書道:Calligraphy
書道について思うところを書いた。



書道
書道の練習風景:Aieman




「コーランはアラビアにおいて啓示され、エジプトにおいて朗誦され、イスタンブールにおいて書かれた」という、古いトルコの言い回しがあります。カリグラフィは藝術のひとつの分野として認識されていますが、それと同時に、あるいはそれ以前に、神を讃えるさまざまな奉仕のひとつでもあります。

アラビア語を理解することは、カリグラフィを鑑賞するのに必ずしも必要な能力ではありません。もちろん、意味がある程度理解できるということが、鑑賞者の経験に深みを与えることは確かでしょう。けれど例えばオペラを楽しむのにイタリア語が必須でしょうか?そんなことは決してありません。

作曲家によって生み出された音楽と同様に、書道家の手によって美しく書かれた作品を通じて、書道家と鑑賞者との間に行われるコミュニケーションは、言語レベルよりももっと深くひそやかな意識の部分で行われます。

それは経験にかわるものではありません。知識にかわるものでもありません。ですが、経験と知識に確かな道しるべを与えるものとして、経験や知識にも換え難い重要なものです。

あらゆる藝術に共通して言えることは、それらが全て自然の模倣を出発点としていることです。自然を模倣するということは、神の創造を模倣することでもあります。神の創造がそうであるように、全ての自然とその模倣・再現はまず愛から始まっています。

ー先人の歩んだ道を探求するのではなく、先人が探求したものは何か、を探求しなさいーこれはやはり偉大な先人のひとりであり、探求者のひとりでもある松尾芭蕉のことば。

花に喜びを求めることを「華道」と呼び習わします。お茶に喜びを求めることを「茶道」と呼び習わします。そして筆に喜びを求めることを「書道」と呼び習わします。

そうした作法のひとつひとつには長い歴史と深い知恵があり、大切なことを学ぶことも出来ますが、それと同時に、自分の眼、自分の耳、自分の手そのものの喜ぶところに従うこともまた大切なことであったりします。それが無くては、連綿と受け継がれてきた作法と、それの指し示す道を歩むことは、単なる作業や、からっぽの労働と化してしまうことでしょう。

啓示は、イスラム初期には音として記憶されていました。文字の形を取った記録が今のかたちになったのは預言者ムハンマドの死後のことです。その時から、コーランを視覚的にも美しいかたちで記録し、伝えることと、それによって美しい記憶を共有することとの可能性が、さらに豊かなひろがりを見せるようになりました。

「イスラムにおけるカリグラフィは、『眼で聞く音楽』である」とは、ある書道家のことばです。『眼で聞く音楽』は、とても甘くておいしい栄養でもあったりします。





ヌーン。筆にかけて、筆の記録するものにかけて。
汝の主の恩恵にかけて、汝は取り憑かれた者などではない。
(コーラン 68章1-2節)



2001.**.


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