48章29節)』」。
たとえ根元は固く大地と結ばれていようとも、彼らの魂は自由に空を舞う。大いなる喜びが訪れれば、泥土で出来た肉体の監獄も、魂をつなぎとめておくことは出来ない。神の愛に満ちた大気に包まれて舞踏が始まる、満月のように完全無欠な真円を描いて。肉体が踊れば、魂もまた踊る - 「どのように(魂が踊るのか)」、だと?なんという愚問だ。大いなる喜びが「どこからくるのか」だと?愚問だ、なんという愚問だ!
兎は、ライオンを牢獄に閉じ込めた。たかが兎と侮って、ライオンは逆に恥辱に塗れることとなった。これほどの不名誉に見舞われてなお、「百獣の王」を名乗るのだから驚くべき図々しさではないか。暗い坑の底に沈んだライオン、今は彼自身のものの他には食らう肉も啜る血もない。彼を陥れたのは彼自身の飽くなき欲望、兎はただきっかけをこしらえたに過ぎない。
兎の自由な魂が思うさま駆けて砂漠を渡るころ、ライオンは「何故」と「如何にして」の檻に閉じ込められて朽ち果てる。ライオンを討ち取った勇ましい兎は、今や仲間達の住まうところへ辿り着き、走りながら叫んだ - 「皆さん!皆さん!喜んで下さい、私ゃ吉報を持って帰りましたよ!
「良い知らせです!良い知らせです!皆さん、喜んで下さい!地獄の番犬はもうこの世には居ません。今頃、元の住処の地獄へ帰り着いたころでしょうよ!良い知らせです!良い知らせです!我らを脅かした敵はもう居ません。全てを創りたもう御方が、懲らしめのために奴の牙を引っこ抜いてしまわれたのです!あれほど多くの獲物を引き裂いた奴の爪も、死はまるで塵のように箒で掃き清めてしまいました!」。
これを聞いてけもの達は一斉に集まり、大喜びで共に祝った。こんなに楽しく笑い合うのは本当に久しぶりで、皆興奮し有頂天になった。彼らは兎を中心に輪になって取り囲んだ。兎は、まるで新品のろうそくのようにピンと背筋を伸ばしてみせた。輪になったけもの達は、兎の功績に敬意を表して深くお辞儀をした。
「天から遣わされた天使か、あるいは幸運を運ぶ妖精か。いやいや、乱暴者のライオンにとっては死を運ぶアズラエルでもある。君が誰であれ、兎どの、君が我ら全員の恩人であることには違いない。我らの魂は君に忠誠を誓おう。君の上に祝福あれ!神様が、君という川を清い水で満たし続けますように!君に祝福あれ、君の手にも、足にも、沢山の祝福あれ!
さあさあ、聞かせてくれ。一体どうやってあの意地悪いライオンと渡り合ったのだ?あの悪党を、一体どうやってやっつけたのだ?聞かせてくれ、臆病という病に罹った我らを癒すためにも。聞かせてくれ、怯えながらただ死を待つだけだった我らの魂を治す薬をくれ!さあさあ、聞かせてくれ!乱暴者の専制君主は、我らの魂に多くの傷をつけた。知りたいんだ、どのようにして悪に立ち向かうのかを」。
「皆さん、」兎は言った - 「ご覧の通り、私ゃ何の取り柄もないただの兎です。皆さんが仰るようなすごいことをやってのける兎など、一体どこの世界にいるでしょう?これは一重に、神様の助けがあってのことなのですよ。神様が私に、力を貸して下さったのです。私の心に、知恵の光を授けて下さいました。そして授かった光が心の他に、手にも足にも行き渡ったという次第です」。
低いところから高いところへ引き上げ給うのも神なら、高いところから低いところへと引き下げ給うのもまた神の御技。変化とは、常に神の御手より生じるもの。神は常に公平に振る舞われる。信じる者にも疑う者にも、敵にも味方にも等しく道を示され、また等しく曲がり角をお示しになる。
ご用心、ご用心!我らは曲がり角を曲がっただけ、道そのものはその後も続いている。つかの間の喜びに我を忘れるな。この身がこの世にある限り、何もかもから解放されるということには決してなりはしないのだから。この世は浮いたり沈んだりの繰り返し。我らの目指す王国は、そうした儚い移り変わりを越えたその先にこそある。
そら、耳を澄ませば聞こえてくる、七層の天のはるか彼方で我らのために打ち鳴らされる太鼓の音が。儚い移り変わりを越えたその先の王国で、時を統べる永遠の王に出逢おう。かの宮殿で、我らの先達と酌人が終わることのない旋舞を舞っている。今日と言う日の喜びは、明日も明後日も続くものではない。悪い酔いを残す現世の酒を捨てて、楽園の美酒を選べ、永遠の美酒を選べ。
「獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー