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創造と進化について - おわりに
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『事象が時間的発展を遂げる(遂げつつある)』という論理は、ダーウィンが生物学の分野において、それを物理的に証明する以前に、すでに発想としてはイスラームの裡にも存在しており、イブン・ルシュド、イブン・ハルドゥーン、イブン・アラビー、そうした知識人達が様々な状況証拠をあげて『創造は一度きりではない』ことを述べている。ウィリアム・ドレイパー卿は数百年ほど前のモスクやマドラサで教えられていたそれを「ムハンマドの進化論」と名付け、それが生物の起源を鉱物(ミネラル)に遡って教えていることから、ダーウィンの進化論よりもさらに優れていると評した。 『アダムとイブの楽園からの追放』に見られる失楽園の世界観、終末思想、末法思想、そうした思考がイスラームには全くない、とはもちろん言い切ることは出来ない。ただしそれらは外来の思考である。過去を好しとし、現在を否定的に眺める発想はギリシア神話、ギリシア哲学にまで遡ることが可能であり、そうしたギリシア哲学の知の遺産を相続することに情熱を傾けたのもまたイスラームの哲学者達だった。 ただし、それと同時に、もしくはそれ以前から、預言者に啓示が下る以前の時代を『無明の時代』または『無知の時代』と呼び、過去を必要以上に美化しない現世肯定の発想こそがイスラームの主流でもあり、特色でもある。 科学には科学の領域があり、宗教には宗教の領域がある、というのはひとつの正論ではある。前世紀以前、つまり19世紀までは、科学の領域に関しては宗教がこれを明らかに侵していた。 そもそも科学と宗教とは全く矛盾しない。科学万能主義的な風潮を嫌うことはあっても、それが科学的な態度の重要性を損ねることはあってはならない。 科学的真理も宗教的真理も同じひとつの真理であり、『科学的には○○だが、宗教的には○○である』というような態度は欺瞞でしかない。それは私にとっては二神に仕えることを意味する。 『聖典とは精神の糧である』というような解釈も受け入れられない。私にとって聖典とは、精神にも心にも、魂にも、そしてもちろん躯にとっても座標軸となり得るものなのだから。 私は、私と私の躯のことを知りたい。 参考文献 『図説 種の起源』 チャールズ・ダーウィン 『生命40億年全史』 リチャード・フォーティ 『21世紀に伝えたいこと』 共著 『大博物学時代』 荒俣 宏 |
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