コーラン解釈の試み
巡礼について
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神様が休みなく働いてくれているおかげで、こうしてまた巡礼の月がやってきました。せっかくなので巡礼とそれに続く犠牲祭について、少しだけコーランを読んでみようと思います。日本ムスリム協会の訳から抜粋:
比較的()括弧が多い翻訳で、タワーフ?キヤーム?ルクーウ?なんのこっちゃ?と思う方もおられるかも知れません。タワーフとは、巡礼の際の動作を示す言葉でもありますが、もともとは参加する、(主に喜びや成功、責任などを)分かち合う、シェアする、などの意味があります。キヤーム、ルクーウ、サジダなども、礼拝に限って言えばそれぞれ上記の抜粋にある通りです。(ただし、コーラン原文ではここに礼拝と言う言葉は出てきませんが。) 「聖なる家」というのは、現在はサウジアラビア領内に位置するカアバ神殿を指します。さらに根源的なことを言えば、これは「こころ」のことを指してもいるわけです。神様の建てた家のうちもっとも聖なる家というのは、人間ひとりひとりの心です。神様が「われの家を清めよ」と言ったとき、それは心をきれいにね、という意味でもあります。 そう考えてもう一度上記の節を読むと、また違ったものが見えてくるかも知れません。人間にとっては生まれてから死ぬまでの全てが聖なる巡礼である、というのは、涙が出るほど本当にその通りですね。 誰もがみなそれぞれの聖なる家を目指す巡礼者であるということ。それと同時に、誰もがみな巡礼者を迎え入れるための聖なる家でもあるということ。 タワーフする者=人生という巡礼に共に参加し、一緒に泣いたり笑ったりする家族や友人たち、その他多くの出会うべくして出会う人たちを、迎え入れるのにふさわしいように、心を美しく清めなさい、という感じでしょうか。その準備があって初めて、肉体のレベルでの移動、宗教的儀式としてのメッカ巡礼があり、カアバの周囲を巡る、という意味でのタワーフが行われます。この巡礼は、肉体的・経済的に可能な者だけが行います。太陰暦をもとに巡礼の時期を計算するので、毎年少しづつ(めやすとしては約11日程度)前倒しになります。 「御利益」という言葉も出てきましたが、実際に巡礼にはどのような御利益があるのか、と言うと、例えばマルコムXはその手紙の中で、巡礼が彼にもたらしたベネフィットすなわち「御利益」について、こんなふうに書き残しました:
イスラム教徒は、巡礼を貴重なものと見ていますし、一種のピークとして捉えています。ですから巡礼に関する疑問や質問があれば、多くのイスラム教徒がそれを大歓迎するでしょうし、同時に感謝もすることと思います。巡礼に続いて犠牲祭がありますが、いわゆる非イスラム社会にあるモスクの多くは、こうした行事の際の、非イスラム教徒の隣人たちの訪問を歓迎していますから、何か知りたいことがあったら出かけてみて、ひとりふたり、うまいこととっつかまえてはなしを聞いてみるのもおもしろいかも知れません。 犠牲祭というのは、預言者イブラーヒーム(アブラハム)が、その息子さんを神様への犠牲に捧げようとしたところ、神様がそれを留めて代わりに羊を捧げるよう命じた、という故事にちなんだ行事で、羊さんや牛さん、山羊さんや駱駝さんなどを屠ります。 屠殺には流血が付きものですが、「それらの血も肉も、決してアッラーに達するわけではない。かれに届くのはあなたがたの篤信(タクワー)である。(コーラン22章37節)」とある通り、屠ることや、流れる血それ自体が目的で行われるものではありません。 言うまでもないことですが、神様が生け贄を必要としている、というようなことでは全くありません。そうしたファンタジーとは全く種類の違うことです。 最初のコーランからの引用にもありましたが、屠ったお肉もその根源をたどれば、屠ったわれわれ自身のため、人間のために、神様が以前から用意しておいて下さったものです。お肉はきれいに処理されて、親類であるとか、経済的に困難な状況にある方々に配られます。 2005.01. |