مثنوی معنوی - "Mathnawi ye-Manawi" Mawlana Jalal-Din Muhammad al-Balkhi Rumi
index > bookworm > 『精神的マスナヴィー』1巻
「ユダヤの王とキリスト教徒」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー
ユダヤの民を治める王がいた。王はイエスの敵であった。圧政を敷き、キリスト教徒達を弾圧した。
それはイエスが拓いた時代であった、時はイエスの側にあった。彼はモーセの魂であり、モーセの魂は彼であった。彼らは二人ながら神の道を歩む者であった。だがやぶにらみの王はそれを認めなかった。彼は引き裂いた、二人の聖なる預言者を。
師がやぶにらみの弟子に言う、「おまえ、あちらの部屋に行って、瓶を取ってきておくれ」。やぶにらみの弟子が師に言う、「お師匠さま、瓶は二つございます。一体どちらの瓶をご入用で?」。
「瓶が二つあるはずがない」、師は答える、「いいから行け、行って瓶を持って来い」。「私を責めるのはやめて下さい、お師匠さま」、と弟子。「ええい、いいから瓶を持って来い。二つのうち一つは叩き割ってしまえ」、と師。弟子の眼には二つに映るが、瓶はもともと一つしかない。彼が瓶を壊すと、もう一つの瓶も無くなってしまった。一つが壊された時に、両方が視界から消え去った。
人は誰しもやぶにらみになる、極端な方向へ偏ったり、あるいは怒りが生じた時などに。怒りと欲望は人を乱視にさせ、厳正な精神から離れさせてしまう。独りよがりの利己主義が現れるとき、美徳はその陰に隠れる。百のヴェイルが心中より生じて眼を覆う。賄賂に心を売り渡した裁判官に、不正と、その哀れな犠牲者とを見分けることなど出来はしない。
ユダヤの王をやぶにらみにさせたのは、彼自身の悪意であった。我らに何が出来ようか? - 「お慈悲を、主よ、お慈悲を!」。悪意より救い給え、我らを、彼を!数えきれない(無実の)信者達を彼は殺した。全ては彼の誤解であったのに。彼は言った、「我こそは宗教の保護者。我こそは、モーゼの道を守る真の信者なり」と。
さて、王には宰相があった。王に尾を振る卑屈な悪党。水をも騙して結び目を作りかねない狡猾な男であった。「キリスト教徒共は」、彼は言った。「生き延びようと必死です。彼らの宗教を、王の眼から隠そうと企んでいる様子」。
「殺戮をお控えなされ。一人、二人と殺したところで埒は明きませぬ。麝香や伽羅と違って、宗教には匂いというものがない。秘密は百枚ものヴェイルの下に隠されてあるもの。外面などいくらでも取り繕えましょう。王に服従していると見せかけ、王のお気に召すよう振る舞い、だが内面には常に反逆をはらみましょう」。
王は宰相に言った。「そのような虚偽と背信は何としてでも断ち切らねばならぬ。言え、おまえに策はあるのか?信仰を表わす者であれ、隠す者であれ。どちらであれ、キリスト教徒を一人残らずこの世から放逐せねばならぬ」。
「おお、偉大なる王よ」、宰相は言った。「わが両耳と両の手を切り落とし、鼻を削ぎ落とされよ。能う限り残虐に命ぜられよ。それから私を絞首台の下へ連れて行かれよ。誰かしらが、私のために命乞いをするでしょう。これは多くの民の眼前で行なわれねばなりませぬ。四方から道の交差するところで行なわれねばなりませぬ。それから私を、王の傍から遠い土地へ追放するよう命ぜられよ。私は民に紛れ込み、彼らの間に騒擾と混乱の種を植えましょう」。
「私は民にこう言います、 -
『今日の今日まで隠していたが、実は私はキリスト教徒なのだ。おお、神よ!全知の御方ならばご存知でしょう。私の信仰を知った王が、怒り狂って私の命を奪おうとしたのです。私は信仰を隠し通し、王には王と同じ宗教を信仰すると申し上げたのに。けれど王は私に近づくと、私が心の奥深くに秘めていた信仰を嗅ぎ取りました。そして私に疑惑を投げかけたのです。
王は私に言いました、 - オマエノ言葉ハぱんニ潜ム針ノヨウダ1。我ガ心臓トオマエノソレハ、一ツノ窓デ通ジテイルノダゾ。窓ヲ開ケレバ、オマエノ考エテイルコトナド見通シダ。私ハオマエノ思考ヲ見ル、オマエノ言葉ニ惑ワサレハセヌ - イエスの魂は私を救いませんでした。ユダヤ教徒の流儀に倣って、彼は私を引き裂いたのです。
イエスに対する無限の服従を示すため、私は私の人生も心も、私の身をも捧げました。私の命などイエスに捧げて惜しくはなかった。とは言うものの、私はこうして生き存えております。幸いなことに、彼の宗教に関する知識ならば私は精通しています。無知な人々によってこの聖なる宗教が滅ぶのは、私にとって堪え難い悲しみです。
- 神に讃えあれ、イエスに讃えあれ。私をして真実の信仰の伝道者とされました。私はユダヤ人とユダヤ教を完全に離れ、キリスト教徒の腰帯を締めた者。これからはイエスの時代です。人々よ、良く聴きなさい、私があなた方に彼の宗教の秘密についてお話ししましょう!』」。
王は宰相が申し出た策略を実行した。人々は彼の行いにただ驚愕するばかりだった。王は彼をキリスト教徒達の許へと追い払った。何もかもが策略通りだった。彼(宰相)はやがて、人々に帰依を呼びかけ始めた。
最初は少数だった。だがやがて無数のキリスト教徒達が、彼の許を訪れ彼を取り囲むようになった。彼は福音と腰帯と礼拝について説教をした。表面的には、彼は宗教の教義に関する伝道者であったが、内面的には口笛を罠に鳥をおびき寄せる鳥撃ちそのものであった。
このような事を危惧して、かつて教友2のうち幾人かが、預言者に教えを乞うたことがある。虚偽を行なわせる悪鬼のごとき心を、欲を、いかにして知るのか、と。彼らは言った、「崇拝の行為において、また精神上の献身において。自己愛や私利私欲が、こっそりと何かを紛れ込ませないとも限りませぬ」。
彼らが探し求めていたのは「信仰の美徳」ではなかったし、また外面上の瑕瑾などいささかも気に留めてはいなかった。だが欲が行なわせる欺瞞が入り込む隙については見逃すまいとした。ほんの毛一筋、ほんの微小な染み一点さえ、薔薇と芹とを見分けるように見分けようと心を砕いた。
(預言者が)彼らに訓戒を与えると、教友のうち最も実直かつ慎重な者でさえもが、自らが犯したかも知れぬ過ちを思い、心を震わせ取り乱したものだった。
宰相に、キリスト教徒達は心の全てを彼に預けてしまった。全くもって、大衆が盲目的に同じ方向へ突っ走る時の凄まじさと来たら!彼らの胸の内に、彼(宰相)への愛情を育み、彼らは彼をイエスの代理と看做した。実際には、彼は忌むべき隻眼の偽キリストだったのだが。
ああ、神よ!お聴きあれ、災難に苦しむ人々の泣き声を。お応えあれ、最も優れた援助者よ!
ああ、神よ。そこかしこに無数の罠と餌とが仕掛けられてある。そして我らときたら、腹を空かせた大食いの鳥そのもの。それで我らは、次から次へと新しい罠に翻弄され続ける。罠さえ無ければ、それぞれが鷹にも、シームルグにも成り得ようものを。
ほんの少しの間も空けず、貴方が次々と差し出す罠に、我らは何度でも捕えられる ー その繰り返しだ。全てを所有する御方よ、そしてそれ故に「欲する」ことを必要とせぬ御方よ!我らは収穫した小麦を納屋へ積む。積み上げたと同時に、得たはずの小麦を失う。積み上げる前に知恵を働かせておけば、性悪な鼠に小麦を盗まれることもなかっただろうに。だが気付くのは、全てが失われた後だ。
我らの納屋に鼠が穴を開ける。その狡猾さが、我らの納屋を壊して荒す。ならば我が魂よ、小麦の収穫に精を出す前に、鼠の害悪を避けることこそ我らが最初に為すべきことではないか?師の中の師(預言者)に連なるお人が伝えたところによれば、「礼拝は『それ(「存在」もしくは神)に意識を集中する』こと無くしては完結しない」という。
泥棒鼠は、確かに我ら自身の納屋にいるのだ。もしもいないと言うのなら、では我らが四十年積み重ねたはずの小麦3は、一体どこにあると言うのか?あれほど心を込めて誠実に行ない、日々少しづつ積み重ねて来たはずの礼拝が、跡形もなく我らが納屋から消え失せているとは一体どうしたことか?
(善行の)火打石を打ち付けると、沢山の星々(火の粉)がきらめいて飛び散る。心の蝋燭は火花を受け取り、炎を燃え上がらせようとする。だが暗闇にその身を潜める泥棒が、その指で星を、ひとつひとつひねり潰して消してしまう。生まれたばかりの星を、ひとつひとつひねり潰すのだ。これでは(精神の)空を照らすはずのランプも、輝きを灯さず放置されたままになる。我らの足元に残されたのは、幾千もの罠。御方よ、貴方さえ我らの側にいて下されば、何の憂いもなく進めるものを。
貴方は毎夜、肉体の檻という名の罠から精神を解き放つ
染み付いた記憶の埃を、跡形もなくきれいにぬぐい去る
精神は毎夜、肉体の檻という名の罠から解き放たれる
定めの教条や噂話、昔語りにさよならを告げる毎夜、囚人達は己を繋ぐ牢獄の鎖を忘れる
毎夜、皇帝達は己が手にした権力を忘れる
悲しみもなければ駆け引きもない
あの人、この人を思い煩うこともない -これぞعارف(アーリフ:知覚者)の状態、
目覚めている時でさえもこの通り、
「実際には眠っているのだが」と、神が申された通り。4怖れる必要は何もない。
彼は眠り続ける、昼も夜も -
現世に起こる事柄については、
主の御手の裡にある筆のように。
ある人は、書かれたものを眼にしながらも書き手については思い到らぬ。一体、筆が勝手に動くとでも思うのか?御方は比喩を用いてアーリフの、これ、この状態の一部をお示しになる。彼らの魂は地図なき砂漠の彼方へ消え去る。彼らの精神、彼らの肉体は平安と共に在る。だが俗なる者達は、諸感覚の眠りに妨げられて気付かない。
やがて貴方は合図する。魂を肉体の檻という名の罠へと呼び戻し、裁きと審判の場へ連れて行く。その朝、御方の命ずるままに審判の日の太陽が昇る。5イスラーフィールの喇叭が鳴り響き、魂は再び形ある世界に連れ戻される。精神は再び肉体に繋がれる。そして各々、己の行為の重みをその肩に知る。「睡眠は死の兄弟である」という言葉の、内なる意味がこれ。
御方は魂を創り給うた、鞍なき駿馬として。だが同時に、その脚には長い引き綱を括り付けてある。やがて暗闇から目覚め、昼の光に還る時のために。草原から再び呼び戻し、昼の光の許で御方の下された荷を運ぶ仕事を為さしめるために。そも、魂を護り給うたは御方であった。ある時は洞窟に眠る人々に託し、またある時はノアの箱舟に託した。心、そして目と耳を不眠と、意識より生じる形象の洪水から解き放つために。
ああ、洞窟の人よ!6彼らはこの世界のどこかに必ずいる。今この瞬間にも、その人はあなた方のすぐ傍に、すぐ目の前にいるかも知れぬ。洞窟はその人と共に在る、そしてその人の視線の先には『友』が在る。だがあなた方の目も耳も封印されていたのでは、恩恵に授かることは無いだろう。
カリフがライラを見て言った、「おまえがマジュヌーンを狂わせ、道を踏み外させたあのライラか?数多の美女達と比べても、おまえが格別優れているというわけでもないが」。「お黙りなさい、」ライラは答えた。「あなたはマジュヌーンではありませぬ」。
(外的世界に対して)目覚める者ほど、(内的世界に対して)より眠るもの。そうであれば、目覚めていることは眠るよりなお劣る。我らの魂が神に目覚めぬ間は、目を開けて眠らずにいるのは、目覚めを拒否し扉を閉ざすようなもの。日がな一日中、空想に耽り損得を勘定し、衰亡に怯えるばかり。魂のための歓びも、優しさも誇りも、天空を目指して旅をする手立てもない。
眠れる者、それはありとあらゆる虚しい空想に希望を託して、それらを相手に語り続ける者である。悪魔でさえ、眠る様子は楽園に住まう清らかな乙女のよう。だが次の瞬間には激しい欲望を浴びせかけてくる。
塩気の強い大地に種を蒔いても芽は出ない。その場に執着してみたところで、泥に塗れて汚れるばかりだ。嘆くな、胸を痛めるな。見ているそれは幻。幻を見せるその視覚さえも「視覚」ではない。
鳥は空高く飛翔する。地上に落とされたその影も、飛ぶ鳥と同じ速さで通り過ぎる。愚か者はその影を追って走る。あまりに遠くまで走って、ついには力尽きてしまう。それが空中を飛翔する鳥の反射であるとも知らず、影の根源がどこにあるかも知らない。影に向って矢を放ち、探しまわるうちにやがて矢を使い果たし、矢筒は空になる。彼の生命の矢筒が空になったのだ。夢中で影を追い回す間にも、人生は過ぎ去っていったのだ。
追っていたのが、神の御影であったならば。神の御影は彼の乳母となり、あらゆる錯覚と幻影から彼を守るだろう。神の御影とはすなわち神の従僕。現世を通さず、神を通していのちを生きる者。臆することなくその衣の裾を掴め。この世の終末の日に、その裾にあなたが守られてあるように。「神の御影」というコトバを用いて影を引き延ばすそれ、それは聖なる太陽の光へと導く聖者達の姿だ。
案内する者なしに、この谷に入ってはならない。خليل(ハリール:友。預言者アブラハムを指す)が語ったように語れ、「私は沈むものを好まない」、と。行け、影を追って影から太陽を得よ。タブリーズの太陽、精神の王たるお人の裾にすがりつけ!この饗宴、この婚礼へ至る道を知らぬと言うのなら、ضياء الحق(ズィヤーゥ・ル・ハック:真理の光輝)たるフサームッディーンに尋ねよ!
そしてもしもこの道の途中で、妬みがその喉を捕えるのなら。度を越した妬みこそはイブリース(堕天使、悪魔)の特性であることを知れ。彼が天より墜落したのも、まさしくアダムを妬み軽蔑しようと試みたため。妬みゆえに、至福に戦いを挑む。
この道を歩む途上において、これほどの難所は他に無い。妬みを道連れにせずに済む人の、なんと幸運なことだろうか。この肉体、これこそが妬みの棲み処と知れ。見よ、そこに住まう同胞ですら妬みに染まっているのを。
肉体は妬みの棲み処。 - とは言えそもそもその肉体を、神は極めて清く創られたのだ、我が友よ。「我が家を浄めよ(コーラン22章26節)」という御言葉の解釈はまさしくこれ、清浄を指している。浄められた心は(神聖なる)光を宿して、それは地上の護符となろう。たとえこの肉体が、泥土より創られたものだとしても。
妬まぬ者に虚偽を行い、妬まぬ者を妬むとき、その妬みは心に黒い染みを生じさせる。神の従僕の足許の、あなたは塵のようであれ。妬みの頭に塵を投げつけよ、ちょうど我らもまたそうするように。
かの卑しき宰相の、元を辿ればその動機は妬みにあった。その虚飾、その慢心ゆえに、彼は耳と鼻とを風塵のように捨て去ったのだった。彼が欲するところはただ一つ。貧しき者(キリスト教徒)の魂に、妬みの針で彼自身の毒を注ぎ込むこと。
誰であれ、妬む者とはすなわち自分自身の手によって耳と鼻とを削ぎ落とす者。精神的な物事は鼻で嗅ぎ分ける以外に捕える方法がない。嗅覚は自ずと香気を捕え、真実の住まう処へと導く。だが誰であれ、嗅覚を持たぬ者は香気を知らない。
ここでいう香気とは、信仰が漂わせる芳香を指す。香気を捕えておきながら、与えられたそれに感謝をしない者がある。忘恩は、やがてその鼻を貪る。精神上の諸問題を認識する器官を奪い去ってしまう。
(神に)感謝を捧げよ、感謝を捧げる人々の従僕であれ。彼らと行動を共にし彼らとひとつになれ、完全に、不変に。かの宰相のようであってはならない。あなたの大事なものを、あなた自身から奪い取るようであってはならない。人々を、日々の礼拝から締め出すようであってはならない。
かの非道なる宰相は、一見すれば本物の、宗教の助言者のようであった。だが彼がしたことは、アーモンドの菓子に大蒜を忍び込ませることだった。
彼の言葉はまるで甘い菓子のようだった。だが洞察力を備えた者ならば、甘みと共に、苦い後味が加えられているのを感じ取った。
彼(宰相)は精妙な言葉を駆使しつつ、巧みに混ぜ物をした。砂糖で甘みをつけた飲み物に、少々の毒を垂らした。外側に現れる感覚に対しては「勤勉に励めよ」と語りかけたが、その内実では魂に向って「堕落せよ」と語りかけた。たとえ銀の表面が、新しく白く輝いていても、触れた手指、触れた布はたちまち黒くなるのと似ていた。
火の粉を散らす火事を見よ、その顔は赤く光り輝いている。だが顔ではなくその行為を見よ、家屋を焼き尽くすその振る舞いは黒々として陰惨である。稲妻は、一見すれば明るい光そのもののようである。だがその振る舞いは、まさしく視覚を奪い去る略奪者のそれだ。 - 用心深さを持ち合わせず、洞察力に欠けた者は誰であれ、宰相の言葉を襟飾りのようにその首に巻き付けた。
王から離れて六年の月日が流れた。宰相は今やイエスの道を歩む者達の、憩いの泉となっていた。人々は彼らの心臓と宗教とを、完全に彼に委ねきっていた。一言、彼が命じさえすれば彼らは死をも選ぶだろう。準備は整っていた。
王と宰相との間で秘密の書簡が交わされた。彼の言葉に、王は密かな安堵を得ていた。王は宰相に書き送った、 ー 「我が幸運を握る者よ、時は満ちた。速く速く、事を成し遂げてくれ。我が心に安寧をもたらしてくれ」。宰相は王に返事を送った ー 「王よ、ご覧あれ。イエスの宗教の内部へ、私が投げ入れる混乱を」。
イエスの宗教を奉じる人々には、彼らに対して権限を持つ十二人の司祭達があった。人々はそれぞれ、自分の属する司祭に教えを乞うていた。
やがて人々は地上の富を欲し、それを満たすために自分の属する司祭を熱心に担ぐようになった。十二人の司祭と、司祭を支持する人々の集まりは、悪の象徴たる宰相の奴隷のようになった。
彼らの全てが、彼の言葉を信じ込み、彼らの全てが、彼の行為を手本とした。司祭達はそれぞれ、彼が死ねと命ずれば、彼の目の前で、時を違えず命令された通りに命を断つだろう。
宰相は、司祭達に宛てて書簡を用意した。書簡は一つひとつ異なる調子で書かれていた。それは布告であったが、全てを書き終えた時、それらの布告は最初から最後までお互いの布告を否定しあう矛盾に満ちていたのだった。
一通めの書簡に、悔悟の証しは断食によってのみ示されるものであると綴り、禁欲主義を称揚し転向を迫った。
次の書簡にはこう綴った - 「禁欲は無益なり。与えるばかりでは何一つ得られるところがない」。
また別の書簡には - 「与えなさい、飢餓を得るまで。あなたが飢えれば、あなたが崇拝する主との結びつきはより強まることを意味します」「神のみを信じなさい、悲哀と歓喜を完全に断ち切りなさい。それらは全て偽りの感情、あなたを嵌める罠に過ぎません」。
また別の書簡には - 「神に奉仕することこそあなたの義務。信仰以外の思考は全て捨てなさい、それは不信仰の源となります」。
また別の書簡には - 「聖法は合法と非合法を知らせますが、これに従う必要はありません。これは私達がいかに弱く、いかに不完全かを知らしめるために下されているのです」「ですから私達は自らの弱さを知りましょう、そして神の偉大さを讃えましょう」。
また別の書簡には - 「自らの弱さを克服せよ!信仰を強化せよ!弱い信仰は神に対する冒涜である!」「自らの能力を知れ!それは神から与えられた能力である!あなたには特別に絶対者たる神から与えられた能力が備わっているのだ!」。
また別の書簡には - 「弱い、強いと比較するのは二元論者のすることである。二元論は全て偶像崇拝の源であるからこれを避けて神のみに専念せよ」。
また別の書簡には - 「蝋燭を吹き消してはならぬ。蝋燭により自らの照らし内観に集中せよ」「蝋燭を吹き消せばあなたも消える。あなたの思考、あなたの意識が消え失せる。暗闇と合一する他に術が無くなってしまう」。
また別の書簡には - 「蝋燭を吹き消せ ー 怖れることはない。怖れと引き換えに、数えきれぬほどの知識が与えられるだろう」「蝋燭を吹き消せば、引き換えに精神力も高まる。あなたが自己を抑制すれば、冷たいライラ(愛する者)も情熱的なマジュヌーン(恋人)となるだろう」「現世を自ら放棄する者に対し、現世は敬意を払ってより多くを与えるであろう」。
また別の書簡には - 「神はあなたに多くを与えるでしょう、神が与えるものは全てあなたのために特別に素敵なものとされるでしょう」「神は全てを容易になされます、あなたは祝福されています。快く祝福を受取りなさい、苦しみは極力避けるようにしなさい」。
また別の書簡には - 「捨て去りなさい。所有は過ちであり、あなたの自然に反する悪であります」「捨て去ることで、いかなる道でも歩めるようになります。誰であれ全てを捨て去った者は、ただ生きているだけで宗教の実践となります」「道は容易ではありません。もしも容易な道が神の道であるならば、今ごろ全てのユダヤ教徒とゾロアスター教徒が改宗していることでしょう」。
また別の書簡には - 「精神的な糧のみを心の滋養にするというのは、非常に安易であると言わざるを得ない」「肉体の官能を捨て去ってしまうのは、塩気のある土から収穫を得ようと試みるようなもの」「得られる収穫は、ただ後悔に他ならない。そのような収穫を得たところで損失以外の何も残されません」「最終的に、それは安楽ではなく困難の道となるのです。安楽と困難を識別しなさい。これとあれとの線引きについて熟慮しなさい」。
また別の書簡には - 「師を探し求めなさい。師無くしては受け継がれてきた価値を見出すことなど出来っこありません」「あらゆる宗派は勝手な推測を試みたがるものです。当然ながら、彼らは自らの過ちの虜囚となりました」「終末を予測することは、機織りのような単純な仕事ではありません。さもなければ、どうしてこれほど多くの宗派が存在するというのでしょうか?」。
また別の書簡には - 「師が誰なのか分かっていますね?そうです、あなた自身が師なのです」「成人たるもの、他人に従属するべきではない。自分自身をあなたの先頭としなさい。師を探し求めてあちこちに頭を向けるのではなく、自分自身のために頭を使いなさい」。
また別の書簡には - 「全ては一なるものが見せていること。そこに多を見る者とは、すなわち薮睨みの木偶である」。
また別の書簡には - 「多が一に見えるとは何ごとか?そのように考える者は正気ではない」。
送り付けられた教理の全てが、互いに矛盾し合っていた。毒と砂糖は同一ではない。どうして同一と言えるだろうか?毒と砂糖の相違を超えずして、どうして万物の不変性と一性の芳香を捕えることが出来ようか?
このような形式と流儀を備えた十二冊の書物が、イエスの宗教の敵の手によってしたためられたのである。
彼(宰相)はイエスの匂いを知らなかった。イエスの染め色を全く理解していなかった。彼の性質という布は、イエスの色染め桶にいささかも染まるということがなかった。
純然の色染め桶に布をひたせば、それが百の色を持つ布であってさえも純然たる唯一の色に染まる、すなわち光というただ一色に。それは色を抜くということではない。使い果たしてくたびれて褪色するということではない。否、それは魚と、透き通る水のような交わりだ。
陸地には幾千もの色というものがある。だが陸地は陸地。いかに色鮮やかであるとは言っても、魚からすれば乾いた死の世界に過ぎない。かの「偉大なる王」について、その素晴らしさについて語るとき、私は海になぞらえる。さあ、魚とは何だ?そして水とは何を指す?
存在の領域にあって、無数の海と魚達が祈りを捧げている。全身全霊を傾けて讃美している。かの御方の、物惜しみせぬ気前の良さを、与えられる豊かな恩寵を。いったい、どれだけ多くの雨を御方は降らせたもうたことか。ごらん、海が讃美するのを!感謝の印に、降らされた雨もて真珠を育みまき散らすのを!
ごらん、太陽を。来る日も来る日も、幾度でも照らして輝くその寛大さを。雲も海も、その寛大さは太陽から学んだのだ。太陽の光は知恵の光だ。ごらん、大地を。知恵の光を吸い込んで、種子を受け入れるのを。
土は誠実だ、信頼されれば決して裏切らない。決して誤摩化したりはしない。あなた方が種子を蒔けば必ず応える。そしてあなた方はそれを収穫する。それも、これも、その誠実さは、かの聖なる御方の誠実さから学んだのだ。ごらん、太陽を。あまねく万物の上に公正に輝きをもたらすその誠実さを。ごらん、大地を。動かず、じっと待ち続けている。気前良き御方が惜しみなく与えたもうたのだ、知識を、誠実さを、高潔さを。
やがて春が訪れる、神の御印をたずさえて。それまでの間、土は秘密を明かさずにじっと待っている。声も無く動きもせぬあれらの方が、我らよりよほど多くを知っている。だが知識人達にはそれが理解出来ない。理解出来ていると思い込む彼らの眼を、御方の怒りが塞いでいるのだ。
それを思うと、魂も心も沸き返る。私にはとても耐えきれない。だが一体、誰に向って話しかければ良いというのか?私の抱くこの不安、この危惧を語ったところで、聞き入れるに耐えうる耳など、ただの一つでも在った試しがあっただろうか?
どこでも構わない、これを聞く耳が世界のどこかに在ったならば!その耳は、御方を通して眼となろう。どこであれ、そこに石が在ったならば!その石は、御方を通して碧玉となろう。御方は錬金術師だ - そも錬金術とは何か?御業を見よ、それは(預言者達に)与えられた奇跡の裡にある。 - では魔術とは何か?御業を見よ、預言者達の奇跡を見よ。それ以外は全て魔術だ。
- やれやれ。御方への讃美を長々と述べるというのは私の悪癖、私の罪だ。本来、讃美はするものであって語るものではない。語れば語るだけ、讃美そのものがおろそかになる。
語るということ、これはすなわちおのれの存在を主張しよう、証明しようという働きだ。全くもって、おのれを捨て切れぬというのは罪以外の何ものでもない。御方という実在の前にあって、おのれを捨て切り非実在と成りきることこそが守るべき教条。御方という実在の前にあって、おのれの無知、おのれの未熟さを知り抜くことだ。おのれの無知を知れば、後はただ御方の前に溶けて消え失せるだけ。太陽の熱を「知る」氷が、陽の光に溶けて消え失せるように。
見よ、喪に服しているかのようなこの世界を。太陽の熱を「知る」こともなく、凍り付いたまま微動だにしない圧倒的な死の世界を。
彼の仕える王と同じく、宰相は無知かつ無思慮であった。彼は虚しくあらがっていた、永遠なるもの、不可避の必然なるものに対して。神なる存在、「その息」ひとつで百の世界を創造する存在に対して。我らを無から有へと創造する存在に対して。
御方が、あなた方の眼を御方ご自身の光によって開く時 - 同時に、百の世界が視界に飛び込んで来るだろう。あなた方にとり世界が限りなく巨大なもののように見えるのならば、知れ、全能の神にとって、世界など原子の一粒にもあたらないことを。
この世界、これは間違いなくあなた方の魂を繋ぐ牢獄。 - ああ、超えて行け。はるか彼方、あなた方のために用意された広々としたあの地へ。ここは限りある世界。限りある世界を去って、行け、限りなき世界へ。
姿や形に背を向けよ、それらはリアリティをさえぎる障害に過ぎない。
ファラオが差し向けた無数の槍も、モーゼが手にするたった一本の杖によって打ち砕かれた。アスクレピオスに仕えたガレノスは、無数の治療の技を編み出した。だがそれもイエスと、彼の吹きかける息の前には物笑いの種に過ぎない。数えきれぬほど詠われた、(無明時代の)詩の数々を見よ。文盲の(預言者の)言葉ひとつを前に、恥と共に崩れ落ちたではないか。
全てを支配する主の御前にあって、どうして我を押し通せようか - みじめな罪人でもない限り。山のごとく微動だにせぬ頑な心を、御方は尾根ごと引き抜いてしまう。小賢しい小鳥の両脚を、御方は掴んで吊るし上げてしまう。知性と分別を鋭く磨き上げることは、この場合得策であるとは言えぬ。かの王の恩寵を賜る唯一の方法、それは手にした槍の全てを打ち砕くことだ。
ああ、財宝を求めて彷徨う者よ、穴という穴を掘り尽くす者よ。掘って掘って、掘り続けるうちに、雄牛の顎髭から抜け落ちて(※欺いて)、宰相の如く驕慢の策士と成り果てた者よ!顎髭よ、おまえの主たる雄牛とは誰か?切り株よ、おまえの主たる地球とは何処か?
自らの不正を恥じる女の頬が青ざめる時。その時、神は女をالزهرى(ズフラ:金星)に変化させる。女は金星に変化することをさえも厭わない。ならば地球とその土に固執することに何の価値があろうか、何を抗い続けるのか。
おまえの精神が、おまえを最も高い天球へと連れて行こうというのに。おまえは水に流され泥にまみれ、最も低い処に留まろうというのか。かつておまえが在ったその地位を、理性と知性の極地たる天使達までもが羨んだ。おまえはその階梯から、自らを転落させるのか。おまえはそれを変化と呼ぶのか。それがおまえの変化なのか。熟考せよ、女の成し遂げる変化と、おまえの変化とを今一度見比べるがいい。あまりと言えばあまりにも粗悪ではないか。
おまえは星々めがけて野心の馬を駆り立てた。(天使達の)崇拝を受けるアダムには眼もくれず、会釈することもなく通り過ぎた。倒錯も甚だしい変節者よ!何と言おうと、おまえはアダムの末裔。一体いつまで、卑しさと気高さとを混同し続けるつもりなのか。一体いつまで、言い続けるつもりなのか、「我こそは世界の征服者となる、我こそは全世界を我がものとしてみせる」、と。
たとえ全世界の隅から隅まで、氷雪に埋め尽くされようとも。たった一度でも太陽が瞳を瞬かせたならば、その輝きは全てを溶かして消し去るだろう。神が(その慈悲を)たった一度閃かせたならば。彼(宰相)の(罪の)重荷はたちまち無に帰するだろう。たとえそれが百人、百万人の宰相が残した重荷であったとしても。(まがいものの)妄想であっても、その根源、その本質には御方の知恵が在る。毒の混ざった水であっても、その根源、その本質は御方の善き水が在る。
疑いの嵐を引き起こす事象の裡にこそ、御方は確信を打ち立てる。憎悪をまき散らす事象の裡にこそ、御方は慈愛を育て上げる。御方は炎をもってアブラハムを慈しまれる。御方は恐怖をもって勇気の護りとされる。御方は破壊の炎をもってその意図を隠蔽し給う。破壊も炎もさして重要ではない、隠蔽された御方の意図こそが重要なのだ。
- だがそれでも破壊と炎を前にして、私は動揺を禁じ得ぬ。(胸の内に)御方を想うとき、懐疑論者のごとく、不可知論者のごとく、 - つまり哲学者のごとく振る舞う私がそこにいる。
宰相は心の中に、更にもう一つの企みを作り上げていた。ある日を境に、彼は説教を放棄した。そして誰にも会わずに独り隠遁した。そうすることで、信奉者達の心に熱情を沸き立たせたのだった。信奉者達は彼を恋しがり彼に会うことを切望したが、彼は隠遁したまま誰にも会わなかった。
彼の感触、彼の声音、彼の導きから切り離されて、人々は彼への憧れを募らせ、狂ったように彼を求めた。彼が固く独居を続ける間も、耐え難さに身を捩り懇願し、彼の不在を嘆いた。 人々は言った、 - 「貴方無しでは光を失ったも同然です。暗闇に取り残され、導きも無く、一体どうすれば良いというのでしょう。どうか私達を見捨てないで下さい、ご好意をお示し下さい。これ以上私達を貴方から遠ざけないで下さい」「私達は赤ん坊、貴方は乳母。どうぞ私達を、貴方の庇護の影の下にお守り下さい」。
宰相は答えた - 「私の魂は、愛する人々と共にあります。ただ、未だお籠りを終わらせても良いという知らせが届いてはおりませぬので」。
やがて司祭達も執り成しのためにやって来た。全員が口々に不満を訴えた。 - 「貴い導師様、こんな災難が降り掛かるとは思いもしませんでした!貴方ときたら私達を放ったらかしで、私達は心と宗教の寄る辺を無くした孤児のよう。私達の悲しみに凍り付いたため息が、やがて燃え盛る心の熱に変わっても、貴方ときたらもったいぶって、何ひとつしてくれやしないのですから。
貴方の優しく巧みな導き抜きにはいられません、貴方の知恵の乳を飲んでしまった今となっては。神よ!神よ!ああ、導師様、こんな酷い仕打ちはやめて下さい、明日などと言わずに出て来て下さい、今日こそは貴方に会わねばならぬ。私達の心臓を欲されたのは、貴方の心臓ではなかったか?そして今まさに貴方の望みは叶えられたのだ。貴方無しで、私達に何が残ると仰るのか。
ご覧下され、陸の上の魚のように皆が苦しみ喘いでおります。水を下され、水門を開けて下され、流れを塞き止めないで下され。この世に貴方のような人は二人といない。お願いです、お願いです、どうか貴方の民をお救い下さい!」。
宰相は答えて言った - 「控えなさい。あなた方ときたら全く言葉やおしゃべりの奴隷のようではないか。舌に踊らされ耳に踊らされ、肝心なことを理解していないようですね。耳穴に綿を詰めなさい、肉体の感覚に執着せずに済むように。眼を覆う包帯を取払いなさい、肉体の感覚に執着せずに済むように!
頭の脇についている肉の耳は、意識の耳を塞ぐ綿のようなもの。すっかり聴こえなくなるまでは、内奥の耳は働きません。感覚を捨てて、耳を捨てて、思考を捨てて、それで初めて聴こえるようになるのだ、神が魂に語りかけるその声を、『還れ!』とのお言葉を」。
- 閑話休題。やれやれ。毎夜毎夜、そのように眼を見開いて「話せ、話せ」とせっつきおって。こうも夜通し目覚めて過ごしていたのでは、どうして眠れる魂の、会話に漂う芳香を捕えることなど出来ようか。われらの言葉も行為も、肉体の為せる業に過ぎぬ。内奥の旅は、はるか空高くに在るものだ。肉体の感覚で何を捕えようとも、渇きはいや増すばかりだ。何故ならそもそもこの肉体が、地上に生じたものなのだから。
イエスを想え。彼の精神は海の上を軽々と歩いた。肉体はやがて元の乾いた土塊に還り、乾いたこの地に還るのだろう。だが精神の旅は違う。一歩を踏み出したと同時に、おまえを海の中心へと連れ出すだろう。
人の一生というのは、乾いた土地を巡る旅のようなもの。山へ入り、川へ入り、たどり着いてみればそこは茫々たる砂漠だ。いつになれば、生命の水にたどり着けようか?一体いつになれば、海へ出て波間を切り裂けようか?泡立つ波また波。波のひとつひとつは、われらの心象であり知識であり、思考の産物だ。
波の形に眼を奪われるな、波を形作る水にこそ潜れ。そこに没我の境地があり、酩酊の境地があり、合一の境地がある。肉体の酩酊に捕われている間は、精神の酩酊からはほど遠いと知れ。「これ」に酔っているうちは、「それ」の杯すら視ることも叶わぬ。外側にこぼれ出た言葉など、そのまま落ちて塵になるだけだ。 一度で良い、沈黙に身を任せてみろ。 - ええい、黙れ。私はもう眠りたい。おまえも、沈黙を身の習いとせよ。
人々は皆口を揃えて言った - 「賢者様がそのような言い逃れをなさるとは!そんな陰険な、そんな残酷なことを仰らないで下さい。強き者にはそれ相応の重荷が課されることもありましょうが、弱き者にはやはりそれ相応の軽き荷でなくては」。
「全ての鳥がついばむ餌も、鳥の数だけ種類があります。全ての鳥達が、同じ無花果をついばむということはありますまい。赤ん坊に乳ではなくパンを与えたならば、哀れな赤ん坊はパンに殺されることになりましょう。やがて赤ん坊に歯が生えて、赤ん坊自らパンを欲するようにならない限りは」。
「羽もはえ揃わぬ雛鳥が飛び始めれば、強欲な猫は一口で餌食にしてのけるでしょう。やがて翼が整えばその時は、良かれ悪しかれ、ぴいぴいと鳴くこともなく何の障りもなく飛び立つようになりましょう」。
「貴方の説諭は、悪魔をも沈黙させる。貴方の言葉は、我らの耳を知識で満たす。貴方が語らねば我らの耳は知識を忘れる。我らという乾いた砂漠が川となるのも、貴方という海あってこそ」。
「貴方と共に在るならば、この地上こそ天国よりも好ましい。貴方は地上のアルクトゥルス、貴方が熊を追うてこそ、魚座は守られ照り輝く。貴方無しでは、天国など我らには暗闇のよう - 貴方を知った以上は。ああ、我らの月よ。天国など一体何だと言うのか」。
「成る程、姿形から言えば天国は美の極地でありましょう。だがその本質を捉えられるのは精神のみ。本質の前には、姿形など単なる名に過ぎませぬ」。
宰相は答えた、 - 「議論の矛先を収めなさい。私の助言をもって、あなた方の魂と心の導きとしなさい。私が信頼に足る者であると言うならば、私を信頼すると言うならば、疑ってはいけない、たとえ私が天を地と呼んだとしても。私を完璧だと誉め讃えつつ、私の為すことに不平を言うとはどういうことなのか。私を疑っているも同然ではないか。何故このように私を悩ませ苦しめるのか。私は隠遁を終わらせるつもりはない。瞑想に没入しているのだから」。
人々は言い募った - 「ああ、導師様。貴方を疑っているのではありません、私達の言葉は、もの知らずな門外漢のそれではありません。私達の眼から伝う涙は、貴方との別離を悲しんでのこと。私達の魂の奥からは、後から後からため息ばかりがこぼれます。赤ん坊が乳母と言い争うなどあり得ましょうか?赤ん坊はただ泣くだけです、善悪の区別などつくはずもありません」。
私達は竪琴、爪弾くのは貴方
弔いの歌が聴こえたなら、
それを奏でているのは貴方私達は笛、吹き鳴らすのは貴方
私達は連なる山々、貴方の声をこだまする私達は勝敗に繋がれたチェスの駒
私達の勝利も敗北も貴方の手ひとつ、
ああ、非の打ちどころなき者よ!教えてくれ、私達は一体何者なのか?
魂の中の魂よ、貴方の側にいること無しに
私達は存在することすらままならぬ
- 「私達」などと言ってみたところで、実際のところ我らも、我らの存在も無だ。御方という必然が在って初めて、我らという偶有が生起する。
我らは獅子、ただし絵師の手により旗に描かれた獅子。
絶え間なく吹き渡る風が無ければ、旗も翻りはしない。
翻る旗の動きを視ることは出来ても、
旗を翻す風そのものを視ることは叶わぬ -
我らを遠ざけたもうな、不可視の「それ」よ!存在の歓喜を知らしめたもうも御方なら、
愛を教えたもうも御方。取り上げ給うな、貴方の恩寵を。
取り上げ給うな、貴方という甘い菓子を、葡萄酒を、酒杯を!もしも貴方がそれらを取り上げ給うならば、
一体何を導きとして貴方を探せば良いものか?
描かれた絵画に、どうして画家を描けようか?見るな、我らを凝視し給うな。
問うならば貴方の恩寵を、
貴方のお慈悲の行く末をこそ問われんことを。我らはかつて一度たりとも存在せず、
何ものをも欲さなんだ -
御方の慈悲が、我らの無言の祈りを聞き届け給うまでは。
画家と絵筆を前にして、無力な絵画に何が出来ようか。子宮の中の赤子と同じ、抗うなど夢のまた夢。全能者を前にして、現世という聖なる法廷に集う観衆達に何が出来ようか。針持つ職人の手にある布切れに、黙って刺繍を施される以外に何が出来ようか。
御方は絵画を描かれる。同じ一つの絵画の、こちらに悪魔を、こちらにアダムを描き加える。同じ一つの絵画の、こちらに歓喜を、こちらに悲哀を描き加える。絵筆を動かす画家の御手を、制止するなど誰に出来ようか。もたらされる破壊と創造に、口出しするなど誰に出来ようか。
これについてはコーランにもある通りだ、「汝が投げるとき、投げるのは汝自身ではない」、と。我らが矢を放つとき、それは我ら自身が放つのではない。神こそは矢を放つ射手であり、我らは弓に過ぎぬ。
否、جبر(ジャブル:運命予定論)について話しているのではない。الجبار(ジャッバール:神の名のひとつ)について話している。その名を通して神の全能を知らしめ、謙虚さとは何かを知らしめることこそ、この節の意図するところ。謙虚さ、これこそが神の全能の紛れも無い証明。
その一方で、罪の意識が存在する。こちらは自由意志の紛れも無い証明となる。もしも自由意志が存在しないと言うのなら、この恥の意識は何処から来るのか?この悲しみ、この疾しさ、この混乱と当惑は一体何を意味するのか?何故に弟子は励み、導師は導くのか?何故に心は、運命の定めるところを斥けようとするのか?
「自由意志を主張する者とは運命を無視する者、驕慢な者。彼らに対し神は月(真理)を雲間に隠す」と言う者がある。それに対する答えはこうだ、「不信仰を手放し、真の宗教に目覚めよ」。もしも聴く耳があればの話だが。
病に冒されれば、たちまち後悔と自責の念がわき起こる。病は、良心を目覚めさせる引き金となる。病に罹れば、癒しを求めて神に祈る。罪の汚れこそが道しるべとなるのだ。見せつけられて、それでやっと正しい道の方へ進む。約束をし、誓いを立て、それからは神に従う道以外は歩まぬようになる。従って、罪という病こそが良心と目覚めさせ意識に覚醒を与えることは明白。
この法理を心に留めておけ、法理を探し求める者よ。誰であれ苦痛に喘ぐ者とは、すなわち法理の芳香を捉えた者だ。目覚めた者であればあるほど、より多くの苦痛を味わっている。神を意識する者であればあるほど、その頬はより青ざめている。謙譲の念を示して見せよ、御方の威光を意識する者ならば。掲げて見せよ、御方の全能に繋がれた鎖を。鎖に繋がれている者が、どうして浮かれてなどいられようか?牢獄に繋がれている捕虜が「自由」だと?馬鹿な!
理解しているのか、おまえの両足が繋がれていることを。おまえを見張る官吏がいることを、おまえは真に理解しているのか。ならば今すぐに驕慢を改めるがいい、か弱き者に対する理不尽な官吏のごとき態度を。おまえもまた捕虜ではないか、それが捕虜のすることか!御方の威光を見もせずに、「見た」だのと主張するとは何ごとか。本当に「見た」と言うのならば、では一体どこでどのように「見た」と言うのか。
あらゆることを散々好き勝手にやっている間は、おまえはそれを成し遂げる力は明らかに自分にあると考えている。だが散々好き勝手にやった後で、その結果がおまえ好みのものではないと知った途端に、おまえは運命論者に早変わりして言う、「これは神の思し召しだ」。
現世において、神の思し召しに従うのが預言者達。一方で、不信仰者達は神の思し召しについては来世のことと棚上げする。来世に関して、預言者達は自由意志を働かせる。一方で、愚者達は現世に関して自由意志を働かせる。あらゆる鳥は自分と似通ったものの方へと飛んで行く。見よ、鳥が群れを作って飛んで行く。魂を先駆けに、肉体を背後に引き摺りながら。
不信仰者達とالسجن(スィッジーン:地獄)は互いの友。それで彼らは、現世というسجن(牢獄)に争って群がる。預言者達とعليين(イッリッイーン:頂上・転じて天国)は互いの友。それで彼らは、精神と心のعليينを目指して歩む。これについては、どれほ語っても語り尽くせるものではない。 - だが今はひとまず置いて物語に戻り、その結末を見るとしようか。
閉じた扉の内側から、宰相は大声で言った、 - 「弟子達よ!これが私から貴方達への知らせだ。イエスが私にお告げを下された、『全ての友人と縁者から去れ』と。『汝の顔を壁に押し当て、一人そこへ座り、全てを捨て去れ、汝自身さえも』と。このお告げが下されてから、私は話しても良いという赦しを得ていない。
従って私はこれ以降、お喋りとは無縁だ。さらば、我が友よ!私は死んだものと思え。私は私に連なるものを天へと連れて行こう。そうすれば地獄の薪のように、悲嘆と苦悩の炎に焼かれることもなく、第四の天の頂上におわしますイエスのお傍に、この先ずっと座することも出来るだろう」。
それから宰相は司祭達のうち一人を呼び出して言葉を交わした。彼は司祭に告げた、 - 「イエスの宗教にあっては、貴殿こそは神の代理、私の後継者。そしてその他の司祭達は、貴殿の意向に従う者達。彼らは皆、貴殿に仕える者。イエスがそのように定めました。貴殿以外の司祭のうち、誰であれ貴殿に対し反乱の素振りを見せるなら、その時は彼を捕らえ、殺すなり幽閉するなりしなさい。
だが私が生きている間は、これを隠し通しなさい。私が死んだ時、それは貴殿が最高の権限を手にする時です。私が死ぬまで待っていなさい。それまでは私に従いなさい、私を支配しようとしてはならない。さあ、この巻物を受取りなさい、救世主の約定が記されています。私の死後、一語一句違わずに復誦しなさい、救世主の民に向って」。
宰相は、このように司祭達を別々に呼び出し、二人きりの席でそれぞれにこう告げた。 - 「貴方こそは神の宗教を司るのにふさわしい」。一人ひとり、順々に呼び出して誉め讃えた。こちらの司祭に告げた言葉を、一語たりとも違わずにあちらの司祭にも告げた。そして一人ひとりに巻物を手渡した、互いに矛盾し合う言葉に満ちた巻物を。
巻物は一つひとつ全てが違っていた、書かれた文字すらも違っていた。こちらに書かれた教条は、あちらに書かれた教条に反していた、教条の中味は、 - これは既に語った通りだ。
その後、彼は扉を完全に閉ざした。四十日の隠遁生活の後に、彼は自ら命を断ち、自らの汚れた足跡のみを残して去っていった。彼の死を知って、人々は嘆き悲しんだ。彼の墓場はあたかも復活の日のように騒然となった。多くの人々が集まって、彼を失った悲しみに、髪をかきむしり衣を引き裂いた。
一体どれほどの人が集まったのか、数えられるのは神のみであっただろう。アラブも、テュルクも、クルドも、ギリシャ人もそこに集まっていた!彼らは墓に頭をこすりつけて接吻した。最大の癒し手を失った痛みに、苦悩することしきりだった。それからひと月の間、多くの人々が彼の墓を訪れた。墓への道は、彼らの流す血の涙で乾く暇もなかった。
さてひと月が過ぎ去った頃、人々は言った。 - 「司祭様、司祭様。一体あなた方のうち、どなたが後継の方なのでしょうか?亡くなられたあの方の代わりに、私達を導くのはどなたでしょう?お示し下さい、そうすれば私達は従いましょう。そして私達の手を預けましょう、あの方の手に再び連なるために。私達の心臓を巡る血は、悲しみに凍り付いたまま。とは言うものの、ランプに明かりを灯さねばなりません、太陽が沈んでしまった今となっては」。
愛する者との和合の記憶が、否応無しに我らの視界から遠ざかって行く。そのような時、我らは愛の形見を欲さずにはおられなくなる。我らの記憶を呼び戻してくれる愛の形見、これすなわち我らの導師。薔薇の季節は過ぎ去って庭も荒れ果てた頃、薔薇水は我らに薔薇の芳香を思い出させてくれる。
我らの視覚は神を捉えることは叶わぬ。だが我らには預言者達がおられる、神の代理としての預言者達が。
否、これは誤りだ、私の言わんとするところとは違う。代理者と、代理者によって顕現するところの御方が二つに分離されているようでは、否、否、それは正しくない。それらを二つに分離するのは、姿形に拘泥する偶像崇拝者だ。偶像崇拝を脱し、姿形への拘泥を脱した者の眼にのみ、それらは一として映る。
姿形を捉えようとする者の眼には、それらは二として映るだろう。だが光を捉えようとする者の眼には、それは常に一として映るだろう。ものを視るのに、自らに備わる二つの眼を通じ、己自身の能力をもってものを視ているなどと考える者に、この光を捉えることは不可能だ。
ここに十のランプが集められ灯されている。それぞれに、異なる形のランプばかりだ。だが灯された光の一つひとつを、区別し分離するなど不可能だ。殊におまえが、その顔を光の方へ向けているのならば尚更のこと。
百の林檎を数えようが、百のマルメロを数えようが、一緒に潰してしまえばそこにあるのは「林檎」だ、「百の林檎」ではない。精神における物事には、境界も無ければ数も存在しない。精神における物事には、分離も無ければ個人も存在しない。
友とひとつに溶け合うことの何という心地良さか。御方の友とひとつに溶け合うことの何という甘さか。姿形の型枠はとかく堅固だが、しかし怖れるな。勇気を出して一歩踏み出さぬことには何も始まらぬ。
勇気を捕えろ。そして踏み出せ、その足で。一歩踏み出せば艱難辛苦の荒波が襲いかかる。型枠など木っ端みじんに吹き飛ばしてしまう。隠された財宝を思え。和合という一なる財宝、姿形という型枠を破ってのみ得られるそれを。
そしてもしもおまえが、それを為し得ないと言うのなら。その時こそ預言者達の恩誼を思い出せ、彼らがそれをおまえの代わりに為すだろう - ああ、我らが心の導師達よ。その御顔を、我らの心の眼に映し出して下さる。私には見えるぞ、ぼろぼろに擦り切れたデルヴィーシュの衣を身に纏うておられるぞ。
我らも全てもまさしく唯ひとつ
頭も無ければ足も無い
部分などというものは無い我らも全てもまさしく唯ひとつ
太陽がそうであるように
水がそうであるように切れ目も無く結び目も無く
それはまさしく唯ひとつ
光が姿形に閉じ込められた時、唯ひとつであったそれは数を生ずる。要塞を取り囲む胸壁が分離の影を落とす。投石機を構えよ、胸壁を打ち壊せ。光を遮る胸壁を打ち壊し、差異という名の影もろとも消し去ってしまえ - これについては幾度も議論を闘わせてきた、私の意図するところは常にひとつ。貧弱な心を持つ者の、つまづきとならねば良いのだが。
私の議論の核心は、鋼の剣の切っ先ほどにも鋭い。もしも盾(議論を正しく理解する能力)を持たぬなら、今すぐ引き返して逃げるが身のため。堅牢無比の私の剣を、受ける盾も持たずに近寄るな。研ぎすまされたわが刃、切って捨てるなど雑作も無いこと。
さて、剣を鞘に戻すとしよう、さもなければ誤解を招きそうだ。人は常に私の言葉を取り違え、さかさまから読んでは理解したと思い込む。私の真意などお構い無しだ。さてさて、大急ぎで物語の仕上げに取りかかろう。誠実なる人々はその後どうなったであろうか。宰相亡き後、誰がその後継として名乗りを挙げたのであろうか。
忠実な心を持つ人々を前にして、司祭のうち一人が進み出た。「見よ」、司祭は言った。「我こそは人々を束ねる代理者である。導師亡き今、我こそはイエスの代理である。見よ、この巻物を。この巻物こそは我が証明、正統な後継者のみに与えられた巻物だ」。
そこへ待ち構えていた別の司祭が進み出た。そして先の司祭が偽者であること、自分こそが権威ある後継者であると訴えた。彼もまた脇の下に巻物を抱えていた。司祭は二人ながらに互いを罵り、相手に災禍が下るよう呪い合った。次から次へと、残りの司祭達も激しい勢いで乱入してきた。片方の手に抜き身の剣を持ち、もう片方の手には例の巻物を携えて。
かくして戦闘が始まった、荒れ狂う象の群れの如く凄まじい戦闘が。数えきれないほどのキリスト教徒達が殺された。刎ねられた頭が山のように高く積まれた。左を見ても右を見ても、視界に入るのは血飛沫の奔流。屍に屍が重ねられ、大地は夥しい砂塵を空中にまき散らした。 - 宰相が埋めた軋轢の種は、骨も震えて凍るほどの凄まじい破壊へと育ったのである。
胡桃の殻(肉体)とは、かくもはかないもの、固いようでいてあっけなく割れる。無傷のままでいられるのは、最も純なる核のみ。肉体という型枠に起こる死と破滅、これは石榴や林檎を割ることとも寸分違わない。良く熟れた甘い石榴であれば、石榴の蜜を作ることも出来る。だが腐った石榴であれば、嫌な音を立てて崩れる他はない。
真実は肉体を離れた死後に明かされる。誠実な者は御方の栄光に預かり、腐敗した者は汚辱に塗れる。真実の後を追え、姿形を崇拝する者よ。いと高き処を目指せ、真実は肉体の背中に生えた翼だ。真実の探求者達に交われ。御方の栄光を求めよ、自由を欲するならば。真実を捉えぬ精神を収めた肉体など、木刀を収めた鞘のようなもの。鞘に収めてあるうちは、貴重なもののように映るかも知れぬ。だが鞘から抜かれてしまえば、薪ほどの役にしか立たない。
木刀で戦場に出るような真似はするな!戦場に出る前に確かめておけ、それが真に剣であるか否か。さもなければいざ闘おうという時に、惨めな思いをすることになろう。それが木刀であったならば、行け、別の剣を探し出せ。それが堅固な剣であったならば、行け、歓びと共に兵列に加われ。真実という名の剣を、聖なる人々の武器庫に探せ。彼らに出会い、彼らと共に在ることは、万能薬を得ることにも等しい。全ての賢者達が異口同音に言っている、「聖者とは、人類に下された神よりの慈悲である」と。
石榴を買い求めるのなら、笑い顔の(※皮に裂け目のある)石榴を買え。石榴の顔に浮かんだ笑みが、中の様子を知らせてくれるだろう。ああ、笑いとはまさしく天上の祝福だ。大きく開いた口元を通して真心が見える。精神の小箱の蓋が開き、中から真珠が転がり出てくる。アネモネは蕾のままが良い、あれは笑わぬまま閉じている方が良い。開いたアネモネの芯の黒さ、あれは罪の黒さだ。
石榴が笑えば、庭一面の木も草も花々も笑う。聖なる人々と交われ。賢人との交わりは、人を賢人へと成長させる。岩であろうが大理石であろうが、扱いを知る者の手に渡ればたちまち輝く宝石となる。心の庭に聖なるものへの愛を植えよ、歓びをもってそれを為せ。むやみに自らを明け渡してはならぬ、聖なるものへの愛を守り育むためにも。それをもって希望とし、決して絶望に近づいてはならぬ。それをもって星々とし、決して暗闇に近づいてはならぬ。
精神は聖なる心の番人の許へと案内する。
肉体は汚水と泥土の牢獄へと案内する。賢者達との会話こそは心の滋養。
心に、それと調和する食物を与えよ。- さあ、行って熟達者を探せ、
自らを成熟させるために。
*1 「パンに潜む針」見かけは良いが悪質であることの比喩。
*2 「教友」預言者ムハンマドと共にあった最初期の入信者達を指す。
*3 「四十年積み重ねたはずの小麦」長年、積み重ねてきた宗教的行為を指す。
*4 コーラン18章18節。 「彼らが眠っているあいだ、われらが彼らを右に左に寝返りを打たせ、彼らの犬が入口で前足を伸ばしているところを見れば、汝もきっと彼らが目を覚ましているものと思ったであろう。もし汝が彼らを見たならば、恐怖に満ちて逃げだしたことであろう。」
*5 コーラン6章96節。 「暁を破りたもうお方であり、夜を安息のために、太陽と月を計算のために設けたお方。これこそ、威力ありすべてを知りたもうお方のおとり計らいである。」
*6 コーラン18章9〜26節。 <参照>
「ユダヤの王とキリスト教徒」
ジェラールッディーン・ムハンマド・バルヒー・ルーミー