コーラン解釈の試み
犠牲祭について
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巡礼に続いて行われる犠牲祭についても、少しコーランを読んでみたいと思います。犠牲祭と訳されていますが、これをイード・ル=アドハー、Eid Al Adhaといいます。犠牲祭のなりたちについては「巡礼について」にも少し書きましたが、コーランにはこのようにあります:
神様が「すごい」のはもう分かりきったこととしても、この部分を読んでいて「すごい」といつも思うのは、イブラーヒームという方と、その息子さんです。この部分には、何だか背中をどやされるようなきもちになります。 場面としては非常に根源的で衝撃的です。息子を殺そうという父親と、父親に殺されようという息子。この二人が、一見すると全く相反する立場にあるようでいて実は全く同じ「ひとつ」であることの不思議。人間というのはそもそも矛盾した生き物なのである、というのが理解できますか。 神様はかれらの信仰を愛で、「大きな犠牲」great animal sacrifice、によって購いますが、これは「いつ・いかなる場合であっても、人間の生命は尊重されなくてはならない」というヒューマニズムの大原則を、神様がイブラーヒームを試すことによって、私たち後世の者に知らしめている、という節でもあります。 ちなみに、Eidについて:
この節で、「機縁」と訳されているのがEid・イードです。これはお互いがお互いに近づき合い距離を縮めるためのできごとを指します。 イーサーとは、つまりイエスのことですが、やわらかく嫋々としていてすてきなお祈りです。優美なだけではなく、伝えるべきをきちんと伝える強さなども、いかにも清廉なこのひとらしい感じが漂っていて、私は個人的にこのお祈りが大好きです。 2005.01. |